読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

立花宗茂と石田三成について

 西軍諸将と石田三成はだいたい何らかのつながりがあるのですが、立花宗茂との関係は、あまり一次史料に見られません。 

 私が持っている書籍ですと、文禄の役の時に三成が宗茂の軍功を賞する書状を出している事くらいしか見当たりませんでした。

 

 小和田哲男「三成の手腕――「五奉行」一の実力者」(安藤英男編『石田三成のすべて』新人物往来社、1985年)97ページより、書状の引用をします。(書状の出典は「立花文書」です。)

 

「昨日之御手柄無是非次第候。仕合之段、珍重存候。以参雖可申入、却而如如何候条、以使者令申候。猶面拝之刻、可申述候。恐々謹言、

(文禄二年)正月廿七日  三成(花押)

(折封ウハ書)

「                 石治少

 立花左近(宗茂)殿

          御陣書        」

 

 

 まあ、この時の三成は軍目付として朝鮮に派遣されていますので、こうした軍功を賞する文書を出していて当然といえば、当然なのですが。

 

 ちなみに、「朝鮮出兵中に石田三成ら奉行衆と朝鮮出兵諸将との意見が対立し、それが関ヶ原の戦いの原因となった」とか、「石田三成ら奉行衆の諸将の軍功報告がデタラメだったため諸将から恨みを買った」とかいう説を言う人がいますが、立花宗茂をはじめとする西軍についた諸将の多くが、かつて朝鮮出兵に参陣していたことを考えれば、そもそもこの説は成り立たないことは分かるでしょう。また、立花宗茂以外の武将への感状も残っており、一般論として三成ら軍目付の軍功の報告が間違っていて、そのため諸将から恨みを買ったという史実はありません。

 

 ただし、個別の武将(加藤清正黒田長政、蜂須賀家久、吉川広家)と軍目付の軋轢はあったようです。ただし、後世の逸話で伝えられている話は、かなり史実から捻じ曲げられているものです。このことについては、後のエントリーで検討します。

 

 しかし、石田三成立花宗茂とは仲が良かったように書かれる書籍をよく見かけるのですが、あまり根拠の史料が示されていないのですね。(立花宗茂は、課せられた軍役以上の兵力を率いて西軍に参陣し、関ヶ原の戦い後も大阪で再戦することを強く主張するなど、(流れでたまたま西軍につかざるを得なくなったような)消極的な味方ではなく、積極的に西軍に味方して戦っていますので、その事を考えると、少なくとも三成ら奉行衆と宗茂が仲が悪かったとは当然考えられませんが。)読者の方で、そのような史実を示す一次史料をお知りの方がいましたら、教えていただけると幸いです。