古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

天正十五(1587)年の秀吉政権と石田三成の動きについて

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※本エントリーは、↓の年表のコメントです。

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 それでは、天正十五(1587)年の秀吉政権と石田三成の動きについてみていきます。

 

 主に天正十五年の秀吉政権下の動きを分けると以下のようになります。

1.真田昌幸の上洛(二月)

2.九州征伐(三月 秀吉出発、五月 島津義久降伏)

3.肥後一揆の勃発と鎮圧(七月~)

4.秀吉による、関東・奥羽への「関東総無事」命令の伝達(十二月)

 また、昨年の上洛で秀吉政権傘下となった上杉景勝が、長年景勝に刃向い叛乱を続けてきた新発田繁家をようやく滅ぼし、この年の十月二十八日に念願の越後統一を果たすことになりました。

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1.真田昌幸の上洛(二月)

 昨年(天正十四年)からの秀吉の上洛命令に応じず、真田昌幸は上洛の延引を続けていました。

 昌幸がなかなか上洛に応じなかったのは、上洛以後に約束された体制として、真田家が徳川家康傘下に戻ることが命令されていたためです。真田昌幸は、元々真田家は武田家臣でしたが、武田滅亡後、織田家滝川一益)→上杉景勝北条氏政徳川家康上杉景勝と主を変転した経緯があります。

 そして、徳川傘下の時に北条・上杉の信濃排除に貢献しましたが、その後、徳川と北条が和睦をしてしまい、北条が当時真田領であった沼田の地の引き渡しを求めると、家康は昌幸に沼田を北条に引き渡すよう要求してきました。

 替地の約束もなく、沼田の引き渡しを求めてくる家康の理不尽な要求に不満に思った昌幸は、徳川の差し金とされる室田正武の昌幸暗殺計画もあり、徳川家康を見限って今度は上杉景勝の傘下に入ることになります。

 天正十三(1585)年閏八月二日、昌幸は攻め寄せてきた徳川勢を信濃上田城で打ち破り、昌幸は武名を轟かせます。当時、家康と対立していた秀吉も、昌幸と同盟を結び共同して徳川を打倒しようとしています。

 しかし、翌年の天正十四(1586)年になると、豊臣家は徳川家に対して和睦に向けて近付くこととなり、その結果和議が結ばれ、五月には家康と秀吉の妹旭姫が婚姻することになりました。秀吉はこれを受けて真田昌幸を含む信濃衆を徳川の傘下とすることを決めますが、昌幸はこれに従いませんでした。上述したように家康は沼田の引き渡し等、傘下に理不尽な要求をしてくるような主君であり、ましてや暗殺者を仕掛けてくるような人物に再び仕えるというのは、不満であるばかりでなく、昌幸自身の身体の安全すら(再び暗殺される危険性があり、しかも臣従した後では「上意討ち」として不問にされる危険すらある)保証されるものではありませんので、昌幸がこの要求を拒否するのはある意味当然といえるでしょう。

 自らの要求に応じない昌幸に対して、秀吉は「表裏比興者」と非難し、家康に討伐を許しますが、上杉景勝の取り成しもあり、討伐を延期させ、後に赦免します。一方で秀吉は昌幸に対して、早期の上洛を改めて命令します。

 長々と上洛を渋ってきた昌幸でしたが、天正十五(1587)年二月にようやく上洛します。渋っていた昌幸が上洛した理由については、当時の一次史料からは判りませんが、その後の処遇から想像ができます。おそらく、真田家を徳川家の「家臣」とするのではなく、徳川家の「与力」大名とすることで処遇の結着がつき、この結着に納得した昌幸は上洛した、という流れではないでしょうか。

