古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十八 イエズス会が分析した関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因について

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 『イエズス会日本報告集』に、イエズス会が分析した関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因について記載があります。以下引用します。

 

「しかし、大軍を率いて(上杉)景勝の征伐に出発したかの武将たちは、内府様(筆者注:徳川家康のこと)に対して次のように約束した。自分たちは彼(内府様)が戦さの武将と軍勢をいっしょに派遣するなら尾張の方へ赴こう。それは自分たちが尾張の城郭に到着した時ずっと容易に敵軍を制圧し、そしてこれによって尾張から都へ行く自由な街道を確保できるようにするためである、と。

 内府様は、援軍として武将と兵士を派遣することを拒みはしなかった。なぜなら彼は短時日で、その(尾張の)城へ集められた三万の軍勢に対して少しの休息を取る許可を与えず、ただちにもっとも迅速に岐阜城へ突入させるようにしたからである。①この戦闘の全期間に、内府様の軍勢は己が指揮官の命令を遂行するに際しては最大の迅速さを示した。つまり全軍は、一人の人間の意志に従っていたからである。これに反して敵方では、多数の人々によって指揮されていたので、遅延と緩慢以外の何ものもなかった。なぜなら奉行たちは熟考し、そして互いに多くのことを議論している間に事態に善処すべき機会が両手から逃げてしまったからである。

(中略)

 以上が下(シモ)の九ヵ国(筆者注:九州のこと。これより前の文章に九州の動向が記されていますが、省略しました。)の状況であるが、②多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、それを実行した。そこで八万人が集結したが、その力をもってすれば、内府様側についてそれらの地にいたすべての軍勢が短時間で殲滅し根絶されうるものであった。しかし奉行たちの相互間の意見の一致はいかにも乏しく、全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。反対に内府様は、(上杉)景勝に対する戦のために、すべてを適切に配備しておいて、〔彼は軍勢を侮ることなく、③己が息子(秀忠)を大将にして、(上杉)景勝に対して抵抗させた〕③、残りの軍勢を率いて尾張の国へ赴いた。このことは反対(の奉行)派の予想外の出来事であった。なぜなら彼らは、内府様が(上杉)景勝に対して武器を取って抵抗していることを熟知していたし、④それと同時に彼が都へ引き返して、敵方の不正(行為)を撃退しうるほどの軍勢をもつことはできまいと思ったからであった。④しかし、内府様は時間が無駄に過ぎぬよう、尾張へ到着したその日に、美濃にいた軍勢と合流し、そのうえ⑤五万の軍勢を擁するようにした。

翌日彼は敵と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった。彼らの中には、太閤様の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた(小早川)中納言(金吾秀秋)がいた。同様にたいして勢力ある者ではなかったが、他の三名の諸侯が奉行たちの軍勢に対して武器を向けた。⑦奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。同じく毛利(輝元)殿〔彼は九ヵ国の国主であった〕の軍勢は、合戦場から戦うことなく退却した。

 こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた。(後略)」(『イエズス会日本報告集』、p306~310)(下線、番号、太字は筆者)

 

コメント

「この戦闘の全期間に、内府様の軍勢は己が指揮官の命令を遂行するに際しては最大の迅速さを示した。つまり全軍は、一人の人間の意志に従っていたからである。これに反して敵方では、多数の人々によって指揮されていたので、遅延と緩慢以外の何ものもなかった。なぜなら奉行たちは熟考し、そして互いに多くのことを議論している間に事態に善処すべき機会が両手から逃げてしまったからである。

→上記の報告書を記述したイエズス会修道士ヴァレンティン・カルヴァーリュは、まず西軍(奉行方の軍)の敗因、東軍(家康方の軍)の勝因として、以下の理由を挙げています。

 

西軍(奉行方の軍)の敗因:西軍は多数の人々(二大老毛利輝元宇喜多秀家)・四奉行(前田玄以増田長盛石田三成長束正家)によって指揮されており、互いに多くのことを議論して指揮していたため、その判断・決定は遅延と緩慢以外の何ものでもなく、事態を善処すべき機会を失い続けた。

東軍(家康方の軍)の勝因:東軍は全軍が一人の人間(徳川家康)の意思に従っており、このため迅速に家康は判断・決定・命令を下すことができ、東軍の軍勢もその命令に迅速に従うことができた。

 

 ②「多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、それを実行した。そこで八万人が集結したが、その力をもってすれば、内府様側についてそれらの地にいたすべての軍勢が短時間で殲滅し根絶されうるものであった。しかし奉行たちの相互間の意見の一致はいかにも乏しく、全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。」

