古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

読書メモ:オンライン三成会『決定版 三成伝説』第六章 朝鮮・文禄の役~日本人は無人に罷りなり候

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 オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現残る石田三成の足跡』(サンライズ出版、2016年)に所収されています、中井俊一郎氏の「第六章 朝鮮・文禄の役~日本人は無人に罷りなり候」の記述が印象深かったため、以下に引用します。

 

「ちょうどこの頃(筆者注:朝鮮出兵文禄の役)が始まり、石田三成ら軍目付が秀吉の代理として朝鮮を渡海し、漢城に着城した文禄元(1592)七月頃)三成らが書いた注進状が残っている。それは三成の戦略眼の確かさを示したものである。

 注進状の中で三成は前線での兵粮不足の問題をあげ、秀吉に命じられた年内の明国進攻は不可能であることを述べている。また戦線がバラバラに延びきっており、日本側が分散していること(「日本之一ヶ国程へ人数千二千ほと参候分にて」)、治安が悪化しており往来もままならないこと(「跡之路次無人にて通路たやすからず」「国都静謐つかまらず」)などの現状の問題を指摘している。その上で、このままでは局地戦には勝てても補給の続かない日本側は全滅するだろう(「勝ち申しうちに、日本人は無人に罷りなり候」)と述べているのである。これはまさに、当時の日本側の問題点と、文禄の役の行く末を正しく言い当てたものであった。連戦連勝に浮かれる武将たちの中で、三成はこの戦役全体の行方を見据えていた。

 三成は延びきった戦線の整理と、朝鮮の治安を最重要課題に捉えているが、占領地の拡大を第一に考える武将たちとは、その見解は一致しなかった。(後略)」(前掲書p46)

 

 文禄の役がはじまったのは文禄元年四月、五月三日に漢城が陥落、六月六日に奉行衆が渡海をはじめ、この書状が書かれたのは七月か八月頃とされます。

 上記で中井俊一郎氏が指摘するとおり、豊臣軍の武将たちが連戦連勝に浮かれる中で、冷静な現状分析を行い、この戦いの行く末を三成は見通していたといえます。 

 ただ、この三成のような人物は、周りの武将からは勝利の水を差す存在として嫌われたのかもしれんな、と思うと悲しい気分になります。

 

(令和3年1月3日追記)

 このエントリーを記した後、いくつかの「唐入り」関連の書籍を読んで思ったことですが、秀吉の六月三日軍令の主眼である「明国への侵攻」を実際積極的に行いたいと考えていたのは、正直加藤清正ぐらいしかおらず、他の諸将は明国への侵攻よりも、朝鮮国内の安定的支配を優先すべきと考えていたように見受けられます。石田三成大谷吉継増田長盛の上記の書状に書かれた注進も、現地の多くの武将の本音を代表するものだったのではないかと考えられます。

 

※ この書状の詳細については、下記に記しました。↓

文禄の役時の石田三成の動向について②~勝申候内二日本人ハ無人ニ罷成候 

 

(令和3年1月7日追記)

 上記の書状を発出した後の、三成他奉行衆及び朝鮮諸将の動きについて、中井俊一郎氏の「第六章 朝鮮・文禄の役~日本人は無人に罷りなり候」オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現残る石田三成の足跡』(サンライズ出版、2016年)所収、p46~48に記載されていますので、引用します。

「そしてやがて三成の危惧が現実のものとなるターニングポイントがやってきた。年が明けた文禄二年(一五九三)一月、李如松率いる明の大軍が小西行長の守る平壌へ来寇したのである。

 

対立する三成と武将たち

 

 寒気と兵粮不足に悩まされて行長は、この明軍の攻撃に耐えきれずに敗走、前線の日本郡は総崩れとなる。文禄の役、最初の敗北である。この危機にあたって三成は、戦線を一気に縮小、漢城まで撤退し、自軍を結集し反撃することを主張した。だがこの三成の戦略では占領地の多くから無血撤兵することになる。占領地を放棄することに武将たちは激しく反発した。その反対の最先鋒は小早川隆景であった。

