古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成と忍城水攻めの実相について

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のぼうの城』で有名になった、石田三成忍城水攻めですが、俗説での大まかな流れは「三成が忍城水攻めを思いつき、堤をつくって攻めたものの、堤が決壊、水攻めは失敗して、小田原城開城後にようやく開城、石田三成の『戦下手』ぶりを示すことになった」といったところでしょうか。『のぼうの城』は、忍城の守将である成田長親が主人公ですので、当然俗説に沿って書かれています。

 

 しかし、中井俊一郎氏の『石田三成からの手紙』(サンライズ出版)によりますと、実際の史実では忍城の水攻めを指示したのは豊臣秀吉であり、三成は水攻めに反対していたということです。

 

 以下の記述は、主に中井俊一郎氏の『石田三成からの手紙』を参考にしました。

 

 まず、三成が佐竹義宣・多賀谷重経・宇都宮国綱ら約3万の軍勢を率いて城攻めを行うことになったのは、それまでこの別働隊を率いていた浅野長吉が、天正18(1590)5月末に小田原攻めをしている秀吉本隊に召還されたためです。これは、伊達政宗が小田原に参陣することになったため、伊達家との取次をしていた長吉がその対応をしなければならなかったことによります。三成はそれまで小田原の秀吉の陣下にいましたが、長吉と入れ替わる形でこの別働隊を率いることになります。佐竹義宣ら、関東の反北条・伊達大名の取次を行ない、対伊達の戦争に備えていたのは三成でしたので、その関係で三成が率いる形になったのだと思われます。この時に大谷吉継も共に忍城攻めに従軍しています。(ので、この辺でも『真田丸』の描写は誤りです。というか、『真田丸』では忍城攻めについて正しい場面などひとつもありませんが。)後にはこれに上杉景勝真田昌幸の軍も加わります。

 

 三成らの一隊が館林城に到着したのは5月26日。大軍に包囲された館林城は、その4日後の5月30日にあっさり開城します。一隊がその次に攻略に向かったのが忍城でした。

 三成の一隊が忍城に着いたのは、6月5日以降のことです。

 

 その後、6月12日付で秀吉から三成にあてられた書状があります。

 

「忍の城の儀、御成敗加えらるべく旨、堅く仰せつけられ候と雖も、命迄の儀は御助けなさるべく候様とも、達て色々嘆き申す由候。水責に仰せ付けられ候は(略)足弱以下は端城へ片づけ(略)扶持方申し付くべく候(略)其方御疑いなされるべく非ず候間、別奉行は遣わさるに及ばず候(略)」(*1)(下線筆者)

 

 上記の書状を見ると、水責(水攻め)は秀吉の指示であることがわかります。

 

 これとは入れ違いに6月13日付で三成が浅野長吉、木村常陸介に宛てた書状があります。

「昨日、家臣に丁寧な口上をいただきました。忍城のことは、思惑通り順調に進んでいるので、先発の者は引き取りたいとのご指示でしたので、そのとおりにしました。しかしながら、城攻めの諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。城内から半分の人数が出る(投降してくる)よう城方に働きかけているとのことですが、そんなやり方では遅すぎるのではありませんか。もう城方の詫言などにかまうべき時ではありません。まず攻め寄せるべきです。ご指示お待ちしています。

  以上 

昨日河瀬吉左衛門尉進之候処、御懇之返事、口上被仰含候段、令得心候、忍之城儀、以御手筋大方相済ニ付而、先手之者可引取之由蒙仰候、則其文ニ申付候、然処諸勢水攻之用意候て、押寄儀も無之、御理ニまかせ有之事候、城内御手筋へ御理、半人数を出候ハゝ、遅々たるへく候哉、但人数を出候共、御詫言之筋目ハ、其かまい有之間敷候ハゝ、先可押詰候哉、御報待入候、猶口上申含候、恐々謹言、

            石田少

 六月十三日       三成(花押)

浅弾(浅野長吉)様

木常(木村)  様

 御陣所

 天正十八年(一五九〇)六月十三日、浅野長吉宛書状 浅野家文書 大日本古文書所収」(*2)

