三国志 考察 その7 黄巾の乱後の劉備の動向について③(劉備、徐州へ行く)
の続きです。
特に指摘がなければ『三国志』「蜀書 先主伝」からの引用です。(参考文献は、(陳寿 裴松之注(井波律子 訳)『正史 三国志5』ちくま学芸文庫、1993年)です。)
「先主(筆者注:劉備)はかくて田楷のもとを去り、陶謙に身を寄せた。」(p29)後、「陶謙は上表して先主を豫州刺史とし、小沛に駐屯させ」(p29)ます。
豫州刺史という位置づけですが、この頃の豫州は黄巾の乱とその後の李傕(リカク)の暴虐で相当に荒廃して、無主の土地に近い(影響力としては袁術の影響力が一番強い?)状態でしたので、豫州刺史といっても実権のない名前だけのポストです。
その後興平元(194)年、「陶謙は病気が重くなると、別駕の麇竺(ビジク)に、「劉備でなければ、この州(筆者注:徐州)を安定させることはできない」といった。陶謙が(筆者注:同年)没すると、麇竺は州民を率いて先主を迎えにきたが」(p29)劉備は、はじめ遠慮して引き受けませんでした。
陶謙が死んだ後の後継者ですが、まず、陶謙の息子達というのはありえません。州の刺史(州知事)は官職であり、世襲の職ではありません。
また、元々陶謙が曹操の恨みを買ったことが、現在の徐州の惨状の原因な訳ですから、その息子の誰かを徐州の刺史にして、わざわざ曹操から恨みを買い続けるのは得策ではありません。現在、曹操は呂布と交戦中なので撤退していますが、陶謙の息子を刺史にしてしまっては、曹操の恨みはその息子に向かい、呂布との戦いが終われば、いつ復讐戦が再開されるか分かったものではありません。
徐州の人士達の中で声望のある者を選ぶのも、元々彼らのほとんどは陶謙の部下ということになりますので(陶謙個人の部下ではなく、行き掛かり上、部下になったということになる訳ですが)、同じく曹操の恨みを買っており、曹操に再び攻め込まれる可能性があります。曹操に攻め込まれれば、応戦しなければいけません。また、南には袁術が徐州に食指を伸ばそうとしており、これも攻め込まれれば、戦わなければいけません。
誰が刺史を引き受けても、すぐに曹操か袁術、あるいはその両方から攻め込まれる可能性があり、その事態に対処しなければいけないのです。少なくとも新しい刺史は軍事の心得のあるものではなくてはいけません。こんな苦境の中の徐州刺史になり、火中の栗を拾いたい人間は徐州の人士にはいませんでした。そこで、白羽の矢が立ったのが劉備ということになる訳です。
曹操の暴虐に対する陶謙の援軍要請に対して、実際に徐州に援軍を出して立ち向かったのは、青州にいた田楷と劉備ぐらいのものです。(彼らは前述した通り公孫瓉陣営の人物です。)田楷はその後青州に引き上げ、劉備は徐州に残り徐州を守り続けました。このため、徐州の人士や人民からの劉備の支持は極めて高く、軍事の心得もあり、陶謙と縁が深いわけではない劉備を徐州刺史に推し立てようとする動きが強まったのは、ある意味当然でしょう。これは陶謙の遺志でもあります。(自分の息子達を曹操の恨みから逸らすための考えだと思われますので、必ずしも純粋な思いとはいえないと考えますが。)
しかし、劉備ははじめ固辞します。考えて見れば当たり前です。刺史を引き受けた瞬間に周囲から攻め込まれ、徐州防衛のために戦わなければいけない可能性が高いのです。こんな困難なポストを気安く引き受けたい人物はいないでしょう。
劉備は、麇竺や陳登の説得に対して、「袁公路(術)がここよりほど近い寿春にいる。この方は四代つづいて五人の三公を出した家柄であって、天下の人望が集まっている。君、徐州は、彼に与えるのがよろしかろう。」(p29)と述べます。
前述したように、董卓が献帝を連れて長安に遷都し、董卓討伐軍が分裂して解散した後、関東の士人達は大きく3つの派閥に別れます。(カッコ内はグループ内の有力人物)
A 公孫瓉グループ(田楷、劉備)
B 袁紹グループ(曹操、劉表)
C 袁術グループ(孫堅)
袁紹と袁術の関係は悪化し関東の覇権を競い互いに争うことになります。公孫瓉は袁術と同盟を組み、袁紹と対立します。関東はこの2つの勢力(B袁紹)vs(A公孫瓉+C袁術)に別れた戦いになっています。
劉備は元々(A公孫瓉)派閥の人間です。田楷が袁紹との戦いに敗れ、青州から撤退した今、劉備は徐州で孤立している状態ですので、幽州の公孫瓉の援助を得ることもできません。そうなると、公孫瓉の同盟相手である袁術を頼るのが、公孫瓉陣営の劉備としては自然の流れになります。