 小早川隆景は、漢城よりずっと北方にある要衝・開城(ケソン)で明軍を迎撃することを主張した。開城は大河臨津江(イムジンカン)北岸にあり、軍事上は極めて重要な場所であり、秀吉も書状で、その厳守を命じていた。

 だが大河を背にした開城では、補給を断たれれば孤立するその危険性を示し撤兵を促す三成に対し、隆景が放った言葉は、「三成の臆病ものめ(大明多勢に臆病風でも差し起し候哉)」であった。①

 隆景だけではない。加藤光泰も加藤清正も占領地を手放すことに反対した。目先の利益を失うことに耐えられなかったのだ、戦略をめぐる三成と隆景の対立は激化するが、大谷吉継・前野長泰が両者を仲介し、ようやく隆景は撤兵に同意する。

 

三成の正義

 

 文禄の役のその後の経緯を見れば、三成の判断が正しかったことは明らかである。ただでさえ兵粮不足の日本側が、補給の困難な開城の占領に固執していればもっと悲惨な状況に陥っていたことは間違いない。

 三成らの指示のもと、漢城に集結した日本側は追走してきた明軍を迎え撃ち、これに大勝する。史上名高い碧蹄館の戦いの勝利である。この極地戦の直接の功績は、戦場で巧緻な戦術を見せた立花宗茂小早川隆景の活躍に帰するものであるが、その背後には三成の正しい戦略眼があったことを見過ごすべきではない。三成は目先のことにこだわることなく、大局的な視点から戦略指導を行ったのである。

 碧蹄館の戦いの後、三成らしいエピソードがある。開城無断撤兵をとがめる問責使が漢城にやって来た。朱印状をもって厳守を命じた地を勝手に撤兵したことが秀吉には許せなかったのだ。この時、責任をおそれうつむき黙り込む諸将の中で、三成一人が立ち上がり開城撤兵の理由を滔々と述べたという。三成は責任を一人で被るつもりだったのだろう。②

 だが結局碧蹄館の勝利でも文禄の役の戦局を変えることはできなかった。この勝利からわずか三ヶ月後には日本側は王城漢城も維持できなくなり、朝鮮南岸へ撤退していく。

 その中で三成が自らに下した結論は早期講和であった。このあと三成は一貫して、明との講和、戦いの早期終結を働きかけていくのである。臆病者と言われた三成のそれが正義であった。文禄の役における三成の行動を追うと、そのまっすぐな性格と高い視点がよく理解できる。」(下線部筆者)

 

 以下、コメント(上記で掲げられた史料が正しい前提としてのコメントです。)

 上記下線部の「その危険性を示し撤兵を促す三成に対し、隆景が放った言葉は、「三成の臆病ものめ(大明多勢に臆病風でも差し起し候哉)」であった。」①が本当に小早川隆景の本音であったかは不明です。実際に、「臆病」と秀吉に評価されてしまうと、その大名は改易の危機に陥ってしまう訳です。このため、秀吉の命令の裏付けのない三成の提言に対して、隆景が本当は三成の判断が正しいと考えていたとしても、うっかり三成の提言に賛成してしまえば、後々秀吉の不興を買うような提言をした三成共々隆景も巻き込まれて粛清(改易)されてしまう危険性がある訳です。このため、隆景の本心が三成の策に賛成であろうと、一旦は反対し、大谷吉継らの説得を受けて渋々了承する形にして、この判断は奉行衆の責任によるものであり、自らには責はないということを示す必要がありました。

 

「この時、責任をおそれうつむき黙り込む諸将の中で、三成一人が立ち上がり開城撤兵の理由を滔々と述べたという。三成は責任を一人で被るつもりだったのだろう。」②というのも、そもそも開城(ケソン)撤兵のような提言をすること自体が秀吉の逆鱗に触れかねない行為であり、このような秀吉の怒りを買うような主張をした時点で、三成は一人で責を被る覚悟を決めたのでしょう。朝鮮在陣の奉行衆(石田三成大谷吉継増田長盛)は、秀吉の逆鱗に触れる危険性を覚悟しつつ、戦地で日本軍を壊滅させないために、危ない橋を渡り続け決断を迫られる日々を過ごしていたのです。

 

※ 参考エントリー↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十一(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相②~朝鮮在陣諸将の独断決定はどこまで許されるか