古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三十一 なぜ、小早川秀秋は西軍を裏切ったのか?

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※前回のエントリーの続きです。↓

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1.なぜ、小早川秀秋は西軍を裏切ったのか? 

 なぜ、関ヶ原の戦い小早川秀秋は西軍を裏切ったのでしょうか?

 この件については、慶長五(1600)年八月二十八日付小早川秀秋黒田長政浅野幸長書状という有名な書状があり、これが小早川秀秋の裏切りの理由を示す重要な書状であると指摘する研究者もいます。

 

 慶長五(1600)年八月二十八日付小早川秀秋黒田長政浅野幸長書状を以下に引用します。

 

「尚々急ぎ御忠節尤もに存じ候、以上

 先書に申入候①といへども、重て山道阿弥より両人遣之候条、啓上致し候、貴様何方に御座候とも、このたび御忠節肝要候、二三日中に、内府公、御着に候条。②その以前に御分別此処候、政所様へ相つゝき御馳走申さず候では、叶はざる両人に候間③、此のごとく候、早々返事待候⑤、委敷は口上に御意を得べく候、恐惶謹言

 八月廿八日

                            浅野左京大夫(花押)

                             黒田甲斐守(花押) 

    筑前中納言

       人々御中                      」(*1)

(番号・下線部、筆者)

*浅野左京大夫浅野幸長、黒田甲斐守=黒田長政筑前中納言小早川秀秋、です。

 

 黒田基樹氏の『小早川秀秋』に、現代語訳がありますので、こちらも引用します。

 

「先の書状で申し入れたけれども。重ねて山岡道阿弥(家康家臣)から使者二人が派遣されてきたので、(それを送り)申し入れます。あなたがどこにいらっしゃろうとも、今回(家康)に御忠節することが肝要です、二、三日中に内府公(家康)が(美濃国に)ご到着するので、その前によく考えられてください。政所様(寧々)に引き続いて御馳走しないでは叶わない私たち二人ですので、このようにしています。すぐの御返事をお待ちしています。詳しいことは口頭でお考えをお聞きします。

 追伸。急いで(家康に)御忠節されるのがもっともです。」(*2)

 

 この書状を見ると、いくつかの事が分かります。

 まず、先書に申入候①とあるように、この書状の前にも書状が送られてきているようです。先書の内容もこの文書と同様に、東軍への誘降でしょう。しかし、その書状に対して秀秋が態度を明らかにしないため、秀秋を重ねて説得するために、こうして次の書状と使者が来たわけです。この時点(八月二十八日)で秀秋の心が決まっていないのは、「早々返事待候④」からも分かります。(この時点で決断されているならば、返事を待つ必要がありません。)

 

 今回の書状における浅野長政黒田長政の秀秋への説得材料は何でしょうか。

 第一に、この書状には書かれていませんが、八月二十三日に織田秀信岐阜城が東軍に落とされています。これにより、それまではやや西軍よりだった戦いの流れが、一気に東軍有利に傾き、西軍諸将は慌てることになります。この書状はその五日後に書かれたものであり、東軍有利な状況を背景にした誘降工作といえるでしょう。

 第二に、二三日中に、内府公、御着に候条。②とあり、実際に家康が赤坂に着陣するのは、九月十四日ですので大分サバを読んでいますが、ともかく家康軍が近日中に到着するので、東軍の有利は更に強まり、東軍勝利間違いなしだと喧伝し、だから東軍に付け、と説得しているわけです。

 上記の二つの要因で、東西双方の均衡が東軍に大きく傾いたため、黒田・浅野も「早々返事待候④」と秀秋に返事を早く促し、強気の説得工作を行います。

 

 第三に、問題の箇所となる、「政所様へ相つゝき御馳走申さず候では、叶はざる両人に候間③」の意味です。この文章はどのような意味なのでしょうか?

 

 まず、この書状を書いた浅野幸長北政所の義理の甥にあたり北政所とは縁深い関係にあります。黒田長政も幼児より織田信長の元に人質として差し出され、武将から差し出された人質の面倒をみていたのが、北政所であり、そのため長政も北政所と親しい関係にあったとされます。もちろん、小早川秀秋は、北政所の甥(北政所の実兄木下家定の実子)です。

 

 この文章を笠谷和比古氏は「北政所様に縁続きであり、北政所様のために「御馳走」しなければならない我ら両人であるので、このようにあなたに説得工作をしているのですよ」(*3)という意であるとし、その意味は「「北政所様の置かれている現在の境遇はあまりに惨めで、見るに忍びない。この戦いで、もし三成方が勝利をおさめることになれば、政所様にとってさらに都合の悪い状況が招来するであろう。政所様に相応しい待遇を回復しようと考えるならば、家康の側に味方するのは当然である」という含意のほかに想定できるものはあるだろうか。」(*4)と述べています。

 

 残念ですが、笠谷氏の想定は大きく外れているとしかいいようがありません。

 

 第一に、「北政所様の置かれている現在の境遇はあまりに惨めで、見るに忍びない。」としていますが、笠谷氏の述べている「現在の境遇」とは、笠谷氏によれば「北政所大坂城を追われて京の三本木の地でわび住まいを余儀なくされる境遇にある」(*5)の事を指すようです。京都移転後は京都新城を拠点とし、豊臣家の朝廷対策を主な実務としていた北政所を「わび住まい」と表現してよいのか不明ですが、笠谷氏は「北政所は意に反して大坂城を追われた」という認識な訳です。この「大坂城を追われた」という認識については、私も首肯します。

