考察・関ヶ原の合戦 其の十(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相①~蔚山籠城救援戦で追撃戦はあった、長政・家政が処分された本当の理由
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※前回のエントリーです。↓
それでは、今回から、慶長の役の時の黒田長政・蜂須賀家政の行動が、秀吉の咎めを受け、処分を受けるに至った事件の実相及び、この事件が関ヶ原の戦いに及ぼした影響について検討したいと思います。
1.慶長の役、はじまる
2.蔚山籠城戦→救援戦→追撃戦
3.「なぜ、明・朝鮮軍を追撃しなかったか」(×)→追撃戦は行われていた。(〇)
1.慶長の役、はじまる
文禄の役の、日本と明・朝鮮の講和交渉が破綻したため、秀吉は再び朝鮮半島への再出兵を号令します。
文禄の役は、「唐入り(明への侵攻)」を当初の目的としたものでした。
しかし、今回の再出兵(慶長の役)の目的は、文禄の役の講和交渉時に秀吉側が主張し、明・朝鮮側から拒否された、朝鮮半島南部の日本の支配権を、実力を持って確保することを目的とするものです。
このため、文禄の役と慶長の役は、その戦争目的が大きく異なりますので、この点は、注意が必要です。
慶長二(1597)年七月に、巨済島沖の漆川梁海戦で、日本側水軍(藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明)が、元均指揮下の朝鮮水軍を破り、朝鮮水軍を撃ち破ります。(*1)
八月には、宇喜多秀家を総大将とする島津義弘・小西行長・宗義智・蜂須賀家政らの率いる軍勢が、全羅道南原城を攻略、八月十六日に陥落させます。
一方、毛利秀元を総大将とする加藤清正、黒田長政、鍋島直茂、長宗我部元親らの軍勢は、黄石山城を落としたのち全羅道の道都である全州を占領し、そこから忠清道へと侵攻しますが、九月八日黒田長政の部隊は、稷山の地において、明将解生の率いる明軍と戦うことになります。
当初この戦いは互角ないし明軍の優勢のうちに推移していましたが、救援に駆けつけた毛利秀元の部隊が明軍の側背をついたため、明軍の陣容は大きく崩れ、明軍は水原の方面へ撤退しました。(*2)
しかし、秀吉軍は、九月半ばより一斉に向きを転じて南下します。これは、「明・朝鮮軍の抵抗を考えるならば、年内の漢城攻略は無理と(筆者注:秀吉軍が)判断し、朝鮮半島の厳寒をしのぎ、年明けの雪解けを待って大規模攻勢に出ることを予定しての暫定的な行動であったと見なすべきであろう。」(*3)と笠谷和比古氏は指摘しています。
2.蔚山籠城戦→救援戦→追撃戦
また、釜山の北東約50キロにある蔚山に、秀吉軍は防衛拠点として城を築きます。縄張りは加藤清正が行い、慶長二(1597)年十一月初めより毛利秀元の部将宍戸元続・浅野幸長および清正たちの配下の部将たちの手によって築城工事は進められます。
そして、蔚山城は、十二月二十二日に竣工し、本城の在番を担当する加藤清正に引き渡す予定となっていました。(*4)
しかし、十二月二十二日未明、明・朝鮮連合の大軍約5万7千人によって蔚山城は急襲を受けることになります。
まず、惣構外の仮陣所に宿泊していた毛利の部隊が襲撃を受けます。浅野幸長及び軍目付の太田一吉らは手勢を率いて、これを援けますが、惣構えの造りは不十分であり、援軍も含めて本丸に撤退することになります。
蔚山城襲撃の報を、同日西生浦城で受けた加藤清正は、側近二十余人とともに蔚山城の救援に向かい、同日夜半に入城します。
ここから、蔚山城の籠城戦が始まります。籠城軍の兵数は約2千と伝えられます。(*5)
秀吉軍が明・朝鮮連合軍の大軍の急襲を受けたのは、「斥候以下の警戒行動を怠って大軍の南下をまったく察知していな」(*6)かったからだとみられます。
明・朝鮮軍は、二十二日から二十四日の三日間激しく攻め立てますが、秀吉軍の守りも堅いため、無理攻めはあきらめ、兵糧攻めに転じます。
元々蔚山城には、兵糧が二日分しかなく、城兵側はたちまちのうちに飢えに苦しみ、「尿を飲み、壁土を口にした」(*7)という状況に陥ります。
翌年慶長三(1598)正月二日、蔚山籠城軍を救援するために、秀吉軍は西生浦城に集結し、同地を出陣して陸海両面から蔚山に向かいます。
陣容は、「毛利秀元三九〇〇、鍋島直茂一六〇〇、黒田長政六〇〇、蜂須賀家政二二〇〇、その他に加藤嘉明、長宗我部元親、生駒一正らの兵を合わせた一万三〇〇〇と、加藤清正の主力軍(筆者注:加藤清正自身は前述したように蔚山城に入城しています。)との総数二万余の軍勢であった。」(*8)
