古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

文禄の役時の宇喜多秀家の立ち位置と黒田官兵衛の動きについて

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1 文禄の役における宇喜多秀家の立ち位置について 

 文禄の役における宇喜多秀家の立ち位置について、中野等氏の『秀吉の軍令と大陸侵攻』(以下①)を参考文献としてみていきます。(以下「」内の記載は、中野等氏前掲書からの引用です。

 天正二十(1592)年四月より始まる文禄の役での宇喜多秀家の立ち位置は、「漢城にあって前線の諸将を統括する立場にはあったが」(①p158)、「彼とて基本的には一軍団(中略)の長であり、そうした意味合いにおいては、他の諸将と同列の存在」(①p158)でしかありませんでした。これは、これまで「総大将はあくまで渡海が予定されている秀吉」(①p158)であったためです。

 しかし、文禄二(1593)年二月十八日付の秀吉朱印状発出に至って、「平壌の敗戦(筆者注:文禄二(1593)年一月七日の小西行長らの平壌退却のこと)に端を発する自軍の退勢という事態に対して、秀吉は軍勢としての一体性・有機性の確保を強く求め」(①p158)、「宇喜多秀家を頂点、すなわち「大将」とする朝鮮侵攻軍の再編」(①p158)を行うことになります。

 このほか、小早川隆景を「宇喜多秀家以下「若者共」の後見が命じられ」(①p159)、「十八日の「覚」では、前野長康(但馬守)・加藤光泰(遠江守)らに対しても「宿老」という位置づけを与えて、秀家に対する意見・助言を促してい」(①p159)ます。

 このように、文禄二(1593)年二月十八日付の朱印状をもって、朝鮮に在陣する諸将は宇喜多秀家を頂点(大将)とする形に再編された訳ですが、秀吉は更に「兵粮の手当を主務」(①p161)として浅野長吉及び、「「御行」すなわち直接的な軍事問題への対処」(①p161)を託すために黒田孝高の両者に渡海を命じます。二月二十八日付小早川隆景宛秀吉朱印状には、「その後の軍事展開(御行)について「一書」を託した黒田孝高(勘解由)の指事に従うべく命じて」おり、秀吉が軍事展開について、黒田孝高に具体的な指示をしていることが分かります。

 この、秀吉が黒田孝高に「一書」で託した具体的な指示とは何か。おそらく、「漢城放棄をやむを得ないことしながら」(①p162)、「全羅(赤国)・慶尚(白国)・忠清(青国)三道の実効支配を目指し」(①p164)、「そのためには「もくそ城」(晋州城)の攻略が不可避の戦略課題と考え」(①p162)たため、晋州城の攻略を現地の諸将に指示するよう黒田孝高に命令したということだと考えられます。秀吉の晋州城攻略命令は三月十日付の「覚」において詳細な命令が出されることになります。(①p164~171)

 

2 文禄の役時の黒田(官兵衛)孝高の動きについて

 以下では、新たに秀吉に渡海を命じられた黒田孝高の動きについて記載します。こちらについては、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」(以下②)を参考文献としてみていきます。(以下「」内の記載は、中野等氏前掲書からの引用です。) 

 黒田孝高は、文禄の役においては天正二十(1592)年四月から五月にかけて一度渡海し、毛利輝元小早川隆景らと同道していますが(②p167)、病となり秀吉の許しを得て九月末に帰国(②p168~169)この後病が快癒したのでしょう、今回の渡海命令は再渡海ということになります。

 文禄二(1593)年二月中旬に浅野長吉とともに渡海した黒田孝高は、二月下旬には釜山浦に到着しますが、両者とも北上はせず、そのまま釜山付近にとどまっています。これは半島南岸での拠点形成に従っていたとみられます。(②p169)

「さて、漢城をめぐる戦線は膠着し厭戦気分も拡がるなか、明軍は捏上(でっちあげ)の勅使を小西行長の陣営に投じる。日本側はこれを明軍降伏(詫び事)の使節と解釈し、名護屋の秀吉に経緯を伝えた。石田三成増田長盛大谷吉継ら奉行衆と小西行長は偽りの明国勅使を伴って名護屋へ向かう。朝鮮半島を南下してきた奉行衆は官兵衛・浅野長吉と面談する必要を感じたようであり、梁山での合流と決した。」(②p170)

 しかし、この梁山での会合では浅野長吉のみが出向き、黒田孝高は出向きませんでした。孝高は、「朝鮮半島での処置について秀吉の指示を仰ぐため肥前名護屋城に戻ることになる。この間の経緯について、フロイスの『日本史』は次のように記している。