しかし、徐州・青州人士の袁術の評判は極めて悪いです。陳登は「公路(筆者注:袁術のあざな)は驕慢な男でして、混乱を納められるような殿様ではありません。」(p29)と言い、北海の相孔融は「袁公路は(中略)墓の中の骸骨同然」(p30)とまで罵倒します。ここまで袁術の評判が悪いのは、曹操が徐州を攻め、民を虐殺した時には袁術は全く救援しようとしなかった(できなかった)ためだと思われます。おそらく、徐州の人士たちは、曹操が徐州を攻めた時に、公孫瓉陣営に救援を呼びかけるとともに、袁術陣営にも救援を呼びかけたかったはずです。
公孫瓉陣営の田楷、劉備は陶謙の救援要請に答えましたが、袁術陣営はそもそも救援できるような状態ではありませんでした。初平四(193)年の袁術は陳留(兗州)に拠点を築くも、匡亭(兗州)で曹操に敗れ、その後敗退を重ねて、九江(揚州)にまで逃れ、揚州刺史陳温を殺して、自ら之を領し、徐州伯と称します。(*1)
袁術が徐州伯とまで称し徐州を自分の支配圏だと思っているならば、徐州の民を守るために救援する力がなくてはいけません。ところが、初平四(193)年の袁術は、徐州の救援どころか、曹操に敗北を重ね、揚州に逃げ出す始末だったのです。その後、曹操が呂布との戦いで疲弊する状態になったおかげで、寿春に勢力を張り、息を吹き返したというところでしょうが、この間に徐州人士の袁術に対する信頼は地に墜ちています。
さて、劉備です。劉備が徐州の刺史を引き受ける気になったのは尊敬する孔融の言が大きかったと思われます。
かつて、劉備が平原相であった頃、北海相である孔融は黄巾残党の管亥に囲まれた時に太史慈を遣わせて、劉備に救いを求めたことがあります。劉備は驚いて「孔北海乃ち復た天下に劉備有ることを知る邪(か)」と言って、直ちに兵三千を遣わして孔融を救い、賊は逃亡します。(*2)
この時より、劉備と孔融の信頼関係は深まったといえます。天下の名士である孔融が劉備に向かって「「今日の事態は、民衆が有能な人物の側に立っております。天の与えたもう物を受け取らないと、あとから悔やんでも追いつきませんぞ。」」(P30)と述べるに及び、劉備は徐州の民を守るため、徐州の刺史となり火中の栗を拾う決意をします。
しかし、劉備は公孫瓉陣営の人物です。公孫瓉の同盟相手の袁術が徐州伯と称して、徐州の支配権を主張しているのを無視して徐州刺史となる訳ですから、これは公孫瓉+袁術同盟に対する裏切りになります。劉備は徐州刺史になることによって、公孫瓉陣営から離脱することになります。そうなると新たなる後ろ立てを探さないといけません。このままでは、袁術陣営と袁紹・曹操陣営の両方から攻められることになります。せめて、もう一方からは攻められないようにしなくてはいけません。
公孫瓉+袁術同盟から離脱する以上、頼る先は袁紹しかありません。曹操は袁紹陣営ですので、曹操が徐州に野心があっても、袁紹陣営に入れば曹操は同じ陣営の徐州を攻めることができなくなります。曹操は不満でしょうが、現在、曹操は呂布と対峙している最中ですので、袁紹が受け入れるならば、曹操も受け入れるしかないでしょう。
ということで、注の『献帝春秋』にあるように徐州の陳登らは使者を袁紹のもとに行かせ、劉備の徐州刺史就任の伺いを立てました。これに対して袁紹は、「「劉玄徳(備)は度量のひろい立派な人物で信義がある。いま徐州が彼を戴くことを願うのは、まことに私の希望にそったものである。」」(P31)とこれを了承します。この了承により、劉備は袁紹陣営に入ることになります。袁紹にしてみれば、かつて公孫瓉陣営であった徐州の劉備が戦わずして袁紹陣営に下り、袁術陣営に対する盾になってくれる訳ですから歓迎するのは当然でしょう。かくして、劉備は徐州刺史となります。
しかし、建安元(196)年、袁術が徐州に侵攻してきたのを劉備は阻み、対峙してにらみ合っている間に、その留守を狙った呂布に下邳(カヒ)とそこに残した妻子を奪われてしまいます。これは下邳の守将曹豹が寝返ったためでした。劉備は呂布との和睦(ほぼ降服)を余儀なくされました。(P30)これだけ、計算を積み重ねて、劉備は徐州人士の後押しを受けて徐州刺史となったにも関わらず、やはり劉備の統治基盤は脆弱で、微妙なバランスが崩れてしまうと崩壊してしまうものだったといえるでしょう。
(注)