 

 つまり、城攻めの諸将が水攻めだと思っているので、城に押し寄せる気をなくしている。まずは攻め寄せるべきではないか、と浅野長吉、木村常陸介に尋ねています。この書状からは、三成自身は諸将が攻める気をなくすため水攻めに反対で、まず力攻めをすべきだと考えていることがわかります。

 

  しかし、その後(*1)の書状が三成に届いたと思われるわけで、秀吉自身の指示で水攻めを行うとされている以上、三成としては指示に従わざるを得なかったのでしょう。

 

 ちなみに「豪雨によって土堤が崩れたために、水攻めが失敗した」というのが従来の通説なのですが、桐野作人『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』(新人物往来社)によりますと、

 

「『家忠日記』(筆者注:記主の松平家忠は、徳川家家臣で当時小田原在陣しています。)によれば、五月中旬から六月五日までほぼ連日雨が降っていたのに、土堤が完成してからはほとんど降らなくなった」(*3)(土堤が完成したのは桐野作人氏によると「6月14日」(*4)となっています。しかし、出典が書いてなく、おそらく、江戸時代の軍記物を参照されているかと思われますが、おそらくこの時点では完成していないと思われます。(理由は後述します。))

 

 また、「この豪雨になった日だが史料によって十六日説と十八日説がある。ところが、右の『家忠日記』によれば、両日とも雨が降った気配がない。間の十七日に夕立があるのみである.。小田原と忍(現・行田市)はそれほど離れていないから、天候にさほど違いがあるとは思えない。それに、この合戦の基本史料である「忍城戦記」にも、この豪雨と堤防崩壊の記述がみえない。」(*5)

 

とのことですので、豪雨によって土堤が崩れたという事実はなかったと思われます。

 

続いて、6月20日付秀吉の三成宛書状。

 

「水責め普請のこと、油断なく申し付け候は尤もに候、浅野弾正真田両人、重ねて遣わし候間、相談し、いよいよ堅く申し付くべく候(略)普請おおかたでき候はば、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候」(*5)(下線筆者)

(筆者注:浅野弾正=浅野長吉、真田=真田昌幸

 

上記からは、やはり秀吉の意思が水攻めであることが確認されるほか、6月20日の段階ではまだ堤は完成していなかったことがわかります。「普請おおかたでき候はば、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候」とあるので、逆にこの時点では普請はおおかたできていた訳ではないことが分かります。

 

 鉢形城攻め(6月14日開城)に参加していた浅野長吉は、7月1日頃に、忍城についたようです。(*6)浅野長吉が戻ったことにより、一軍の指揮権は長吉に戻されたのか三成が指揮をし続けたのか不明ですが、長吉は三成の上司筋にあたりますので、長吉が戻ったら指揮権は長吉に戻ったと考えるのが自然でしょう。

 

 7月3日付秀吉の長吉宛書状。

 

「皿尾口乗り破り、首三十余討ち捕るの由、絵図をご覧なされ候、破り候てしかるべきところに候条(略)とかく水責仰せつけらるる事に候間、其の段申し付くべく候也」(*7)(下線筆者)

 

 上記を見ると、忍城の皿尾口を破って首を三十余を討ち取った功労を上げた長吉に対して、破って当然だと褒めることもなく、水攻めにしろと重ねてしつこく秀吉が言っていることがわかります。つまりは、落城が早くなるかもしれない力攻めはするな、ともかく水攻めをするのだと念押しをしているのです。

 

 7月6日付秀吉の上杉景勝宛ての書状。

「小田原の事、氏政を初めとして、そのほかの年寄ども四五人切腹すべく候。(略)しからばその表の人数、この方へ入れず候間、忍面へ早々相越し、堤丈夫の申し付くべく候、十四、五日ごろには、忍面の堤の躰ご見物なさるべく候条。」(*8)

 

 7月5日に北条氏直は秀吉に降服しています。つまり、北条氏が降服した後にも関わらず、秀吉はなおも忍城の水攻めの継続を指示しているのです。

 