 では、その北政所大坂城から追い出したのは誰でしょうか。

 前のエントリー(考察・関ヶ原の合戦 其の三十 宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継・小西行長は「北政所派」② 

で詳述しましたが、それは他ならぬ徳川家康その人です。笠谷氏の言うところの「わび住まい」を余儀なくさせた張本人が家康なのですから、家康軍(東軍)が勝利すれば「政所様にとってさらに悪い状況が招来する」のは火を見るより明らかでしょう。よって、笠谷氏の想定は180度間違いです。

 

 第二に、「もし三成方が勝利をおさめることになれば、政所様にとってさらに都合の悪い状況が招来するであろう」というのも意味不明です。これも、

 前のエントリー(考察・関ヶ原の合戦 其の二十九 宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継・小西行長は「北政所派」① 

で詳述しましたが、西軍の中核である、宇喜多秀家石田三成大谷吉継小西行長は「北政所派」であり、彼らが勝利すれば北政所を粗略に扱う訳がありません。むしろ、これら「北政所派」の宇喜多秀家石田三成浅野長政(長政は武蔵国の家康の元で蟄居したため東軍となりましたし、息子の幸長は以前から家康派ですが、北政所の義姉婿であり「北政所派」になります)を大坂から追放して、北政所の立場を弱体化させ苦境に追い詰め、大坂城を退去するのを余儀なくさせたのが徳川家康です。こうしてみれば、徳川家康が勝てばますます北政所が苦境に立つのは明らかでしょう。

 

 ということで、笠谷氏の想定は全く当てはまりません。

 では、上記の文書の「政所様へ相つゝき御馳走申さず候では、叶はざる両人に候間③」「北政所様に縁続きであり、北政所様のために「御馳走」しなければならない我ら両人であるので、このようにあなたに説得工作をしているのですよ」の本当の意味は何なのでしょうか?

 

 前述のエントリーにも書きましたし、笠谷氏自身も著作で認めていますが、関ヶ原の戦いの間、北政所は西軍諸将に同情的ですし、西軍のためにいろいろ動いています。このため、北政所自身は中立的な立場をとろうと思っていたかもしれませんが、東軍(徳川家康)は、北政所の行動を不快に思い、北政所は実質敵(西軍)だとみなしていた可能性があります。

 といいますか、小早川秀秋北政所の最愛の甥(幼少期、秀秋は秀吉・北政所の養子であり、北政所によって育てられ、一時期は第一の後継者候補でした。そして、北政所は慶長五(1600)年七月十七日の西軍決起後の七月二十三日と同二十四日に秀秋への祈念を京都北野社に依頼しています。(黒田氏は、「北政所が秀秋をことのほかに愛しんでいた様子がうかがえるであろう」(*6)としています。)秀秋が西軍の主力として兵を率いている事自体が、東軍(家康)にとってみれば「北政所は西軍派だ」という動かぬ証拠となってしまっているのです。

 

 東軍が勝利した場合、北政所はそれまでの西軍寄りの態度を咎められ、家康によって厳しい処分が下る可能性があります。(八月二十八日の時点では、岐阜城が陥落し、家康軍も西上することが決まっており、東軍の勝利は固いと幸長・長政は確信している時期です。そして、小早川秀秋も現在の状況では西軍の敗色が濃いと考えていたのだと思われます。)この家康の意向を幸長・長政は感じ取ったのでしょう。

 このまま東軍が勝てば、家康によって北政所が処分されてしまう。幸長・長政は北政所を守るために必死です。北政所が西軍よりではないと証明する一番の証拠は何になるか。それは、北政所の最愛の甥小早川秀秋が、東軍に同心し西軍と戦うことです。秀秋が東軍勝利のために最大に貢献すれば、家康も北政所を処分する事など出来なくなるでしょう。

 

 つまり、「北政所様に縁続きであり、北政所様のために「御馳走」しなければならない我ら両人であるので、このようにあなたに説得工作をしているのですよ」の意味は、

 

北政所様は西軍よりの行動をしており、家康殿から不審に思われている。(特に、貴殿(秀秋)が西軍についている事が、北政所が西軍よりだと不審に思われている一番の理由だ。)北政所様が現在置かれている境遇はあまりに危険である。この戦いで、もし家康方が勝利をおさめることになれば、西軍寄りの行動を家康に咎められ、北政所様にとってさらに都合の悪い状況が招来するであろう。北政所様に相応しい待遇を回復しようと考えるならば、北政所様に一番近しい甥の秀秋殿が家康殿の側に味方して東軍のために勝利に貢献すれば、北政所様は厳しい処分を受けることもなく、待遇は保証されるであろう。北政所様を守るために、我ら東軍について家康殿に忠誠を尽くせ」という含意があるのではないかと思われます。

 

2.まとめ 

 なぜ、小早川秀秋は西軍を裏切ったのか?

 北政所を(家康から)守るためです。

 

  注

(*1)笠谷和比古、p75~76

(*2)黒田基樹、p65~66

(*3)笠谷和比古、p80

(*4)笠谷和比古、p81

(*5)笠谷和比古、p84

(*6)黒田基樹、p59

 

 参考文献

笠谷和比古『歴史の虚像を衝く』教育出版社、2015年

黒田基樹『シリーズ・実像に迫る005 小早川秀秋戎光祥出版、2017年