古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「直江状」は偽書か?⇒偽書です。

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直江状」というものがあります。

 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康が「国元の会津に帰った上杉景勝が謀反をたくらんでいる」という讒訴を受けて、西笑承兌に景勝の家老直江兼続宛てに詰問状を送らせます。この詰問状に対して、兼続が書いて西笑承兌に送った返書が「直江状」だとされます。家康はこの「直江状」を読んで「これほど無礼な書状は見たことがない」と言って、上杉征伐の軍を起こします。(「直江状」のやりとりは慶長5年(1600年)4月、上杉征伐のため家康が伏見を出発するのが6月)

(「直江状」の概要を知らない方は、ウィキペディア直江状 - Wikipedia)などを参照願います。ウィキペディアなど信用ならん、という方は自力で調べてみてください。)

 

 さて、よく言われる話ですが実は「直江状」の原本というのは存在しないのです。あるのは「写し」とされる物だけです。この「写し」は、本物と同じなのか?偽書なのか?という論争が久しく続いています。どちらでしょうか?

 

 結論から言います。この「直江状」の写しは偽書です。いや、考えてみれば当たり前じゃないですか。「直江状」は、家康の上杉征伐を正当化する、とても大事な「無礼な」書状なのです。普通に考えて保存されていない訳がないのですよ。敗者である石田三成らと違って、勝者である家康、その後260年以上も続く徳川将軍家の史料は当然ですが多数保存されているわけです。なぜ、こんな重要な書類だけが消失しちゃうんですか。ミステリーです。いや、ミステリーじゃなく考えてみればわかるでしょう。

 その本物の書状が、徳川家にとって不都合だったから故意に消失させたのです。「あれ、(偽物が出回っているのに)上杉家はなんで抗議しないの?」という意見があるかもしれませんが、徳川時代、上杉家は「北の関ヶ原の戦い」に負けて転封された身、徳川家(がおそらく意図的にばらまいた偽物)に抗議などできません。

 

 上杉征伐の理由は、詰問に対して景勝が上洛を拒否したからだとされます。後ろ暗いことがなければ上洛して弁明すれば、というのは現代人の発想です。上洛というのは、当時の人にとって「臣従」あるいは「降服」を意味するのです。 

 だから上洛というのは重大事であって、かつて景勝が秀吉の元に上洛するときも、家康が秀吉の元に上洛するときも、関ヶ原の戦いの後に島津忠恒が家康の元に上洛するときも、豊臣秀頼が家康の元に上洛するときも、事前に綿密に条件交渉をして細かく詰め、場合によっては起請文とか証人(人質)とか出して言質をとってから、初めて上洛するのです。条件交渉もせずに、のこのこ上洛して「お前改易ね」とか言われたら、ただのバカです。 

 要は、上洛の条件が確定していないのに詰問の使者を派遣しただけで、いきなり大名が上洛してくることは常識的に考えてありえないのです。普通は何度も互いの使者が行き交いして、上洛(「臣従」あるいは「降服」)の条件を詰めていくわけです。(増田長盛大谷吉継が下交渉しているようですが、どの程度進展したか不明です。多分、徳川側が条件交渉をする気がないので、ほとんど進展しなかったのではないでしょうか。)

 まともな条件交渉もせずに、すぐ征伐軍を起こすというのは当時の人達にとってもとんでもない暴挙なのです。 

 もちろん、家康もこのことは暴挙だと知っていたでしょう。しかし、どうしても彼は急ぐ必要がありました。早い話がこの上杉詰問が「言いがかり」だからです。交渉でやり取りが続けば、讒訴している側、詰問している側の矛盾が出てきて、中立的な立場の諸大名から「上杉殿は間違っていないのでは」「あれ、訴えている方がおかしくね?」という同情的な意見が出かねません。そうなると厄介です。「上杉怪しいぜ!」という雰囲気の中で、なしくずし的に征伐軍を起こさないと、当初の段階でも多かった、周りの反対意見がどんどん強まり征伐軍自体起こせなくなってしまいます。

 