 7月16日に忍城は開城します。これに対し、桐野作人氏は「また忍城が開城した日についても、二説ある。六月二十七日説(『関八州古戦録』『稿本石田三成』など。「忍城戦記」も二十五日の直後とする)と七月十六日説(『行田市史』など)である。

現在は小田原開城のあととする後者が通説となった感がある。しかし、小田原城中にいた成田氏長が秀吉の勧めで、六月二十日頃に投降を承諾している事実がある。これが忍城に伝えられ、折から水攻めを受ける苦衷と相まって、六月二十七日に開城したとするほうが合理的な解釈ではないだろうか」(*9)

 

としていますが、(*7)(*8)の秀吉書状を見る限り、7月以降も水攻めの継続を指示していることが分かりますので、6月27日開城はなく、やはり通説どおり7月16日開城が正しいと思われます。

 

 しかし、成田氏長が6月20日頃に投降を承諾している事実も大きいです。城主(といってもこの時は小田原城にいるのですが)の氏長の投降の意向が城に伝えられることによって、本来忍城攻めは開城し、城攻めも終わるはずなのですが、最早水攻めそのものが自己目的化した秀吉によって、水攻めを継続させるためにこの城主氏長の投降の事実(更には北条氏の降服すら)は忍城内には伏せられ、7月16日まで水攻めは続けられたということなのだと思われます。

 

 忍城攻めの諸将も城方の諸将も秀吉のとんだ茶番劇に付き合わされたということになります。

 

 上記の一連の書状を見ると、実際の所、開城近くまで堤は完成していなかった(あるいは、堤は完成しても水がたまらなかった?)のではないかと思われます。そして、7月16日の数日前に堤は完成した(水がたまった?)のではないでしょうか。7月も半ばに至って、自分が思い描くように堤が完成した(水がたまった)ことに満足した秀吉は、ここではじめて氏長が投降した事を城内に伝えることを許し、この報を受けて忍城が7月16日に開城したという順番が正しいかと思われます。

 

 ここまで堤が完成しなかった(水がたまらなかった)理由としてはいくつかあるかと思われます。

 

 まず、成功した水攻め有名なのは備中高松城の水攻めがあります。この時に作られた堤の長さは2.5キロメートルほどだとされています。

これに対して、忍城の水攻めで必要とされた堤の長さは28キロに及んだといいます。忍城の水攻めではこの長大な堤による必要な水没面積を必要とします。

 それにも関わらず、前述したように「『家忠日記』(記主の松平家忠は小田原在陣)によれば、五月中旬から六月五日までほぼ連日雨が降っていたのに、土堤が完成してからはほとんど降らなかった」(*3)ということです。つまり、作らなければいけない堤は備中高松城と比べて膨大で、当然引き込まなければいけない水の量も大きかったにも関わらず、予想外に雨が降らず、引き込もうとした荒川・利根川の水流も少なく、水かさが思うようにたまらなかったのではないかと思われます。

 

 長く堤を維持するには補修も続ける必要があります。その労力も大変なものだったでしょう。現地を見た三成は備中高松城の水攻めなどとは比較にならない程、忍城の水攻めは困難であることを理解し、長吉に水攻め反対の書状を送ったものの、主君秀吉が水攻めに固執している以上どうしようもありませんでした。長吉も、戻ってすぐに皿尾口を力攻めしていることから、内心では水攻めに反対していたと思われますが、力攻めを秀吉から叱責される始末です。

 

 上記をみていけば、この戦により石田三成の戦下手が知れ渡り、三成は諸将の信頼を失ったなどということはないといえます。それは、忍城水攻めを共に行った大谷吉継長束正家、多賀谷重経、佐竹義宣真田昌幸上杉景勝らが関ヶ原の戦いで西軍に立ったことからも分かるでしょう。むしろ、秀吉のパフォーマンスに振り回される三成に同情が集まったのではないでしょうか。

 