 

 関白(ここでは秀吉)は朝鮮に使者を派遣し、黒田官兵衛殿がその武将たちをもって赤国(全羅道)を攻略し、ついで越冬のための城塞工事に着手するように、と命令した。だが、朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの見解が有力であったので、彼らは官兵衛殿を他の重臣とともに、関白の許に派遣してその意向を伝えることにした。

 

 ここでいう「赤国(全羅道)」とは、具体的に晋州を指す。晋州は慶尚道に位置しているが、当時日本側は何故かここを全羅道と属していると認識していた。沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきかで、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻ろうとしたのである。五月二十一日、官兵衛は名護屋に到着するが、こうした行動は軍令違反ととられてしまう。秀吉の不興をかった官兵衛は対面すら許されずに朝鮮に追い返されてしまう。」(②p170~171)

 また、中野等氏は前田玄以豊臣秀次側近駒井重勝に充てた書状をもとに「この時期の秀吉にとって晋州城の攻略は何よりも優先される軍事上の課題であった。官兵衛はこの晋州城攻略に何らの手配も施さないまま、名護屋に戻ったと見なされたのである。先に述べたように、官兵衛には官兵衛なりの理由もあったのであるが、秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされたのである。」(②p172)としています3.

 

3 黒田孝高の(無断)帰国はなぜ秀吉の激怒を買ったのか?

 上記より、黒田孝高の(無断)帰国が、秀吉の激怒を買ったのか以下にまとめることができるかと思われます。

① 元々、孝高への渡海命令の目的そのものが、晋州城攻略への手配を朝鮮在陣諸将へ指示することだったのでしょう。まず、この命令を実行することをせず、何らの手配も施さないまま、名護屋へ勝手に戻れば職務違反以外の何物でもありません。

② 「朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの見解が有力であった」とのフロイスの言ですが、朝鮮にいる武将たちも多数いるわけで、そのうちの誰の意見なのかフロイスの記載では不明です。釜山に留まった孝高が朝鮮在陣の将全員の意見をとりまめられたとは考えられず、「沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきか」の判断(晋州攻略を優先する判断ならば秀吉の判断そのままですので帰国して秀吉と相談する必要はなく、帰国して秀吉と相談する必要があるとしたら、それは「沿岸部の城塞構築を晋州城攻略より優先すべき」という判断をしたということになります)は、現地の武将の意見もあったでしょうが、結局、孝高個人の見解といってよいと考えられます。

 もちろん、現地を見て「秀吉の命令はこうだが、現地で見聞した判断ではこうすべきだ」と判断が分かれる場合もあるでしょう。しかし、この場合も、二月十八日付の秀吉朱印状発出より、朝鮮在陣の「大将」は宇喜多秀家であり、宇喜多秀家を頂点とする「現地指令部」と相談の上、現地の判断を具申すべき話な訳です。

 実際に現地の司令部の判断と、元の秀吉の命令が食い違うこともあった訳で、例えば、秀吉の当初の命令では最前線の拠点を尚州付近としました(①p163)が、「在朝鮮の諸将は、尚州を最前線とする案が現実的ではない旨を秀吉に伝えたようであ」(①p173)り、これに対して「四月十二日にいたって秀吉は、宇喜多秀家毛利輝元らの諸将に充てて、晋州城の攻略を最優先することを条件に、朝鮮における諸将の駐屯場所を現地の判断に委ねることを伝えてい」(①p173)ます。このように秀吉に対する意見具申が正式なルートを使って出された場合は、秀吉も現地の判断に委ねることをしている訳です。

 これに対して、意見具申をする訳でもなく、いきなり帰国して秀吉と直談判に及ぼうとする孝高の行動は、現地の指揮命令系統を完全に逸脱しており、その独断による行動そのものが秀吉としては許されざる越権行為とうつったのだと考えられます。

 また、文禄二(1593)年二月十八日以降、「大将」に位置付けられた宇喜多秀家についても、これ以降何でも現地の「大将」の判断で直接指揮命令ができるようになった訳でもなく、戦略的な判断については、(これまでと同じく)秀吉の判断を仰がねばらならなかったことが分かります。

 

 なお、中野等氏は「『黒田家譜』などは三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。しかしながら、長吉が梁山に乗り込んで三成等と会談は行ったわけであり、秀吉による叱責の理由も既述した通りである。『黒田家譜』の挿話は、後年石田三成等を貶めるために創作されたものに過ぎず、史実として採用することはできない。」(②p173)としています。

 

 参考文献

・中野等①『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年)

・中野等②「黒田官兵衛朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版社所収、2014年)