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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の一 はじめに

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

1.はじめに

 関ヶ原の合戦については、いろいろな書籍が発行され、歴史ドラマでも再現されていますが、いまだに江戸時代に作られた軍記・物語等に基づいたドラマや解説がされる傾向にあります。

 しかし、これらの江戸時代に作られた軍記・物語等は、勝者の自己正当化と、生き残った敗者の自己弁護と死者への責任転嫁による、虚飾に満ちたものであり、史実としての関ヶ原の合戦の実像を伝えるものではありません。

 

 近年、研究者により一次史料に基づいた関ヶ原の合戦の実像を見直す作業が進んでいます。このブログでは、近年の研究を紹介しつつ、関ヶ原の合戦の実像について検証していきたいと思います。

 また、当時の一次資料にも消失した物、意図的に隠滅されたであろう物、あえて事実を記していないであろう物等、色々あります。このため、一時史料としての裏付けが無くなっている事件などもあります。

 こうした場合は、実際の史実は何であるか、史料の隙間を推理していくしかありません。このような事件について、実際の史実はどうだったのか、このブログでは断片的な史料を繋ぎ合わせ推理していきたいと思います。

 

 2.豊臣家臣団の戦い? 

 関ヶ原の戦いは「豊臣家臣団の中の争いに過ぎない」と言う人がいます。これは、その「家臣」の中に徳川家康が入っているのならば正解です。しかし、おそらく「豊臣家臣団の中の争いに過ぎない」という方は、家康も豊臣家の家臣だったと言いたい訳ではなく、「豊臣譜代家臣団の内輪もめに過ぎない」と言いたいのでしょう。

 けれども、関ヶ原合戦が豊臣譜代家臣団の内輪もめに過ぎないのなら、何故上杉・伊達・毛利・島津等の大大名も含めた「外様」大名が戦いに主体的に加わっているのか説明できません。また、この戦いにより天下を治める政体としての「豊臣公議」が崩壊し、「徳川公議」に移行したのかも説明できません。

 

 関ヶ原の合戦を豊臣家臣内部の「奉行衆(吏僚派)」対「反奉行衆(武功派)」との争いとして捉え、戦いの理由を石田三成ら奉行衆に対する武功派の反発とするのは、非常に単純で分かりやすい見方ですが、誤っています。もし仮に、武功派(この呼称にも問題があるのですが)が、天下を治める政体としての「豊臣公議」自体の存続は求めており、「奸臣である」現奉行衆を排除することのみが目的であるならば、戦後、これまでの奉行衆を排除した後に、彼らが新しく奉行衆の座につけば良いだけの話です。彼らは関ヶ原の合戦勝利の最大の立役者となったため、彼等自身が奉行衆となり豊臣公議を体現することを望むならば、それは可能な事だったでしょう。

 

 実際にはそのような動きが全く見られなかったのは、結局、彼らの真の目的は奉行衆の排除ではなく、「豊臣公議」そのものを否定し、新たな公議(徳川公議)を立てることだったからです。

 

 ところが、彼らは「豊臣恩顧」の臣ですから、建前上は「亡き太閤の御為」「秀頼君の御為」と唱え、少なくとも関ヶ原の合戦前は「豊臣公議」の存続を唱えなければなりません。そのため、実際には「豊臣公議」の否定が目的なのにその本音が言えない。

 この矛盾の解消のため、「君側の奸」というものを創造する必要が出てくる訳です。豊臣秀吉その人の政治・体制を批判をしたいのに批判できないゆえのスケープゴートですね。その作られた「君側の奸」が石田三成です。このため、この作られた虚像の「君側の奸」キャラクターとしての石田三成像と、実像の石田三成は分けて考えていく必要があります。

 ただし、秀吉在世の間に豊臣家臣団が内部崩壊を来たしており、非主流派となった豊臣家臣が家康に取り込まれたという側面も確かにあります。このことについては後のエントリーで検討したいと思います。

 

 また、歴史学者の笠谷和比古のように、江戸時代もしばらくは豊臣家と徳川家の「二重公議」だったという研究者もいます。(*1)

 これは、例えば「慶長十年の四月には、徳川秀忠の将軍襲職と、豊臣秀頼の右大臣任官があり、諸大名は相次いで上洛して伏見にあったが、先の『上杉家年譜』にあるように、在伏見の諸大名は大坂に赴いて、秀頼に祝賀を述べている。」(*2)等、大名による豊臣秀頼が伺候の礼を取ることが自然に行われていたこと等から分かるとのことです。

 確かに関ヶ原の合戦によって、豊臣家が摂河泉三国のみを支配する一大名に転落したという従来の理解は誤りで、笠谷氏の述べるように「豊臣秀頼の家臣団たちの知行地もまた、摂河泉三国を超えて西国諸国に分散分布していたと解すべき」(*3)だといえます。

 しかし、「二重公議」の実態というのは、関ヶ原合戦後も豊臣家は徳川に「臣従」しておらず、徳川公議から独立した別格の大名だったという話のことです。(慶長十六年(1611年)の秀頼上洛を「臣従」とみなすかどうかについても、笠原氏は否定的なようです。(*4))

 そして、加藤・福島・細川・浅野・黒田ら、関ヶ原の合戦で「秀頼様の御為に」東軍として戦った豊臣譜代家臣団のはずの大名らは、関ヶ原の合戦後は徳川公議に臣従しており、豊臣秀頼「公議」の影響力は及んでいません。 