 結局、忍城攻めは大軍で包囲することにより、相手が降服してあっさり終わるはずの戦い(実際、成田氏長から降伏の申し出はあった)を、秀吉が水攻めの様子を諸将に見せたいという理由だけで、無理矢理引き延ばしただけの戦いです。三成をはじめとする豊臣方も、そして守る成田方も、秀吉の都合に振り回されただけの戦いだったといえるでしょう。

 

(令和3年10月17日追記)

以下に、「石田三成関係略年表⑨ 天正十八(1590)年 三成31歳-北条攻め、忍城攻め、奥羽仕置、大崎・葛西一揆」の忍城攻めに記載のある部分について抜粋を掲載します。

 

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

※「水攻め・水責め」については、(引用部分を除き)「水責め」に統一します。

五月二十八日 ■秀吉、石田三成大谷吉継長束正家に上野館林城・武蔵忍城を命じる。また秀吉、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺らに、三成の指示に従って動くように命じた。(中野等、p108~p109)

五月三十日 ■三成、上野舘林城を開城させる。(中野等、p109)

六月二日 ■秀吉、三成に上野国の代官を命じる。(中野等、p109~110)

六月四日 ■三成、上野舘林城を発ち、武蔵忍へ移動。(中野等、p110)

六月五日 ■三成、六月五日以降は、忍城を囲む。(中野等②、p303)

六月七日 ■加藤清正充て秀吉朱印状。「忍城石田三成に、佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷勝俊・佐野天徳寺を添え、二万の軍勢で包囲するように命じたが、すでに岩付城が陥落したので、(筆者注:忍城の)城方の命は助け、城を請け取るように命じた。」とある。(中野等、p110)

→既に、忍城開城の目途がたっている(降伏の交渉が妥結した)かのような、秀吉の書状です。この書状を見ると、既に忍城は降伏することが決まっているというのが、秀吉の認識なのだと思われます。小田原城内に籠る忍城主成田氏長が秀吉に通じ、密かに降伏を申し出ていたら、秀吉がそのような認識となるのも自然かと考えられます。

 また、岩付(岩槻)城が陥落したため、忍城に積極的に落城させるべき戦略的価値がさほどなくなったことも、秀吉が急いで力攻め行う必要性をなくしたということもあるでしょう。

六月十二日 ■石田三成充て秀吉朱印状。

忍城攻略のことは堅く命じたが、(城方の)命は助けてくれるようにとの嘆願①がある。水責めにすれば②城内に籠もる者は一万ほどもいる③であろうが、(水没して)城の廻りも荒所であるから助けるようにし④城内の者の内で、小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤は、別の城(端城)に移して、忍城を請け取り⑥、岩槻城と同様に鹿垣を巡らせておくように。小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦そなたのことについては、何の疑念も持っていないので、別の奉行を差し向けることはしない。忍城を確保したら、すみやかに報告するように。城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧る。」(中野等、p111)(下線、番号筆者)

→ここからは私見です。上記の書状から考えると、小田原城内に籠っている忍城城主成田氏長が豊臣軍と既に内通しており、氏長の指示で忍城は開城する運びになっていたのだと思われます(「命は助けてくれるようにとの嘆願」①をしているのは氏長と考えられます)。

 ところが、小和田城にいる城主氏長に代わって城を守っていた成田長親らが氏長の指示に反発して開城を拒否し、籠城することで歯車が狂いだすことになります。

 氏長の内通の最低条件が、「小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤」の助命ということでしょう。氏長による内通の利益(小田原城内の状況の密告など?)を得ていた秀吉は、氏長との約束を裏切る訳にはいかず、忍城攻めに対しては、殲滅戦は行わず「水責め②」に切り換える必要があったことになります。更に秀吉はこの書状で内に籠もる者は一万ほどもいる③」(これらは、付近の村から城内に避難した民が多く含まれていると考えられます)が、これらの者も、「助けるようにし④」また、既に「小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦」ことになっているので、「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」)ています。

 

 三成は「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を殺すことなく、城内の籠る民達も「助けるようにし④」、小田原城内で内通している者たちは「召し抱える⑦」予定なのだから「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」る、という条件を全てクリアした上で、相手方を降伏させなければいけないという極めて困難なミッションを抱えることになります。