 徳川の「与力」大名になるということは、真田家の直属の主君は豊臣秀吉になりますが、軍役の際だけ徳川の軍事指揮下になるということです。

 これが仮に徳川の「家臣」となったとすると、直属の主君は徳川家康ということになり、昌幸の生殺与奪の件は家康に握られるということになります。「与力」の場合は、昌幸の主君は秀吉ということになりますので、家康が昌幸の処遇や所領を勝手に決めることはできなくなります。こうした保証がない限りは、昌幸が上洛する可能性はなかったといえます。

  こうした、上洛に際する下交渉などは文書としては現代まで残りませんので、内容は想像するより他ありませんが、その後の展開をみればそのような交渉が行われたと考えられる訳です。

 石田三成は、天正十三年十月より真田家との取次を担っており、こうした真田家との下交渉を行ったのも三成だと考えられます。

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2.九州征伐(三月 秀吉出発、五月 島津義久降伏)

 昨年(天正十四年)の十二月二日の戸次川の戦いにおける島津勢の勝利、豊臣勢の敗北により、天正十四年の九州の情勢は島津勢が優勢であるようにみえますが、一方では十月四日には小倉城が豊臣勢に落ち、十二月二十一日に入ると島津方の高橋元種の居城香春嶽(かわらだけ)城が落ちています。島津義弘は豊後岡城を攻略しようとしますが、失敗して撤退しています。また、天正十四年十月には竜造寺政家も既に秀吉と通じるようになっており、肥後にたびたび出陣し放火に及んだといいます。天正十四年の末の段階では既に島津の九州での進撃は止まっており苦戦が続き、島津の前途には暗雲が立ち込めた状況になっていました。

 天正十五年三月の秀吉出陣の報が届くと、島津勢は三月に豊後を放棄して撤退をはじめました。秀吉と秀長はふたつに軍を分け、秀吉は筑後→肥後ルートから、秀長は豊後→日向ルートからそれぞれ九州を攻略することとなります。

 秀吉軍の進撃に対する島津勢の組織抵抗は、筑後の、本拠を古処山とする秋月種実の抵抗くらいで、その種実も四月三日に降服します。秀吉は順調に肥後を南下していき、肥後勢も秀吉に戦わずして降服していきました。(この降服があまりにスムーズだったことが、逆に肥後国一揆が起こった一因ともいえます。)島津方の隈本城主、城親賢も降伏します。

 一方、秀長勢は日向を南下します。四月六日、新納院高城(にいろいんたかじょう)を包囲します。その数十万余であったといいます。四月十七日、秀長勢が高城近くにある根城坂に築いた陣城に対して、島津義弘、家久らの軍勢が総攻撃を仕掛け、激戦となりますが、島津勢は反撃を受け大きな被害を出して撤退します(根城坂の戦い)。

 その後、薩摩川内泰平寺に入った秀吉の許を、五月八日に剃髪した義久が見参し、正式に降伏することになります。

 九州征伐における石田三成の役割は二つあり、ひとつは、九州攻めのための兵糧・物資の補給基地を作ることでした。九州征伐のためには、総勢十八万人に及ぶ兵の兵糧・物資を補給し続けることが必須となります。このため、全国より兵糧・物資を集積し、九州へ輸送するための出発点の港として、豊臣政権として堺(の町人)をあらかじめ支配し、物流を管理する必要がありました。このため、石田三成天正十四年六月より堺奉行に任命され、堺の統制にあたることになります。秀吉の三成堺奉行任命の目的も九州征伐の準備のためだといえます。

 また、九州征伐の兵粮・物資の輸送先の拠点(港)として、戦災で荒廃した九州博多を復興させ、補給基地として整備し、機能させる必要もありました。このため、石田三成は、天正十五年正月の秀吉の催す茶会に博多の豪商である神屋宗湛を招き、秀吉と対面させ、また自ら給仕を務め歓待する等、博多商人との結びつきを強化することになります。また、天正十五年四月二十三日付で、石田三成安国寺恵瓊大谷吉継連署で、博多商人の還住をすすめ、また諸役の免除を行っています。