 そもそも、この讒訴は裏で家康が糸を引いているのではないかと、景勝は疑っています。というか、この件だけでなく「石田三成七将襲撃事件」にしても、「前田利長による家康暗殺未遂疑惑」にしても、家康取り巻きのポジショントーカー(なぜか現代にもいるのですが)以外は景勝だけでなくみんなが「もしかしてだけどー、もしかしてだけどー、お前(家康)が全部裏で糸引いてるんじゃないの?」と思っている訳です。

 しかし、疑わしくても証拠はありません。当時、権力者の屋敷をガサ入れできる特捜機関など存在しませんので、証拠を強権で探すこともできません。

 

 景勝にとって公正中立な裁定が行われる保証がなければ、上洛などできるわけありません。そして、家康が「公正中立」な人物だとは、(景勝も含め)誰も思っていないのです。となると、仮にまじめに審理を進めていくには、第三者の裁定が必要です。この時点で第三者として裁定ができそうなのは大老毛利輝元ぐらいでしょう。多分、まともに交渉が進めば、その辺が落とし所になるのではないでしょうか。けれども、家康は他の大老の発言力を高めるために、この騒動を起こした訳ではありません。当然審理をする気も第三者に裁定を委ねる気も毛頭ないです。 

 しかし、いきなり征伐軍を起こすのも非常識です。そこで、征伐軍が起こせるようにするには、相手方がそれを上回るような「非常識」な書状を送ってきたことにすれば良いと家康は考えました。それが偽書直江状」です。思い切り無礼な書状であれば、「こんな無礼な相手とこれ以上交渉しても無駄だ。かくなる上は征伐しかない」という話に持っていけます。

 

 ただし、この偽書直江状」が、関ヶ原合戦前に諸大名に回覧された訳ではもちろんありません。兼続の筆跡・花押とかを知っている武将も多いでしょうし、さすがにそんな事をしたら偽物だとばれてしまいます。関ヶ原合戦前後においては真「直江状」の内容は家康・秀忠親子とその側近程度にしか知らされず、他の将にはただ「直江兼続から無礼な書状が届き、家康がそれに怒っている」という事のみ伝わったのだと思われます。 

 偽書直江状」は、徳川幕府成立後に上杉征伐の正当性を徳川家が根拠づけるものとして作られ、広められたものだと考えられます。(合戦中は実体のない「無礼な文書」だったわけですが、戦後は「ではその『無礼な文書』とやらの内容は?」というのが世間の興味の集まるところでしたので、具体的な『無礼な文書』が徳川家によって創作され、これが「直江状」の実体とされた訳です。)現在に残る「直江状」は当時の文書としては言い回しがおかしいところが多いため、江戸時代になって更に原偽書から変遷したものだと思われます。

 

 また、偽書直江状」が、当時の上杉家の事情を詳細に書いていることから、「これは偽書ではないのでは」という意見がありますが、これも間違いです。 

 なぜなら、偽書直江状」は、本物の「直江状」をベースに意図的に改竄されたものだからです。どっかの市井の人が想像で書いた偽書ではないのです。これは、(戦後に)征伐軍を起こしたことを正当化するために、家康が原本を見せて「無礼になるように」誰かに作らせた偽書です。当時の事情が詳細に合っているのは当たり前です。

 

 本物をベースに作成している訳ですので、逆に偽書直江状」を見れば、本物の直江状がどんなものだったか大体わかります。この訴えから、皮肉な部分・挑発的な部分・無謀に強気な部分を除けば本物の直江状にだいぶ近くなるかと思われます(弁明ぽい部分はほとんど本物でしょう。)「本物」の訴えは要約すると、讒訴に対する弁明と、まず讒訴人を糾明せよ、でなければ上洛できないということです。ここら辺は条件交渉として常識的なもので、本物の「直江状」は挑発的なものでもなく、皮肉なものでもなく、極めて常識的なものだったと考えられます。

 

 なお、詰問で戦の準備と非難された「神指新城」(結局完成できず)は、最近の遺構調査で「平城」であり、また完成するまで数年はかかる予定であった、元からあった若松城の方が余程堅固である、という事が分かっています。また、3月に家康の息子秀忠が景勝にあてた書状には会津での普請(新城の建設とみられる)について「もっともに存じ候」と書いてあり、秀忠は特に新城の普請を問題視していません。

