古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「いじめられる側に原因がある」という言説について

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下記のTogetterを見て思ったことをつらつらと書いていこうと思います。 

いじめについて(渡邊先生と内藤先生) - Togetterまとめ

 

1.「いじめられる側に原因がある」という言説がなぜ忌避されるかについてですが、内藤朝雄先生は、「 私はメカニズム原因と責任帰属原因を峻別せよと言っています。」と書いてあるように、責任帰属原因とメカニズム原因が混同されていることによるものであるとしているように見受けられます。 

 しかし、「いじめられる側に原因がある」という言説が語られるときの文脈として、「責任帰属原因」を前提として語られるのは「文脈上当然」なので、「(混同するべきでない)、峻別せよ」と言われても一般的に混同するのは仕方ないのではないかと思います。この混同は話者の過誤によるものではなく、この「いじめられる側に原因がある」という言説が語られるシチューエーションを想起するならば、責任帰属原因が語られるのは当然のことだからです。 

 なぜ、「責任帰属原因が語られるのは当然」なのか。

「いじめ」というのは非違行為です。非違行為とは、「刑法上の違法行為、または民法上の不法行為、あるいは違法・不法を問うほどではなくても社会通念上否定され謝罪が求められる行為」です。「いじめ」がこうした「非違行為」である以上、「いじめられる側に原因がある」という言説の、その「原因」の中に必然的に「責任帰属原因」が入ってくるのは当たり前です。 

 例えば「交通事故」のことを考えてみましょう。「交通事故」を語るときに「被害者側にも原因がある」という言説がなされたときは、これはメカニズム原因が問われている場合もありますが、やはり主的には「責任帰属原因」が語られているのです。この言説は「被害者側の原因」を主張する(例えば「追突事故が起こったのは、被害者側が急ブレーキをかけたからだ」等)ことによって、「加害者側の責任」を軽減し、過失を相殺するために語られるのです。 

「殺人事件」を例にしてもよいでしょう。「殺人事件」を語るときに「被害者側にも原因がある」という言説がなされたときは、これも主的には「責任帰属原因」が語られているのです。被害者側にも落ち度(責任)があるから、(例えば、被害者側が加害者をいじめて苦しめていた場合など)、加害者の罪は情状酌量の余地がある、罰を軽減せよという文脈で語られている訳です。 

「いじめ」が抽象的概念でもなく、自然現象でもなく、個別の特定の人間が意図して行う触法行為も含まれる「非違行為」である以上、原因を語る場合に「責任帰属原因」を外すことは不可能です。それを「峻別せよ」というのは無駄でしょう。 

 逆に「責任帰属原因」を不明確にしたまま、「メカニズム原因」を分析しようとしても混乱するだけで解決には至りません。先生方は客観的に「いじめ」の「メカニズム原因」を分析できるつもりかもしれませんが、結局「いじめ」が法に触れる可能性のある「非違行為」である以上、関係者は全て「当事者」であり「責任」問題から逃れようがありません。ゆえに、「関係者」を調査して客観的に「メカニズム原因」を分析しようとしても、彼らはむしろ「責任」問題を主的な問題として意識していますので、「責任」がなるべく帰属しないように、語りますし行動します。 

「メカニズム原因」のつもりで「いじめられる側に原因がある」なんて専門家が言っちゃった日には、大喜びで関係者は自らの「責任」を軽減するために、「責任帰属原因」と意図的に混同します。いじめの問題を扱うときに「責任帰属原因」に触れずに、実態を解明するのは不可能です。「峻別せよ」という実行不能なことを言われても仕方ありません。 

 また、当然非違行為をした関係者の「責任」は問われるべきです。「いじめ」とは意図的な非違行為ですので、不可抗力だったと思われる事故の事故調査委員会の調査とは訳が違います。

 

2.「教育の場での私的制裁を原則禁止とするしかないのだと思う。そのうえで教師に必要な制裁機能についてはきちんと分析して最低限の法的根拠を与え,透明化・公共化する。」という渡邊芳之先生の言説には賛成ですが、続く「「いじめ」が私的制裁の一種である,ということを明確にして」という言説には賛成できません。 

 というのは、「私的制裁の一種」として「いじめ」がある場合もありますが、必ずしもすべての「いじめ」が「私的制裁の一種」ではありません。「私的制裁」ではない「いじめ」も当然あります。このような混同はかえって実態解明から遠のくのでやめた方がよいでしょう。

 

3.「私は逆に「いじめられる側には原因はない」論こそが「原因のある人はいくらいじめてもいい」論の根拠になっていると思います。」と渡邊芳之先生は述べられていますが、もちろんこの「根拠」は間違いです。渡邊先生もこの「論拠」は間違いだと知ってはいるが、「そのように発想する人は多いだろう」という意味でこのような言説を使っているのだと思いますが。 

 つまり、このように発想する人の思考構造を推理すると、まず「世の中には『許されるいじめ』と『許されないいじめ』がある」と考えている訳です。そして、「『いじめられる側に原因のないいじめ』は『許されない』が、『いじめられる側に原因のあるいじめ』は『許される』」と考えていることなります。もちろん、この思考回路そのものが間違っており、「いじめ」はどちらにせよ「許されない」のです。(これは、渡邊芳之先生も述べられていることです。)

 この加害者側の思考回路の前提そのものがおかしい訳で、専門家のすべきことは誤った思考をした者に「あなたの思考の前提そのものが間違いである」と指摘することで、誤謬を犯した者の責任を「『いじめられる側には原因はない』論者」に転嫁することではありません。

 

*ちなみに、私は「いじめられる側にも原因がある」場合もあると考え、それによって加害者の情状酌量や過失相殺が発生する余地はある(例えばもともと被害者が加害者をいじめていて、その形勢が逆転して元被害者が加害者になり、いじめられた頃のうらみが原因で元加害者をいじめた場合等)と考えていますので、「『いじめられる側には原因はない』論者」ではありません。 

 しかし、だいたいの場合において「いじめ」の加害者側が述べる「いじめられる側の原因」は(「責任帰属原因」的に)「原因」と呼べるようなものはありません。上記のようなケースはレアケースです。 

 だいたいの場合は、例えば、「太っている」とか、「おとなしい」とか「地味だ」とか、逆に「目立っている」とかいうのが、加害者に言わせると「原因」だそうで、そういったものは「そういう属性の者をいじめたい」という加害者側の(誤った)思考回路に原因があるのであり、これは「被害者側の原因」ではなく、「加害者側の原因」になります。