 石田三成ら奉行衆による、十八万の兵士の兵糧補給を支えるロジスティクスが機能しなければこの九州征伐は成り立たず、三成ら奉行衆の兵站管理のはたらきは九州征伐の成功の根幹をなしたといえるでしょう。

 もうひとつの三成の役割は、島津との取次の役割です。天正十四年九月二十七日に島津義久は、関白秀吉・弟秀長・石田三成・施薬院全宗に対し弁明の書状を送っており、この頃から義久は島津と豊臣の外交窓口として石田三成を認識していたことが分かります。更に天正十五年一月十九日付でも豊臣秀長石田三成宛に義久は弁明の書状を送っていますが、この弁明が聞きとげられることはありませんでした。

 五月八日の島津義久の降伏後、三成は人質の督促を行い、義久降伏後も未だに従わない歳久(義久の弟)に対処するため、十九日歳久居城の祁答院に、伊集院忠棟とともに向かいます。二十四日には、日向飫肥領を伊藤氏への引き渡すよう交渉しますが、島津側の反応が悪く不快を感じています。更に安国寺恵瓊とともに、大隅宮内で敵対を続ける島津家家臣北郷時久・忠虎父子と面談します(その後、北郷親子は降伏)。

 このように、三成らは、義久の降伏後も未だ従わない島津一族・家臣らの説得にあたるなど、戦後処理に奔走することになります。

 その後、六月二十五日に上洛のために博多に来た義久を三成は細川幽斎と迎え、義久を伴い上方へ帰還します。これ以降、三成と細川幽斎は、島津家の取次・指南役として活動を続けることになります。

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3.肥後国一揆の勃発と鎮圧(七月~)

 天正十三年六月二日に秀吉に肥後一国を宛行われた佐々成政は、六月六日に隈本城に入城します。そして、七月には早くも肥後国衆の反発を受け、肥後国一揆が勃発してしまいます。

 なぜ、肥後国一揆は勃発して拡大してしまったのか?佐々成政が検地を強行したことに国衆が反発したことが原因とされますが、以下で理由をみていきます。(荒木栄司氏の『増補改訂 肥後国一揆』を参考文献としています。)

 第一の理由として挙げられるのは、秀吉が肥後に入国した際、肥後の国衆は競って秀吉に降り、秀吉は降伏した国衆たちに旧領安堵の朱印状を交付しました。この安堵状は石高が記載されているものではない簡便なもので、秀吉としてはとりあえず仮のものとして渡したつもりであり、正式な知行宛行は新しい国主が決まり検地が実施された後のものであるという認識でした。しかし、肥後の国衆たちからすると、秀吉が仮だと思っていた朱印状が領地安堵の証であり、この朱印状によって彼らは秀吉直参の家臣となったと考えたのでした。

 このため、新しい国主(佐々成政)が据えられ、その検地命令に従わなければならないということが、そもそも肥後国衆にとって予想外の事態だった可能性があります。これにより、新しい国主である佐々成政が検地を命令しても、国衆たちはこれに従う必要はないと考え、検地に反発したという事になります。命令に従わない国衆を佐々成政が攻めることにより、更に反発が広がり反乱は拡大していきます。

 第二の理由として、佐々成政が検地を命令する時や、命令に従わない国衆を攻める時において、成政は秀吉に伺いを立てずに、独自の判断で決行してしまっていたということが挙げられます。成政としては、肥後国主として秀吉に任じられた訳ですから、国主としての判断・決定は秀吉によって委任されたものであり、いちいち秀吉に伺いを立てる必要はないと考えたのかもしれませんが、肥後の国衆としては、自分たちは秀吉の直参だと考えている訳なので、秀吉の命令ではなく、佐々成政の独自の判断での命令をそもそも聞く必要があるのか、と考えていたのだと思われます。