「二重公議」と言ってしまうと、西半分の大名は豊臣公議の指図を受ける等、まるで徳川公議と豊臣公議は対等で東西に分割して日本をしばらく支配していたような誤解を生んでしまいます。徳川幕府が開かれた後は、豊臣直臣以外の大名は基本的には全て徳川公議の指図を受け、「公議」としての豊臣家の指図を受けてはいません。江戸時代以降もしばらくは「二つの公議」が存在していたのは確かですが、その二つの公議の大きさが比較になりませんので、「二重公議」という呼称は誤解を受ける表現だと思われます。

 

3.関ヶ原の合戦に至るまでの構図 

関ヶ原の戦いについての素朴な疑問 - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

のエントリーでも書きましたが、秀吉の死から関ヶ原の合戦に至るまでの構図は以下のようになります。

 秀吉死後は遺言により、五大老徳川家康前田利家毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家)と五奉行浅野長政前田玄以増田長盛石田三成長束正家)に天下の仕置が任されました。

 そして、以下のように関ヶ原の合戦に至るまでの事象を時系列に見ていくと、徳川家康が天下の仕置の権力を独占するために、他の四大老五奉行を一人一人を切り崩して排除・屈服させていく流れであることが分かります。

 

(1)徳川家康、他大名との縁組を勝手に進める等、秀吉遺言の掟にあえて破る行動を取り、誰が味方になるか観測気球を上げる。

                    ↓

(2)上記の(1)をきっかけに前田利家及び奉行衆と徳川勢力の対立が深まる。徳川派vs前田派の対立構図(敵勢力のあぶり出し)。

                    ↓

(3)前田利家徳川家康和解する。その後、前田利家病死。

                    ↓

(4)七武将による石田三成襲撃事件。その後石田三成蟄居。(石田三成排除)

                    ↓

(5)徳川家康暗殺計画の嫌疑を前田利長(利家の子)、浅野長政らが受け詰問される。

                    ↓

(6)前田利長は母まつを人質に出し、恭順。浅野長政武蔵国府中に謹慎。(前田利長、浅野長政排除)

                    ↓

(7)上杉景勝に謀反の疑いで詰問。景勝は上洛して申し開きをすることを拒否して、上杉討伐へ。(上杉景勝排除へ)

 

 そして、残った二大老(毛利・宇喜多)と三奉行(前田・増田・長束)、元奉行の石田三成が、家康が自らの野心を隠そうともせず、強引な上杉征伐(上杉排除)に動いたことに危機感を持って立ち上がったのが、関ヶ原の合戦です。

 もっとも、この決起した西軍諸将の間の思惑には微妙な齟齬があり、やがてこの諸将の思惑の食い違いが西軍敗北の原因に繋がっていくことになります。この事についても後のエントリーで検討します。

 

 4.関ヶ原の戦いの総大将? 

 関ヶ原の戦いの総大将は、東軍は徳川家康、西軍は毛利輝元です。ここら辺を間違えて、西軍の総大将は毛利輝元ではなく石田三成と勘違いしている人もいます。もっと始末が悪いのは、「名目上の総大将は毛利輝元だけど、実質的な総大将は石田三成でしょ」と言う方で、まるで毛利輝元がお飾りの扱いにしている人もいます。 

 

 しかし、関ヶ原の戦いの西軍戦略の意思決定は実際には毛利輝元によってなされています。(*5)形式的にも実質的にも西軍の総大将は毛利輝元なのです。

 西軍全体の指揮をしているのが石田三成であると勘違いしている人が多いことが、関ヶ原の合戦の全体像を分かりにくくしています。石田三成ファンには申し訳ありませんが、石田三成は西軍の一武将に過ぎません。もちろん、西軍の有力武将の一人ですが、あくまでも「有力武将の一人」であり、形式的にも実質的にも総大将ではありません。関ヶ原方面の総大将ですらありません。(序列からいって、関ヶ原の合戦に直接参加した西軍の総大将格は宇喜多秀家です。)

 

 関ヶ原合戦の時の西軍の主な行動は、毛利輝元の戦略によるものだという前提で考察し直す必要があります。逆に、過去の書籍で石田三成が西軍全体の指揮を取る、実質的な総大将であることを当然の前提とした描写(司馬遼太郎の『関ヶ原』等が典型ですが)は疑ってかかる必要があるでしょう。

 

 しかし、石田三成関ヶ原の合戦に至る一連の戦いの「首謀者」の1人ではあります。(西軍の「首謀者」は、石田三成毛利輝元宇喜多秀家の3名だと思われます。)

 また、「石田三成人脈」によって西軍に参加した大名も多く、そういった意味では「関ヶ原の合戦石田三成が引き起こした戦いだ」という評価はあるでしょう。実際の所、石田三成が決起したことがこの合戦が天下を二分する戦いにまで大きくなった原因といえます。

 次回のエントリーでは、この「石田三成人脈」について検証していきます。

(次回のエントリー)→考察・関ヶ原の合戦~其の二 石田三成の「取り成し」人生 - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

 

 注

(*1)笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大阪の陣』(吉川弘文館)2009年などがあります。

(*2)笠谷和比古 前掲書

(*3)笠谷和比古 前掲書

(*4)笠谷和比古 前掲書

(*5)光成純治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』(NHKブックス)2009年 によると、毛利輝元は東軍についた蜂須賀家政、加藤義明の留守部隊を排除するため毛利軍を派遣して阿波を占領し、伊予を攻略する等、盛んに軍事行動を展開しています。

 また、九州にいる東軍を打倒するために、西軍として九州に派遣された大友吉統について、「(筆者注:吉統が東軍の黒田如水宛てに送った文書に)『拙者事配所において毛利殿御懇意深重に候えば、今度一命を捨てその恩に報いるべくと存じ候』とあり、吉統の進攻には輝元の意向が大きく働いていたと考えるべきであろう。」としています。

 このように、毛利輝元は自らの意思で積極的に西軍の軍事行動を指揮していることが明らかにされています。