古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

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戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次 

 

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

 (このページは、関ヶ原への百日①~慶長五年八月 です。)

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

慶長5(1600)年8月

8月1日 「午前、伏見城は落城した。」(藤井治左衛門、p195) 

8月1日 「黒田如水は、吉川広家に対し、東軍に応ずることを勧め、人質の安全を計らしめた。」(藤井治左衛門、p195)

8月1日 「徳川家康は、脇坂安治の款に対し、答書を送った。」(藤井治左衛門、p195)

8月1日 毛利輝元前田玄以石田三成増田長盛長束正家、「連署し、木下利房に対して、北庄に扶援を命じた。」(藤井治左衛門、p197)

8月2日 前田玄以増田長盛長束正家、「鍋島勝茂毛利勝永に対し、伏見の戦功を賞した。」(藤井治左衛門、p198~199)

8月2日 徳川家康、小山発ヵ(同日付森忠政宛家康書状写「先刻于江戸帰陣申候」『家康』)。(『居所集成』、p118)

8月2日 毛利輝元里神楽執行(『舜旧』)。(『居所集成』、p233)

8月2日 前田利家は、北国において、大聖寺城攻撃の前日、部下の諸隊長に軍令を発した。(藤井治左衛門、p199)

8月2日 宇喜多秀家毛利輝元前田玄以石田三成増田長盛長束正家、「徳川家康の非行を挙げ、書を発し、真田信幸を誘った。(藤井治左衛門、p200~201)

8月3日 「徳川家康の士、永井直勝は、美濃国黒野城主加藤貞泰に返書を送り、加藤平内の出陣に対する家康の賞詞を伝え、併せて家康軍の概況を報じた。」(藤井治左衛門、p201)

8月3日 「伊達政宗は、答書を井伊直政等に送り、上方を後にし、会津攻略を前にすべしとの意見を述べ、併せて大坂の妻子を捨て一意御奉公申すべきことを披瀝した。」(藤井治左衛門、p202)

8月4日 「黒田如水は、吉川広家に返書を送り、更に親交の意を通じた。」(藤井治左衛門、p203)

8月4日 毛利輝元宇喜多秀家前田玄以増田長盛石田三成長束正家は、「西軍の状況を松井康之に報じ、杵築城退城を命じた。」(藤井治左衛門、p204~205)

8月4日 「徳川家康は、福島正則井伊直政の先発を報じ、更に尾張の無領主の地を与えた。」(藤井治左衛門、p206)

→書状中の「明地(無領主の地)」というものが何であるかは不明です。明地であれば普通は収公されているもののはずです。いずれにしても、家康に独断で勝手に領地を差配するような権限は当然なく、徳川家康は豊臣公儀に対する叛逆の意思を露わにしたと書状といってよいでしょう。

8月5日 家康、江戸着(7日付伊達政宗宛家康書状「一昨五日江戸致帰城候」『家康』)。同日江戸在(同日付福島正則等宛家康書状『家康』)。(『居所集成』、p118)

8月5日 「石田三成は、真田父子に対し、伏見落城と、其の他上方の状況を報じ、更に関東へ向かうべき西軍の部署を示した。」(藤井治左衛門、p206)

8月5日 石田三成大坂城を出て佐和山城に戻る。(『居所集成』、p306)

8月5日 「石田三成佐和山に帰り、瀬田の守備を熊谷直盛・垣見一直・相良頼房・秋月種長・高橋元種等に委せ、毛利秀元吉川広家は伊勢に入って、関に陣し、長束正家安国寺恵瓊等は、進んで伊勢国安濃郡椋本に陣した。」(藤井治左衛門、p218)

8月5日 「毛利輝元宇喜多秀家連署を以て、鍋島直茂毛利勝永伏見城攻略の戦功を賞した。」(藤井治左衛門、p218)

8月6日 「石田三成は真田安房守父子に対し、上方の状況を報じた。」(藤井治左衛門、p224)

8月7日 「徳川家康は、上田庄下倉城主小倉政照を攻めて、これを攻略した堀丹後守に対して感状を送った。」(藤井治左衛門、p227)

8月7日 「徳川家康は、伊達政宗に対し、八月五日江戸帰城と、会津上杉景勝に対する処置を報じた。」(藤井治左衛門、p227)