→西軍諸将が、美濃に軍勢を集結させようとして、実際に美濃に軍勢が集まり始めたのは九月過ぎのことです。また、下線部にある8万人とは、9月15日の関ヶ原の戦い時に関ヶ原の近辺に集結していた西軍の総数のことを指していると考えられます。

 このため、「全三十日の間に、(筆者注:西軍八万の軍勢が)三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである。」という状況は存在せず、この部分においては、イエズス会関ヶ原の戦いの状況認識は誤っているといえるでしょう。

 

 以下に時系列的に記します。(いずれも慶長5年(1600年)のことです。(※下記の軍勢の数が本当に正しいかは不明ですが、ここでは小野田哲男氏監修の書籍の説に基づきます。)

 

8月23日 東軍、織田秀信の美濃岐阜城を攻略。(東軍、岐阜城攻略部隊は池田輝政福島正則ら3万4千余。織田秀信の軍勢6千程)(小和田哲男、p74~76、p171)

8月23日 東軍、美濃河渡の戦いで、舞兵庫(石田三成家臣)ら千余の軍を破る。

小和田哲男、p80、p171)石田勢らは大垣城に退却。

(※元々、石田三成が率いていたとする美濃方面軍がどの程度の規模なのか。石田三成の軍勢は6千。島津義弘の軍勢は1千程度とされます。(笠谷和比古、p60)同行している小西行長の軍勢は、直属兵2千9百名+与力4千名=6千9百名。(鳥津亮二、p205)これを足した1万4千9百程度が美濃方面軍といえるでしょう。(小西の与力4千名は破格に多く、本当に4千名つけられたかは疑問ですが。)

8月24日 東軍、大垣北方の赤坂の陣に到着。この時の東軍の総数は4万余。(8月23日より数が増えていますが、岐阜城攻略前後に東軍有利とみた美濃近辺の大名たちが東軍についたことによると考えられます。)

8月26日 「増田長盛は、吉川広家に対し、安濃津城攻略の戦功を賞し、併せて美濃表の状況を報じ、赴援を促した。」(藤井治左衛門、p298~299)

8月27日 伊勢安濃津城の富田信高、安濃津城を開城(前日に降伏)。(富田信高の軍勢、1千7百余。毛利秀元吉川広家長束正家安国寺恵瓊長宗我部盛親鍋島勝茂ら西軍3万余)(小和田哲男、p82~83、p171)

安濃津城開城の期日は書籍によって微妙に違うのですが、ここでは小和田氏の説に従います。)

9月1日 徳川家康、江戸を出陣。(家康の軍勢3万2千余)(小和田哲男、p84~85、p171)

9月3日 大谷吉継脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保・平塚為広・戸田重政ら、越前から引き返して関ヶ原に布陣。(6千余)(小和田哲男、p113、171)

(※ 伏見城が落城(8月1日)後に越前を平定した後に北陸道を抑える(主に加賀の前田利長対策)ために大谷吉継が率いた兵は2万余とあり(小和田哲男、p55)とあり、上記の6千余との落差1万4人はどこへ行ったのかが不明です。越前留守居部隊として残った軍勢もいたでしょうが、前田利長の脅威が薄れたため、主に伊勢方面の応援に回った形でしょうか。そもそもこの2万余という数字自体が過大な数字であるかもしれません。)

9月3日 宇喜多秀家、伊勢から戻り大垣城に入る。(宇喜多勢、1万7千余)(小和田哲男、p91、p171)

9月7日 毛利秀元吉川広家長宗我部盛親長束正家、伊勢から戻り南宮山に布陣する。(毛利秀元等の軍勢、3万余。)(小和田哲男、p171)

9月8日 毛利元康・立花宗茂ら東軍側についた京極高次の近江大津城の攻撃を始める。(毛利元康・立花宗茂らの軍勢1万5千余。大津城の京極高3千余)(小和田哲男、p93p171)

9月13日 細川忠興、勅命講和を受け、丹波亀山城を開城。(小和田哲男、p46~47、p171)(丹波亀山城攻略部隊は、小野木重次ら1万5千余の軍勢。細川幽斎勢は5百名程)

9月13日 毛利輝元増田長盛、多賀出雲守に対し、大津城攻撃の激励文を送る。(藤井治左衛門、p352~353)

9月14日 徳川家康美濃赤坂城に着陣。(小和田哲男、p172)

9月14日 小早川秀秋、美濃松尾山城に入る。(小早川秀秋の軍勢、1万1千余)(小和田哲男、p106、172)

9月15日 京極高次、近江大津城を開城し退去。(小和田哲男、p172)

9月15日 関ヶ原の戦い

 

 