救援軍の到来を知った、明・朝鮮連合軍は、蔚山城を陥落させるべく、猛攻を加えますが、蔚山城は陥落せず、四日救援軍による攻撃を背後に受けた明・朝鮮連合軍は陣容を崩し、城の囲みを解いて退却します。蔚山籠城軍は救援され、加藤清正以下の将士は九死に一生を得ることになります。(*9)
「『明史』は、この戦いでの明軍の損害について「士卒死亡殆二万」と書いている。」(*10)とあります。
3.「なぜ、明・朝鮮軍を追撃しなかったか」(×)→追撃戦は行われていた。(〇)
さて、この蔚山城救援戦にて、上記の通り秀吉軍は明・朝鮮軍を撃ち破り多大な戦果をあげます。また、下記で述べるように追撃戦も行われました。
しかし、笠谷和比古氏は、「それにもかかわらず、実際には追撃戦はほとんど行われなかった」(*11)と、著書で述べられていますが、これは、笠谷氏の誤解です。
笠谷氏の著書で、蔚山城救援成功の報告を受けた秀吉が、その正月二十二日付で救援諸将に宛てた感状が紹介されています。以下引用します。
「一、蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付(つき)て、各川を越へ、追い打ちに数多く討ち捨つる由①、聞し召し届候、一揆懸に仕に付て、兵糧これ無く、人数これ無き故、これなき故、悉くは討果さざる段②、残り多く思し召され候事、
(中略)
一、慶州表へ追駆け、相働くきといへども、右の仕合わせ聞し召され候、然(しから)ば鍋島加賀[直茂]、黒田甲斐[長政]居城、心元なく候間、差し戻り候通り、書中に相見え候、書中に相見え候、追崩し候上、跡々心元なき由候て、差し戻り候との儀共、その沙汰に及ばざる儀に候ところ③、申し越し候、重ねても左様の儀ども言上に及ばざる儀に候④」(*12)(下線、番号筆者)
①に書かれているように、救援戦後に撤退する明・朝鮮連合軍への追撃戦は行われています。
だいたい、追撃戦を行うことなく、(*10)で書かれた「士卒死亡殆二万」などという大戦果を挙げることなど無理です。笠谷氏も述べる通り「浮き足だって敗走する敵兵を背後から襲いかかって討ち取る追撃戦ぐらい、多大の戦果を挙げる機会はないと言ってよい」(*13)からです。
では、何を秀吉は「残り多く思し召され候」と言っているのでしょうか。それは、②に書かれているように兵糧も軍勢も整わなかった(「兵糧これ無く、人数これなき故」)ため、相手を壊滅させることができなかった(「悉くは討果さざる段」)ことが残念だと言っているのです。
約五万七千人の大軍を壊滅させてしまえば、秀吉軍は、今後は圧倒的に戦いの局面を有利に展開させることができ、慶長の役の目的である朝鮮半島南部の実力支配という目的に大きく近づくことができたはずだと、秀吉は考えました。
秀吉の戦争とは、兵站を整備することが絶対の勝利条件です。中国大返しも、賤ケ岳の戦いにおける美濃大返しも、九州攻めも、北条攻めも、まず兵站を整備することによって、決定的な勝利を得ることができたのです。これが、秀吉が「常勝将軍(常勝関白?)」となった所以です。兵站があらかじめ整備されていれば、兵糧・軍勢を整えて、追撃戦を継続することが可能になり、相手を壊滅に至らしめることができたであろうに、と秀吉は残念がっている訳です。
百戦錬磨の将、軍事の天才である秀吉ならではの、みずからの経験に基づく、専門的視点からの秀吉の意見です。
ただ、これは「感状」なのですから、(この時点では)諸将をけなしているのではありません。戦果に対して一定の評価をして、その功を賞しつつ、この次は兵站を整えれば、更なる戦果が期待できるであろうと、秀吉は諸将に助言を行っているのですね。
ただし、蔚山籠城戦の最中に兵糧・水の不足から地獄のような労苦をした将兵への秀吉の気遣いや、救援戦・追撃戦で諸将が大戦果を挙げたことに対する秀吉の感激等は、この感状からは、ほとんど感じられず、ただ淡々と経緯と秀吉の分析が述べられているだけであり、この感状を受け取った諸将の感覚からは、大きくギャップがあったであろうとはいえるでしょう。
(追記)しかし、その後の在番諸将が蔚山城を含む城の引き払いを勝手に決めたことについては、三月十三日付秀吉の立花宗茂宛て朱印状を見ると、激怒していることが分かります。この時に、追撃戦において敵を取り逃して壊滅させられなかったことについて、改めて持ち出して怒っています。これは、城の引き払いを勝手に諸将が決めたことにより、怒りが増幅したことが原因だと思われます。(中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』p342~344参照)