 神指新城は、徳川との戦いの準備のために急遽造られた城ではありえず、防衛拠点としては強固な若松城から、防衛力は下がるが、広大な城下町を作ることができる(家臣団を多く住まわせられる、経済的にも発展する)城に首都機能を移転することが目的だったとされています。 

 他にも、その後の書状で7月の時点でさえ徳川と戦うならば真っ先にぶつかるであろう、上杉領の仙道南端である白河口防衛の普請がまったく進んでいないことが明らかにされています。 

 また、6月10日付で景勝は重臣宛てに文書を送って「讒人を糾明してほしいと申し入れた一ヶ条が不問にされ、相変わらず上洛せよと要求ばかりされ、上洛期限まで指定されたことから、上洛要求を呑めないと判断したとする趣意が記されています。」(下記参考文献より引用。) 

 つまり、景勝は、上洛の条件を(おそらく最大限に妥協して)「讒人の糾明」一点に絞って交渉をしたのに、徳川方はこの最低限の条件すら無視して、上洛せよ(つまり「無条件降伏せよ」)と言ってきたのです。しかも、上洛期限を指定されたということは、最後通牒ということになります。この過酷な要求を突き付けられた以上、景勝としては「家康は上杉を許す気は全くないのだ」と理解せざるをえません。景勝がやむなく開戦を決意したのも当然でしょう。こんな相手の交渉条件を完全無視した降服要求を突き付けられれば、それが例えどんな小国大名であったとしても、武家の面目にかけて滅亡覚悟で戦うしかありません。 

 

(平成30年2月24日追記)

今福匡氏の『直江兼続』(新人物往来社、2008年)p204に以下の記述があります。

「景勝が「大老」の仲間入りをしたのは、文禄四年(一五九五)七月二十日、おひろい(秀頼)への忠誠を誓う起請文に連署しているのがひとつの契機であったと考えられる。その直後の八月三日、景勝は他の五名(小早川隆景毛利輝元前田利家宇喜多秀家徳川家康)とともに、五箇条の掟書に署名している。この中に、「無実儀申し上ぐ輩これ有らば、双方召し寄せ、堅く御糾明を遂げられべき事」という一条がある。秀吉死後に景勝謀反の風説、上洛問題が浮上した際、上杉側が、讒言をなした者の「御糾明」を頑なに主張したのはこの掟書が気が念頭にあったためと考えられる。」(太字・下線筆者)とあります。) 

 

 当時、上杉家が大量の浪人を抱えたことを持って、「戦の準備」と考える人もいますが、会津移転で30万石加増されているため、それに伴って家臣を増やすのは自然ですし、実態としては前に会津の大名で上杉と入れ違いに移封された蒲生家の旧臣を多く召し抱えているのです。正直、領内に大量の浪人がいるのは、政情不安の元です。治安維持のためにも領内の浪人を召し抱えるのは不自然なことではありません。

 

 結局、当時景勝に家康反抗の意思はなかったにも関わらず、家康の非常識な要求により開戦に追い込まれたということになると考えられます。

 この事は、結局石田三成直江兼続関ヶ原の戦い事前謀議説を否定する材料になってしまいますので、事前謀議説を支持する方には夢のない話になってしまいますが・・・。

 

(平成30年2月24日追記)

(渡邊大門氏の『謎解き 東北の関ヶ原 上杉景勝伊達政宗』p138~139には以下のように記載されています。

 

「事前盟約がなかったことを明快に論じたのが、宮本義己氏である(「内府(家康)東征の真相と直江状」)。宮本氏は三成が真田昌幸に宛てた二通の書状を根拠にして、兼続と三成の事前盟約説を否定している。

 まず、(慶長五年)七月晦日石田三成書状(真田昌幸宛)を掲出することにしよう。(「真田家文書」)。

 

 私(三成)から使者を三人遣わしました。そのうち一人は昌幸が返事を書き次第、案内者を添えて私(三成)のほうへ下してください。残りの二人は、会津(景勝・兼続)への書状とともに遣わしているので、昌幸のほうからたしかな人物を添えて、沼田(群馬県沼田市)を越えて会津へ向かわせてください。昌幸のところに返事を持って帰ってきたら、案内者を一人添えて、私(三成)まで遣わしてください。