8月7日 「徳川家康は、美濃国黒野城主加藤貞康に対し、書を送って、加藤平内の出陣を賞した。」(藤井治左衛門、p227)

8月7日 「石田三成は、佐竹義宣に対し、大坂城西の丸の処置と、伏見城の攻略に併せて、諸将の去就と西軍の作戦を報じた。」(藤井治左衛門、p228)

8月8日 「本多正純は、黒田長政に対し、本多忠勝を先発として、清須に向かうことを報じた。」(藤井治左衛門、p230)

8月8日 「徳川家康は、黒田長政に書を送り、吉川広家の書状により、毛利輝元の二心のないことを知り、満足の意を表した。」(藤井治左衛門、p230)

8月8日 「徳川家康は、石川貞清の送款に対し、答書を送った。」(藤井治左衛門、p231)

8月9日 三成、美濃垂井に出陣。(『居所集成』、p306)

8月9日 「徳川秀忠も、家康同様、堀秀政(筆者注:堀秀治の誤りと思われる)に感状を送った。」(藤井治左衛門、p231)

8月9日 「美濃国黒田城主一柳直盛は、石田三成の誘いを退けた。」(藤井治左衛門、p231~232)

8月10日 三成、大垣城に入る。その後一旦佐和山に戻り、9月初め再び大垣に到着。(『居所集成』、p306)

8月10日 この頃に浅野長政甲州に戻る予定だった(8日付小河久介宛小河越中書状写「太祖公済美録」)(『居所集成』、p328)

8月10日 「藤堂高虎は、熱田に到着した。」(藤井治左衛門、p232)

8月11日 輝元、西洞院時慶より祓札を送られる。(『時慶』)。(『居所集成』、p233)

8月11日 伊達政宗白石城普請(「此普請中(中略)五六日も此方にかたくおき候て可燃候」『政宗2』)。(『居所集成』、p285)

8月11日頃 「織田秀信は、井口道場に禁制を出した。」(藤井治左衛門、p233)

8月11日 「岐阜城織田秀信の家老百々安信は、稲葉郡上川手村へ、竹林伐採停止の状を出した。」(藤井治左衛門、p233)

8月12日 「徳川秀忠は、伊達政宗に答書して、政宗の善処を賞め、以後、家康の指揮に従うようにと諭し、秀忠自身は、宇都宮に在ることを報じた。」(藤井治左衛門、p233)

8月12日 「徳川家康は、加藤清正に対し、相異なく味方をするならば、肥後・筑後の両国を与えるとの返書を送った。」(藤井治左衛門、p234~235)

8月12日 「徳川家康は、伊達政宗に対し、会津攻略をと思って出陣したが、福島正則田中吉政池田輝政細川忠興等が、上方を先にすべきだと言い出したので、江戸迄帰陣したから、その方面については、善処してもらいたいと申し入れをした。」(藤井治左衛門、p235)

8月14日 政宗白石城発、北目城着(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

8月15日 近衛信尹、参内。後陽成天皇より「天下無事義」(関ヶ原合戦のこと)について仰せ聞かさる。(『居所集成』、p391)

8月17日 信尹、徳川方・大坂方和議のことについて西洞院時慶へ申し聞かす。(『居所集成』、p391)

8月18日 北政所、早朝、豊国社へ社参す(『舜旧』)。(『居所集成』、p430)

8月21日 家康、江戸在(同日付堀親良宛結城秀康書状写「内府も(中略)此四五日比二江戸可被罷立由二候」)。(『居所集成』、p118)

8月22日 福島正則ら、木曽川の萩原渡、尾越渡を越える。(『居所集成』、p335)

8月23日 正則ら、岐阜城を攻略して尾張まで退いたのち、佐和山表への進軍を予定している。(「系譜」)その後、大垣城周辺に陣を構える(「大洲加藤文書」)(『居所集成』、p335)

8月24日 輝元、北野社へ初穂献上。(『居所集成』、p233)

8月24日 長政、家康より、中山道を進む徳川秀忠を助けるよう依頼される(同日付長政宛徳川家康書状『浅野』)(『居所集成』、p328)

8月29日 北政所、禁裏の側ゆえ戦乱に巻き込まれることを慮ってか、周囲の石垣・塀・門などを破却させた(『義演』『時慶』)。(『居所集成』、p430)

 

 参考文献

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1979年

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年