もとより、戦闘中に「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を見分けて助けるなど困難な訳で、更に秀吉は「内に籠もる者は一万ほどもいる③」がこれも「助けるようにし④」ろ、言っている訳ですから、基本的に城攻めでこのような命令を実行するのは不可能に等しいです。

 敵を殺さずに攻めるとしたら、秀吉の命令通り「水責め②」にするより他にありません。力攻めなどできない訳です。(なお、この書状から「水責め②」は秀吉の命令であった事が明確に分かります。)

 以上の、六月十二日付秀吉書状及び前述の六月七日付秀吉書状を見ると、秀吉の命令は既に相手方が降伏していることが前提な話であるように見えますし、そうでなければ実行が極めて困難なものばかりですが、既に降伏が決定事項ならば、水責めをする必要もないし、城内の全ての将兵及び民も降伏しているはずな訳です(つまり忍城の降伏は決定されていない)。秀吉の命令は意味不明で、三成も理解に苦しんだと思われます。

なお、「岩槻落城後は、忍城の軍略的意味合いも低下し、むしろ敵味方を問わず関東・奥羽の将兵に、上方勢の戦の仕様を見せつけることに意味があったとみるべきであろう。」(中野等、p113)という指摘もあり、忍城を降伏させることより、敵味方の将兵に秀吉のパフォーマンスを見せつけることを目的として、秀吉は「水責め」を選択されたとも言えます。

六月十三日 ■浅野長吉・木村重茲充て石田三成書状。

「昨日、家臣の河瀬吉座衛門尉を遣わしたところ、御懇の返事と口上で詳細を河瀬にお伝えいただき①、諒解しました。忍城のことは、これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰ったのでその通りとします②。ところで、味方の軍勢は水責めの用意を進め、押し寄せることもなく、その方向で動いています。城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③ただし、城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④御返事を待ちます。なお(使者に)口上を言付けします。」(中野等、p112~113)

→この書状の日付は六月十三日付書状ですが、先程の六月十二日付の秀吉朱印状が三成に届いていたかは不明です。しかし、この書状は、三成家臣の河瀬吉座衛門尉を浅野長吉・木村重茲の元に遣わして詳細を伺った事に対する返状であり、その「詳細」とは秀吉朱印状の内容とほぼ同内容が伝えられたのだと考えられます。

三成が忍城に派遣される以前は、浅野長吉・木村重茲が忍城攻略の担当だったと考えられ、三成は「引継ぎ」を受ける必要があったのでしょう。このため、三成は「引継ぎ」を受けるため、家臣の河瀬吉座衛門尉を派遣したということになります。

「これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰った②」のは、浅野長吉・木村重茲ということになりますので、長吉・重茲の話をそのまま信じれば、ほぼ忍城降伏の目途がついたという事になりますが、なぜかその後「水責め」の話になってしまいます。ほぼ「降伏」でかたがつきそうなら、水責めをする必要もない訳で、前任の浅野長吉・木村重茲も、後任の石田三成も、秀吉の命令は意味不明で、困惑していることが伺えます。

「城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③」の「半数」とは、六月十二日付秀吉朱印状に書かれた「別の城(端城)に移」すようにとされる「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)」のことでしょう。「城内への御手立てに任せて」とは、忍城内に内通している者がいるのが前提なのでしょうが、そもそも内通者だけでなく、城を守る成田長親が事前の交渉でこの条件を受諾していなければ、城内の半数の引き渡しなど無理でしょう。三成が「ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)」③と書いているところからみれば、このような条件での城方との交渉は全く行われておらず、ゼロから交渉しろということになります。このような「引継ぎ」を受けた三成の困惑はいかばかりか、と思われます。