 

 この書状の冒頭の部分では、三成が挙兵する計画を事前に知らせていなかったことを昌幸に詫びている。このような事情を看取すると、この時点で、昌幸にさえ西軍決起の情報が届いていなかった様子がうかがえる。

 そして、この書状を見ると、昌幸を通して景勝のもとに使者を向かわせていることが判明する。文中の案内者とは、土地の事情に詳しい者という意味である。つまり、宮本氏が指摘するように、これより以前に三成は、景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられるのである。(後略)」

 

 上記の渡邊大門氏の記述のように、上杉景勝石田三成ら西軍諸将との事前謀議はなかったと考えるのが妥当と思われます。

 

(上記エントリーにも書きましたが、渡邊氏の「これより以前に三成は、景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられる」の意味が判然としませんが、三成は七将襲撃事件で佐和山城に隠遁するまで、ずっと上杉家との取次を務めていますので、文字通りの意味(三成は、景勝との交渉ルートを持たなかった)ならば単純に間違いです。

「三成が七将襲撃事件で佐和山城に隠遁した以降に、内密に上杉家と交渉するルートを(物理的、地理的に)持たなかった」という意味であれば正しいといえます。)

関連エントリー

koueorihotaru.hatenadiary.com

直江状に関しては、「西笑承兌の詰問状に対応している」「当時の取次事情を知っており、当事者でないと書けない」等の理由により、「写しは原書に近い」という説が出されていますが、現代に伝わる偽文書の直江状は、原文書の元直江状を元に改ざんされた可能性が高いと考えられるため、上記の指摘が当てはまるのは、ある意味当たり前です。 

 直江状の真偽は、果たして、徳川家康が無礼な文書であると決めつけ、この文書をもって上杉征伐を強引に決めたという内容の文書なのか?というのがポイントであり、直江状の「無礼で、家康の所業を皮肉で当てこすっている箇所が直江兼続本人が書いたのか?」というのが、現代に伝わる直江状が偽文書か否かの分かれ目といえます。

 本エントリーは、その(皮肉や当てこすりの)箇所は兼続が書いたのではなく、後世の人間が改ざんしたものであるという考察です。

 もっとも、この偽文書を書いた人物の皮肉や当てこすりの箇所こそが、「当時の徳川家康の欺瞞の所業は、まさにこの直江状の指摘した通り!家康は図星を突かれた!」と江戸時代の人達が思ったことが、この(偽文書)直江状が人口に膾炙した理由になった訳です。これもまた、皮肉といえるでしょう。 )

 

(令和2年8月10日 追記)

 藤井譲治『徳川家康吉川弘文館、2020年に「(筆者注:慶長四年(1599年))九月十四日、会津上杉景勝へ、無事に下国したことを珍重と、この間に大坂に下り仕置などを申し付けているが特に変わることもないので安心されたい、と報じた(『上杉家文書』)。」(p200)、また「(筆者注:慶長四年十月)二十二日には上杉景勝への返書で、当表は変わることなし、また景勝がその地の仕置をしているとの報を了解する旨を報じた(『上杉家文書』)。十一月五日にも景勝に、ここもと仕置等万事、油断なく申し付けているので安心されたい、と報じた。(『上杉家文書』)。」(p201)とあり、この時期は、特に家康は上杉景勝会津帰国と「珍重」としており咎めておらず了承しており、会津での仕置についても了解していることが分かります。

 なお、上記の慶長四年九月~十月は、いわゆる「徳川家康暗殺計画疑惑事件」を契機として、大坂城を家康が軍事的に占拠し、前田利長らを「徳川家康暗殺計画疑惑事件」の首謀者として疑いをかけて咎めた時期と重なります。

 

 参考文献

公益財団法人 福島県文化振興財団編『直江兼続関ヶ原』(戎光祥出版

*すいません、上記が参考文献ですが、「直江状」についての見解は、あくまで筆者の個人的意見です。よろしくお願いします。