 これを以下にまとめると、以下のようになります。

東軍

尾張集結・岐阜攻略軍 約4万

徳川家康直属軍    約3万2千(9月14日合流)

        実質合計7万2千

程度の軍勢だったことが分かります。

 

これに対し、

西軍

美濃方面軍 (石田・小西・島津等) 1万4千9百

宇喜多隊等             1万7千  (9月3日大垣合流)

大谷吉継隊等              6千  (9月3日関ヶ原着陣)

毛利秀元隊等            3万    (9月7日南宮山着陣)

小早川秀秋隊            1万1千  (9月14日松尾山着陣)

合計                7万8千9百

 

 西軍と東軍はほぼ互角、西軍がやや有利ということなります。四捨五入すると、イエズス会が記す、西軍8万とだいたい同じ数字になりますので、実際の西軍の数字もこの程度になるのかもしれません。

 

 しかし、上記をみていくと、美濃方面の西軍はしばらく少なく、西軍が東軍の兵数を一時的に上回るのは、9月7日の毛利秀元隊が南宮山に布陣してから14日に家康の軍が合流するまでの話になります。

(ちなみに、8月26日「増田長盛は、吉川広家に対し、安濃津城攻略の戦功を賞し、併せて美濃表の状況を報じ、赴援を促した。」(藤井治左衛門、p298~299)とあり、他の諸将へも美濃への集結を指示したのは大坂城増田長盛であるということがうかがえます。)

 これは、関ヶ原の戦いの8日前。イエズス会の言うような「30日ものあいだ機会があったのに何も攻撃しなかった」という状況とは全く違います。

 西軍がイエズス会の指摘通りにするならば、9月7日に南宮山に毛利秀元等の隊が合流した後、9月14日に家康本隊が到着する前に、赤坂の陣の部隊4万に対して西軍は決戦を挑むべきだったのでしょう。その時点であれば、西軍の総軍勢は7万8千9百となり約1.7倍の兵力差になります。これで確実に勝てるかまでは当然分かりませんが、少なくとも実際に起こった関ヶ原合戦よりかは遙かに有利な状況になります。

(9月7日の時点で、小早川秀秋がどこにいたのかは実は不明です。慶長5年8月29日付の保科正光(徳川家臣)の自らの家臣宛の書状によると、大垣城石田三成らに加えて小早川秀秋も籠城しているとの記載があります。(白峰旬、p36)これがどの程度精度の高い情報か分かりません。上記の7万8900人には小早川秀秋も入れていますが、小早川秀秋の軍勢を除くと当時の西軍は、6万7900人程度になります。)

 問題は、この9月7日~9月14日の間に命令を即決できるような総大将(すなわち毛利輝元)の能力が欠如していたことです。南宮山の毛利秀元隊は、南宮山に籠ってしまい全く戦う姿勢をみせません。(総大将の意向か分かりませんが、主力の毛利軍にやる気がない以上、そもそも一大決戦など無理な話です。)

 大津城攻めの毛利元康ら1万5千の軍勢が関ヶ原の戦いに参加できなかったのも、西軍の大きな敗因といえます。京極高次の大津城は確かに要地であり、排除しないと兵糧等の輸送に支障をきたすことも分かりますが、赤坂の東軍主力を打倒できず敗退してしまえば、そもそも史実通りほぼ勝負はついて終了になります。「重要な事態」より更に「致命的に重要な事態」というのは存在する訳です。

 よく石田三成が西軍の総大将といわれますが、実際、毛利秀元や毛利元康のような毛利一門に対して、総大将毛利輝元をすっとばして三成が直接秀元・元康に直接指示できるなんてことは常識的に考えられません。こういったところから見ても、形式的にも、実質的にも全軍の指揮(方面指揮官である一門の毛利秀元や毛利元康らに対しても含め)ができるのは毛利輝元しかできないということが分かります。

 つまり、毛利輝元は毛利元康隊を関ヶ原方面へ急行させるべきだったのです。あるいは毛利秀元隊に督戦し、大垣城勢と連合して赤坂の東軍を攻撃させる作戦を実行すべきだったのです。こういった判断ができてこそ「名将」です。そしてこの決断は大津城攻めの指揮官が毛利元康で分かるように、総大将輝元以外に決断できません。

「勝ち」のフラグにまったく気が付かない総大将では勝てません。逆に家康は「勝ちフラグ」を適切に見極め、美濃へ急行しました。総大将の能力差が勝敗を決めたといえます。 

 

「己が息子(秀忠)を大将にして、(上杉)景勝に対して抵抗させた。」

徳川秀忠は、上方へ向けて出陣しているので、この「己が息子」は秀忠ではなく次男秀康の誤りと思われます。(元々の原文の間違いか、訳文の間違いかは分かりませんが。)