「城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」

→「城内の半数を退去させる」という条件交渉を貫徹せず、ただ単に「(殲滅せずに)降伏させる」という目的だけを守ればよいのなら、何もしていなくても相手方が「城内の半数を退去させる」という条件を受諾するとは思われませんので、「すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」と三成は聞いています。これに対する長吉・重茲の返信があったかは分かりませんが、六月十二日付の秀吉朱印状の内容から考えると、「すみやかに攻撃をかける(力攻め)」ことも不可、あくまで水責めをするとともに、条件交渉も行え、という返信が三成にあったのだと思われます(こうした返信がなくても六月十二日付の秀吉朱印状の内容で、秀吉の意思は三成には伝わったと考えられます)。

六月二十日 ■石田三成充て豊臣秀吉朱印状。

「◇其所について送って絵図と説明を諒承した。水責めのための普請を油断なく命じたこと、尤もである。浅野長吉・真田昌幸の両名を派遣するので、相談の上、手堅く措置するように。普請の大部分が出来上がれば、使者を遣わし実見させるので、それを招致して精進するように命じる。」(中野等、p114)

六月二十四日 ★北条氏規の籠る韮山城開城。(小和田哲男、p242)

六月二十六日 ★相模石垣山城が作られる。(柴裕之、p109)秀吉、石垣山城に本陣を移す。(中野等、p105)

七月一日 ■この頃、浅野長吉が忍城攻めに戻った。(中井俊一郎、p36)

七月三日 ■浅野長吉宛て秀吉書状。

「(忍城の)皿尾口を破って首を三十余り取ったそうだが、絵図を見れば破って当然のところだ。(忍城は)ともかく水攻めにする。その段申し付ける。」(中井俊一郎、p36~37)

→浅野長吉が忍城の皿尾口を「力攻め」した報告に対する秀吉の返状とみられます。秀吉は、皿尾口は破って当然のところであり、ともかく「水責め」の履行を命令します。ここから、(「力攻め」ではなく)「水責め」が遵守すべき秀吉の既定方針であることが分かります。

七月五日 ★北条氏直、豊臣軍に投降。(柴裕之、p109)

七月六日 ★小田原城開城。(柴裕之、p109)

七月六日 ■上杉景勝宛て豊臣秀吉書状。

「小田原では(筆者注:北条)氏政をはじめ、その他年寄りたち四、五人切腹させます。(略)ついては(小田原の事は片付いたので)こちらへ来ずに、忍城へ早々に行って、堤づくりをしてください。十四、十五日頃には忍城の堤を見物に行きます。」(中井俊一郎、p37)

小田原城開城後もなおも、秀吉が水責めに固執していることが分かります。秀吉にとって忍城水責めは28km(「大正期に現地調査した清水雪翁氏の「全く新規に作った堤が6km程度、既存の堤を補修した部分が22km程度あった」、という評価が妥当なものであろう。」(中井俊一郎、p38)))に渡る大堤防を築き、敵味方に豊臣の水責めの威容を知らしめること自体が目的であり、忍城を早く落城させることすら目的ではないということです。中井俊一郎氏は、「仮に堤の全長を14kmと仮定した場合、必要となる土砂の量は70万㎥となる。旧陸軍の基準に照らすとこの規模の土木工事は築堤だけで約四就六万人に地、すなわち一日一万人の人が働いたとして四十六日かかる工事量という計算になる。」(中井俊一郎、p39)としています。

七月十一日 ★北条氏政・氏照ら切腹。氏直は高野山へ蟄居。(柴裕之、p109)

七月十六日 ■忍城が開城。(中野等、p115)

 

 参考文献

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版、2012年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

(令和3年10月17日追記 終わり)

 

 注

(*1)中井俊一郎 2012年、p35

(*2)中井俊一郎 2012年、p28~29

(*3)桐野作人 2010年、p234

(*4)桐野作人 2010年、p234

(*5)中井俊一郎 2012年、p36

(*6)中井俊一郎 2012年、p36

(*7)中井月一郎 2012年、p36~37

(*8)中井俊一郎 2012年、p38

(*9)桐野作人 2010年、p234~236

 

 

 参考文献

中井俊一郎『石田三成からの手紙』サンライズ出版、2012年

桐野作人『戦国最強の兵器図鑑 火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』新人物往来社、2010年