後段は、「鍋島直茂や黒田長政は自分の居城が心もとないと言って引き上げてしまったようであるが、そのようなことはことさらに言うにおよばないことであり、今後は無用にするようにとの」(*14)意味です。
ここでは、「その沙汰に及ばざる儀に候ところ③」、「重ねても左様の儀ども言上に及ばざる儀に候④」と書かれているように、鍋島直茂や黒田長政が戦の後に、自らの居城(在番している朝鮮の居城)に引き上げたことについては、秀吉はまったく問題しておらず、今後このような報告は無用とさえ言っています。
この事が、後に問題視された訳でもありませんし、後の黒田長政の処分の理由にもなっていません。
(追記)
慶長三年正月二十五日付で秀吉は黒田長政に、蔚山城救援の功を賞する朱印状を送っていますので、この時点では秀吉は黒田長政の行動を問題していないことが分かります。「追い討ちに数多討ち捨て候由」とありますので、長政は追撃戦に参加して戦果を挙げたというのが、秀吉の認識です。(中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』p338)
後のエントリーで詳しく見ていきますが、蜂須賀家政と黒田長政が後に秀吉から咎めを受け処分される理由となったのは、
① 蔚山籠城救援戦において、蜂須賀家政と黒田長政は、その日の先手当番にありながら、合戦に敢えて参加しなかったこと(追撃戦ではなく、その前の救援戦です。)。
② 蔚山籠城救援・追撃戦後に、朝鮮在陣諸将の間で、戦線縮小が議論され、諸将は、秀吉の命も待たずに勝手に前線の城の放棄を指示しましたが、この戦線縮小案に関する連署状に蜂須賀家政も名を連ねたこと。
です。(*15)
②については、この戦線縮小案に関する連署状に名を連ねたのは、蜂須賀家政だけではありません。この連署状に名を連ねたのは以下の十三将です。(順番は、連署状に書かれた署名の順番の通りです。)
・毛利秀元(安芸宰相)
・蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)
・生駒親正(生駒讃岐守)
・脇坂安治(脇坂中務大夫)
・菅達長(菅三郎兵衛尉)
・松嶋彦右衛門尉
・菅右衛門八(菅達長の子?)
・山口宗永(山口玄蕃頭)
・中川秀成(中河修理大夫)
・池田秀氏(池田伊与守)
・長宗我部元親(長宗我部侍従)(*16)
上記から分かることを述べます。
第一に、ご覧の通り、十三将の中には関ヶ原の戦いで西軍についた武将も多く混じっています。だから、戦線縮小案を提案し、勝手に実行したことによって、この十三将が秀吉から叱責された事自体は、関ヶ原の戦いで、諸将が東西に分かれた理由ではありません。
蜂須賀家政以外の十二将が秀吉の「叱責」を受けたといっても、「処分」を受けた訳ではありません。
同じく名を連ねた藤堂高虎や脇坂安治に至っては、慶長三(1598)年六月二十二日付で、高虎は一万石、安治は三千石の加増すら受けています。(*17)
こうした点からいっても、この時の秀吉の「叱責」など、何の実態のないものに等しいのです。
第二に、黒田長政は、この連署状に名前が入っていません。入っていませんが、軍目付または秀吉からは、この十三将に同調する者とみなされたようです。(*18)
第三に、この連署状に名を連ねて、処分を受けたのは蜂須賀家政のみです。なぜ、他の十二将は処分を受けずに、蜂須賀家政のみが、秀吉の処分を受けることになったのか理由を考えることが重要です。
上記の理由を考えると、この連署状の本来の中心人物である、宇喜多秀家と毛利秀元は特に秀吉の「お気に入り」であり、秀吉としては、この両者の処分はしたくなかったのではないかと思われるのです。
しかし、秀吉としては、自分の命令を待たずに勝手な行動を取った朝鮮諸将に対して、一人でも二人でもよいので、「みせしめ」の処分を下す必要がありました。
命令違反は、本来は重罪であり、(秀吉としては)当然処分しなければならないが、その「みせしめ」として、本来の中心人物、宇喜多秀家と毛利輝元の処分はしたくはない。
よって、この「みせしめ」処分の対象としてリストアップするための、後付けの追加条件として①の、
「蔚山籠城救援戦において、蜂須賀家政と黒田長政は、その日の先手当番にありながら、合戦に敢えて参加しなかったこと(追撃戦ではなく、その前の救援戦です。)」
が、持ち出されたのだと考えられます。