 また、ここまで肥後国一揆が拡大した第三の理由として、しばらく佐々成政が事態の報告を秀吉にしていなかったという可能性が考えられます。このため、近隣の大名の援軍が必要な事態に拡大するまで、成政が自力でなんとかできると一人で対応している間に事態がどんどん拡大してしまったことが考えられます。

  結局、最初に肥後国衆に統治のあり方を詳しく説明しなかった秀吉の問題と、秀吉に事前に伺いを立てず独自の判断で検地を急ぎ、そして肥後国衆の反発を甘く見て説得する等の柔軟な対処を怠っていきなり城を攻め、反乱の事態が拡大して収拾がつかなくなるまで中央への報告を怠った成政の問題があると考えられます。

 肥後国一揆は、西国の大名達(龍造寺政家鍋島直茂毛利秀包黒田孝高、毛利吉成、毛利輝元小早川隆景立花宗茂安国寺恵瓊ら) が救援に駆けつけなくてはいけない事態まで拡大しました。その後、十二月十七日には一揆の首謀者の一人である隅部親永の籠もる城村城が開城し、ひとつの目途がつくことになります。(一揆自体は 他に抵抗する国衆もまだおり、翌年(天正十六年)まで続いています。)

 翌天正十六年閏五月十四日、肥後で騒動を起こさせた責任を問われる形で、佐々成政は自刃を命じられることになります。

 肥後国一揆では、石田三成細川幽斎は上方にいて、連署で島津家臣新納忠元宛てに、肥後一揆に関して油断なく伊集院幸侃の従うべきことを伝えています。三成と幽斎は島津家との取次として、肥後国一揆への対処について島津家へ指示を出していることが分かります。

 

4.秀吉による、関東・奥羽への「関東総無事」命令の伝達(十二月)

 天正十五(1587)年(?)(後述のとおり年代比定に諸説あります)十二月三日付で伊達政宗家臣片倉景綱宛てに豊臣秀吉判物が送られています。徳川家康に関東惣無事を申し付けたこと、惣無事に違背する者は成敗する旨、伝えています。

 同日付で同様の書状が南奥州岩城家の一族白土右馬助や、常陸下妻の多賀谷重経にも送付されています。

 研究者の間では、上記の書状の年代がいつなのかを巡って天正十四年・天正十五年・天正十六年説が上がっていますが、私見では、この片倉景綱宛ての書状については、『豊臣秀吉の古文書』(柏書房)が比定しているとおり天正十五年だと考えます。

 理由についてですが、天正十四年は徳川家康が上洛したばかりで、真田昌幸の上洛もまだされておらず、また秀吉は九州征伐の準備にかかり切りの状態です。天正十五年は二月に真田昌幸上洛、五月に島津降伏、七月に起こった肥後国一揆も十二月には鎮圧の目途がついている状態となっており、秀吉が奥州の「惣無事」に目を向けてもよい頃だと考えられるためです。

 天正十五年十二月二十四日には、北条氏が「全領国下に「天下御弓矢立」の発動を宣言し、指定した領国の惣人数を翌天正十六年一月十五日を期日に小田原へ招集する陣触れを通達した。こうした指令は北条氏がかつて上杉謙信武田信玄による小田原侵攻の時にも発動したことはなく、その時とは比較にならぬ非常事態宣言の発令と位置付けられ、その緊迫した危機意識を看取できる。」(平山優、p212)とあり、平山優氏は、これは秀吉の各大名への惣無事命令に北条氏が危機感を抱いたためとします。この説が正しいとすると、秀吉判物は天正十五年のものということになります。

(ただ、この書状を天正十四年と比定しても矛盾はありませんので、どちらの年か確定するのは難しいといえます。)

 

 参考文献

荒木栄司『増補改訂 肥後国一揆』熊本出版文化会館、2012年

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

笹本正治『真田三代-真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

藤井譲治『徳川家康吉川弘文館、2020年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

山本博文・堀新・曽根有二編『豊臣秀吉の古文書』柏書房、2015年