 

 ④「それと同時に彼が都へ引き返して、敵方の不正(行為)を撃退しうるほどの軍勢をもつことはできまいと思ったからであった。」

→家康が上洛してくるかどうかについては、西軍首脳部はあまり予想していなかったのは、実際の驚愕ぶりから分かります。この読みの甘さは西軍諸将に共通していたといえます。(徳川方と内通していた吉川広家は家康の動向を把握していたかもしれませんが。)

 

 ⑤「五万の軍勢を擁するようにした。」

→家康が率いた軍は諸書では3万2千程度とされています。(小和田哲男①、p84~85、p171)『イエズス会報告書』が5万としている根拠は不明です。

 

⑥ 翌日彼は敵と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった。」 

奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。同じく毛利(輝元)殿〔彼は九ヵ国の国主であった〕の軍勢は、合戦場から戦うことなく退却した。」

関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋らの裏切り、毛利勢の不戦が関ヶ原の戦いの直接の敗因であると、イエズス会も認識していることになります。

 

まとめ 

 イエズス会の報告によると、関ヶ原の西軍の敗北は以下にまとめることができます。

 

A 西軍は首脳部が多く、互いに多くのことを議論して指揮していたため、その判断・決定は遅く、事態を善処すべき機会を失い続けたのに対し、東軍は全軍が一人の人間(徳川家康)の意思に従っており、このため迅速に家康は判断・決定・命令を下すことができ、東軍の軍勢もその命令に迅速に従うことができたため勝利した。

B 直接的な敗因としては、当日の小早川秀秋らの裏切りと毛利勢の不戦により西軍は敗北した。

 

Aについては、西軍の全軍の判断・行動が遅く、勝利の機会があってもそれを失い続けたのに対し、東軍が勝機とみると判断を即決し、行動を迅速に行ったため勝利したという指摘は妥当でしょう。

 しかし、西軍の判断の遅さの原因を集団指導体制による無駄な議論による時間の浪費にイエズス会は原因を求めますが、元々総大将毛利輝元の立てた全国に兵を分散させる戦略や、せっかく美濃に軍を集結させたのに、家康が到着する前に東軍主力と決戦をしようとせず毛利勢を南宮山に籠り続けさせる等、戦略そのものが「愚策」なのであり、仮に、総大将輝元が東軍の家康と同等の軍事指揮権を掌握し一人の指揮で決断・命令できていたとしても、元々の戦略が「愚策」である以上、この敗因は覆りません。

 西軍が集団で議論して全軍指揮していたといっても、結局は最大兵力を擁し、総大将であった毛利輝元の意向が色濃く反映された全軍の指揮であった訳で、元々の総大将輝元の全軍指揮が誤っていれば勝ちようはありません。他の大老・奉行も、総大将毛利輝元の戦略ではまったく勝ち目は見えないが、西軍全軍の大きな部分を占める毛利軍の言う事を無下にすることもせず、懸念する意見を伝えながらも、結局輝元の愚策が通ったということでしょう。

 仮に西軍諸将が「輝元は無能」と判断し毛利を見限れば、西軍内で内部分裂ということになり、敵を目の前にしている軍が内部分裂しては当然勝ち目がありません。イエズス会の指摘する「集団体制が問題」という話だけでなく、その中の第一人者に選ばれた人物が「無能」だった場合どうするかという課題が西軍諸将に突き付けられ、西軍諸将はその課題を克服できなかった訳です。(これは短期間で克服できる問題ではないので、「無能な輝元を総大将にして、短期決戦となった時点で西軍の負けはほぼ決まった」という事になるでしょう。)

 このため、「西軍は集団で議論して全軍の指揮をしていたため、判断が遅れ負けた」というイエズス会の見解は、一般論としては正しいのですが、関ヶ原の戦いの敗因の分析としては妥当ではないかと思われます。

 

Bについては、妥当といえます。主力である毛利勢が不戦(というか前日に降伏している)の戦いで西軍が勝てる訳がありませんし、戦闘中に裏切りが発生すれば、致命的な打撃を受け敗北する可能性が高いのは当然のことといえます。

 

 

 参考文献

小和田哲男監修『関ヶ原合戦公式本』Gakken、2014年

笠谷和比古関ヶ原合戦大坂の陣吉川弘文館、2007年

白峰旬「通説打破!"天下分け目の戦い“はこう推移した 関ヶ原合戦の真実」(『歴史群像 2017年10月号』Gakken、2017年所収)

鳥津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像-』八木書店、2010年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1979年

松田毅一監訳『十六・七世紀 イエズス会日本報告集 第Ⅰ期第3巻』同朋舎出版、1988年