☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
※前回のエントリーです。↓
慶長三(1598)年一月十日上杉景勝は秀吉から越後から奥州会津への国替えを命じされます。蒲生氏行の宇都宮への転封を受けたものです。(*1)
蒲生氏行の宇都宮への減転封事件については、下記に記しました。↓
一部では、蒲生氏行の宇都宮への減封は、石田三成ら奉行衆の画策によるものと言う人がいますが、これは上記に書いた通り、誤りです。
また、石田三成は、減封となりリストラせざるを得なくなった蒲生家中の元家臣を、自らの家中に引き受け、蒲生氏行から感謝されています。これは、江戸時代に蒲生氏行が石田三成の娘(次女)婿である岡重政を重用したことからも分かります。
転封前の上杉景勝の石高は九十一万石であり、転封後は百二十万石の大幅加増でした。(*2)
奥州会津は、奥州・羽州両国の入口にあたり、枢要の地です。奥州仕置以降、「京儀」に反発する国衆・牢人の一揆が頻発しており、争乱の地でもありました。このため、武辺名高き蒲生氏郷が、いわば豊臣公議の奥州・羽州方面前線基地として、会津の大領を持ってこの地を守護してきたのです。
しかし、氏郷は文禄四(1595)年病死し、跡を継いだ子の氏行は年少であり、一時はこれでは頼りにならぬと、氏行の領地を取り上げようと考えた秀吉も、氏行の岳父となった徳川家康の反対もあり、最初は相続を許します。
しかし、その後、蒲生家中のお家騒動が発生することにより、やはり氏行に枢要の地を任せるのは難しいと秀吉は考え、秀行を宇都宮へ減転封させることにしました。
会津の大領を任せ、この地を安寧の地とするために白羽の矢が立ったのが武門の誉れ高き上杉家、秀吉から絶大な信頼を受けている景勝でした。景勝にしてみれば、加増転封とはいえ、長年統治してきた越後を離れ、またいつ争乱が起こってもおかしくない難治の地である会津に、積極的に移動したくはなかったかもしれませんが、天下人太閤秀吉の頼みとあれば断ることもできません。
いずれにしても、会津転封は大事業であり、早くも、その日(一月十日)のうちに石田三成の転封作業のために奥州へ発向する予定があったことが「言経卿記」に記されています。(*3)
二月十六日、三成は、上杉家重臣直江兼続と連署して、会津領に禁制などを発給しています。(*4)
主人の異なる者が共同で命令を出すことは珍しいことで、二人(三成と兼続)の親密度合いを示す証左ともいえると、加藤清氏は指摘しています。(*5)
三成が会津に入るのに先立って、他の石田家中も会津領に入っていたようです。このように、会津転封には、上杉家と石田家が、共同で作業にあたることになりました。(*6)
会津に上杉家を迎えた後、三成は上杉の旧領越後に向かい、検地及び民への条書の発出を行っています。この条書は「上杉時代に行われた先例を遵守すべきことを改めて確認した内容となっており、新規のものではない。とはいえ、長くこの地に君臨した上杉家の転封をうけ、在地の動揺を防ぐ上で大きな意義を有したと考えられる。」(*7)とされます。
三成は、上杉家の転封作業を終えると帰国の途につき、五月三日に佐和山に帰着し、五日は入京したようです。(*8)
さて、ここまでは「表の動き」です。
実は、石田三成が不在中の、慶長三(1598)年五月二日に秀吉により、慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家久の行動を咎める処分が下されます。この、黒田長政・蜂須賀家政の処分の元となった行動とは、黒田長政・蜂須賀家政を含む朝鮮在陣の諸将が勝手に朝鮮の戦線を縮小してしまい、事後報告の形でその案を秀吉に報告したことです。このことが、秀吉の激怒を買ったのでした。
この戦線縮小案が朝鮮在陣諸将によって話し合われ、秀吉に書状が出されたのが一月九日でした。現実にこの書状を秀吉が披見したのが一月二十一日です。また、同様の内容の秀吉への披露状が、一月二十六日付で石田三成ら奉行衆に宛てられましたが、(*9)これらの書状を石田三成が見たのかは微妙です、というより、おそらく見ていません。
というのは、上記で見た通り、一月十日には近日中に石田三成は、会津へ出立する予定だったからです。これらの書状を実際に見る前に、石田三成は会津へ出立した可能性が高いです。
これらの書状を見た秀吉は激怒しますが、処分を直ちには下さず、朝鮮在陣の軍目付の帰国報告を待つことになります。彼ら軍目付の秀吉への帰国報告が実際にあったのが、五月二日であり、上記で見た通り、まだ三成は帰京の途中にあり、秀吉の側におらず、報告も受けていません。軍目付の一人、石田三成の妹婿福原長堯の書状を見ると、事前の協議すら受けていません。(*10)
もし、この時に三成が秀吉の側にいたならば、どうであったか?三成の性格上、朝鮮在陣諸将の弁護を買って出て、秀吉に「諫言」しかねません。その場合、いつもは三成の「諫言」を聞いていた秀吉も(下記の二十六聖人殉教事件を参照してください)、今度ばかりは激怒して、三成は粛清されていた可能性もあったのではないかと思われます。
※関連エントリー↓
※石田三成が以前より、朝鮮出兵に反対する立場にあったことについては、以下のエントリーをご覧ください。↓
タイミングが微妙すぎて、偶然、結果的に三成は、この処分の決定の場から外されただけなのか、「誰かの意思」(おそらく奉行衆の誰か)によって、三成をこの処分事件に関与できる立場から外されたのか、分かりません。
(1月10日の時点では、朝鮮在陣諸将の書状は届いていませんので、その時点から「三成外し」が考えられたことはありえません。もし、「三成外し」を奉行衆の誰かが「三成外し」を考えたのならば、それは書状が届いた1月21日以降になります。)
もし、誰かの積極的な意図であれば、それは増田長盛でしょう。他の奉行、前田玄以・浅野長政・長束正家には積極的にそのような事を考える動機が、あまりありません。
むしろ、五奉行の中で三成と最も近く(ここまで見た通り、上杉景勝の取次として、長盛・三成は長い間二人三脚で協力してきたのでした)、三成が粛清されれば、連座しかねない長盛に強い動機があるのです。
次回は、慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政の処分事件の詳細について、検討します。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)中野等 2011年、p304
(*2)児玉彰三郎 1n979年、p148
(*3)中野等 2011年、p304
(*4)中野等 2011年、p304
(*5)加藤清 2016年、p146
(*6)中野等 2017年、p350~352
(*7)中野等 2017年、p352
(*8)中野等 2017年、p352
(*9)笠谷和比古 2000年、p135
(*10)中野等 2017年、p353~355
参考文献
・笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)
・加藤清「第二陣 第八章 直江兼続 三成とともに家康にけんかを売った男」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年)
・児玉彰三郎(児玉彰三郎氏遺著刊行会編)『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年(初出1979年)