処分が下される前に、軍目付等の書状には、この両者の①の行動が問題として取り上げられていません(といっても、私の知る限りですので、仮にそのような史料がありましたらご教示願います)ので、この行動は、本来はさほど咎めるほどの問題ではなかったのでしょう。
おそらく何らかの事情で、二人は先手当番を務めることができず、朝鮮在陣諸将はそれを内々に認めていたのでしょう。蜂須賀家政の事情はよく分かりませんが(兵力は二二〇〇です)、黒田長政の兵力は六〇〇と少なく、それが先手当番を免除された理由かもしれません。
こうしてみますと、①の処分条件追加により、「みせしめ」処分のリストアップ対象となった蜂須賀家政のお付き合いで、黒田長政は共に「みせしめ」処分の対象となった訳で、とんだ「とばっちり」といえるでしょう。
ただし、黒田長政の当時の正室(糸姫)は、蜂須賀家政の異母妹であり二人は縁戚でした。長政が家政と共に処分を受けたのは、あるいはこの縁戚関係による連座が重視されたのかもしれません。
(追記1)
秀吉が本心より、蜂須賀家政を戦線縮小案の中心人物とみなしていたという見解もあります。(山内譲『豊臣水軍興亡史』p219や、津野倫明「朝鮮出兵と西国大名」p234~239は、そのような見解と思われます。)
筆者は、秀吉が「みせしめ」として蜂須賀家政・黒田長政を処分したのではないかと考えますが、一方で秀吉が本心から蜂須賀家政(及び黒田長政)を戦線縮小案の中心人物とみなしていたという見解を否定する材料もないため、これは、どちらともいえません。
(追記2)
ただし、おそらく十三将の連署状の署名の順番は、責任者順だと思われます(宇喜多秀家も毛利秀元も上記で書いたように、各方面軍の総大将です。(そうすると、一番後ろの長宗我部元親の立場って・・・・・))
だから、NO.1、2の責任者である宇喜多秀家と毛利秀元を飛ばして、3番目の蜂須賀家政の責任を問うのはおかしいといえますが、秀吉政権に限らず「偉い人には責任は負わせない」という原則も日本にはありますので、総大将である宇喜多秀家と毛利秀元の責任が問えないならば、NO.3の蜂須賀家政の責任を問う、というのも日本的にはおかしな話ではないということになります。
そう考えると、本当に黒田長政は家政の縁戚による連座の側面が大きそうですね。
後述するように、この長政・家政処分事件に石田三成は関わっていないにも関わらず、七将襲撃事件で責任を問われたのは、秀吉に報告をした軍目付の一人福原長堯が三成の妹婿だったためで、縁戚関係による連座というのは、当時よく適用されていたことが分かります。
※この時、秀吉の処分を受けたのは、蜂須賀家政・黒田長政だけではなく、軍目付でありながら戦線縮小案に賛同した早川長政・竹中重隆・毛利高政の三名も処分を受けることになりますが、この点についても後のエントリーで検討したいと思います。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)笠谷和比古 2000年、p121
(*2)笠谷和比古 p122~123
(*3)笠谷和比古 2000年、p123~124
(*4)笠谷和比古 2000年、p125~126
(*5)笠谷和比古 2000年、p126~128
(*6)笠谷和比古 2000年、p128
(*7)笠谷和比古 2000年、p129
(*8)笠谷和比古 2000年、p130~131
(*9)笠谷和比古 2000年、p131
(*10)笠谷和比古 2000年、p131
(*11)笠谷和比古 2000年、p132
(*12)笠谷和比古 2000年、p132~133
(*13)笠谷和比古 2000年、p132
(*14)笠谷和比古 2000年、p133
(*15)笠谷和比古 2000年、p138~142
(*16)中野等 2006年、p339~341
(*17)山内譲 2016年、p221
(*18)笠谷和比古 2000年、p138~142
参考文献
・笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)(本文献についてですが、上記考察で記述したとおり、筆者と見解を異とする箇所が複数あります。本考察は、この文献の著者の主張の要約等ではありませんので、ご注意願います。)
・津田倫明「Ⅲ部 3章 朝鮮出兵と西国大名」(佐藤信・藤田覚『史学会シンポジウム叢書 前近代の日本列島と朝鮮半島』山川出版社、2007年所収)
・中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年
・山内譲『豊臣水軍興亡史』吉川弘文館、2016年