古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑨ 天正十八(1590)年 三成31歳-北条攻め、忍城攻め、奥羽仕置、大崎・葛西一揆

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

※「水攻め・水責め」については、(引用部分を除き)「水責め」に統一します。

 

正月十四日 ★徳川家康に嫁いでいた秀吉の妹の朝日姫が死去する。(柴裕之、p186)

正月二十一日 ★北条氏、鎌倉建長寺へ兵糧の城への搬入を指示。(小和田哲男、p237)

正月二十七日 ★島津久保、粟野を出立。(新名一仁、p151)

二月十日 ★徳川家康、北条攻めのため三万の兵を率いて出陣。(柴裕之、p106)(小和田哲男、p241)

二月二十二日 ★島津久保、大坂に到着。(新名一仁、p151)

二月二十八日 ■石田三成、島津家の継嗣久保(島津義弘の息子)を同行して京を出発。関東へ下る。(中野等、p102)三成は人数1500を率いて出陣。(中野等②、p302)★島津久保は、騎馬十五騎・歩行四五〇だったとされる。(新名一仁、p151)

二月二十八日 ★秀吉、琉球国王尚寧への返書を発し、琉球使節は帰国。この書状で、近い内に「大明」に対し軍勢を反剣するつもりであることを秀吉は明記している。秀吉は使節派遣により琉球は服属したと理解していた。(新名一仁、p152~153)

二月三十日 ■三成、近江国柏原に到着。(中野等、p102)

三月一日 ★豊臣秀吉、北条攻めのため三万二千の兵を率いて京都を出発。(柴裕之、p107)(小和田哲男、p241)

三月十九日 ★秀吉、駿府城に入る。(柴裕之、p107)

三月二十五日 ★伊達政宗、「黒川城に重臣を集め、秀吉の軍門に降ることを告げている。」(小和田哲男、p249)

三月 ★島津久保、富士川の先陣(一番に渡河)を行い、天下に名誉を高める。(山本博文、p63)

三月二十七日 ★秀吉、駿河国沼津へ進軍。(柴裕之、p107)

三月二十九日 ★豊臣秀次、伊豆山中城を攻め落とす。わずか半日での落城であった。(柴裕之、p107)(小和田哲男、p242)

四月一日 ★秀吉軍、箱根山に陣を張る。(小和田哲男、p243)

四月一日 ■三成、駿河三枚橋を発する。(中野等、p102)

四16\53秀吉軍、箱根湯本に至る。(小和田哲男、p243)

四月三日 ★秀吉軍の先手隊、小田原まで進む。(小和田哲男、p243)

四月三日 ■三成、小田原付近に到着。「以後、三成は秀吉の陣所にあったものと判断され、浅野長吉・増田長盛らとともに側近として秀吉発給の直書や朱印状に登場している」「また、かねてから三成と関係の深かった真田昌幸は、前田利家上杉景勝らが率いる別働の北国勢に属していたが、秀吉の昌幸充て直書には、三成の副状が付随していたと推察される」(中野等、p102~103)

四月 ★豊臣軍、小田原城を大軍勢で水陸から包囲。(柴裕之、p107)

四月六日 ★秀吉、小田原城近くの笠懸(かさかけ)山に家臣を登らせる。(後にここに石垣山城が築かれる。)(小和田哲男、p244)

四月九日 ★この頃、石垣山城の築城が開始される。(小和田哲男、p244)

四月二十日 ★北条方の大道寺政繁の守る上野松井田城が開城。政繁降伏。(小和田哲男、p247)

五月二日  ■佐竹義宣充て石田三成書状。「具体的な戦況を告げるとともに佐竹勢の動きについての具体的提案をおこなっている」(これより前にも三成は義宣に変化する戦況について告げている。)(中野等、p103~104)

五月九日 ★伊達政宗、黒川城出発。小田原へ向かう。(小和田哲男、p249)

五月十六日 ■岩城常隆充て石田三成書状。「ここで三成は、岩城常隆の小田原陣へのすみやかな出仕を促している。近々に佐竹義宣が参陣することになっているので、佐竹と同道するのが最善だが、万一遅参するような事態になっても、佐竹義宣を追って秀吉の許に出向くように告げている。」この書状から三成の居所が秀吉の本陣のあった箱根早雲寺であり、三成が秀吉に近侍していたことが分かる。(中野等、p106)

五月二十二日 ★武蔵岩付城落城。(柴裕之、p109)

五月二十五日 ■佐竹義宣、相州平塚へ到着。翌日(二十六日)の秀吉への拝謁をひかえる。(中野等、p106)

五月二十五日 ■佐竹(東)義久(佐竹家一族・重臣)充て石田三成書状。「翌日(二十六日)の秀吉への拝謁をひかえ、義宣からの進物などについて、三成は細やかな配慮をみせている。しかしながら、書状の眼目は、若年の義宣を当主とする佐竹家を、義久がこれからも支え続けて行くべきである、との助言であろう。」この書状に、嶋左近清興の名があり、この頃には既に嶋左近が三成に属していたことが分かる。(中野等、p106~108)

五月二十六日 ■佐竹義宣、秀吉に拝謁。この頃までは三成は秀吉の陣所にいたと考えられる。(中野等、p108)

五月二十八日 ■秀吉、石田三成大谷吉継長束正家に上野館林城・武蔵忍城を命じる。また秀吉、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺らに、三成の指示に従って動くように命じた。(中野等、p108~p109)

五月三十日 ■三成、上野舘林城を開城させる。(中野等、p109)

六月二日 ■秀吉、三成に上野国の代官を命じる。(中野等、p109~110)

六月四日 ■三成、上野舘林城を発ち、武蔵忍へ移動。(中野等、p110)

六月五日 ■三成、六月五日以降は、忍城を囲む。(中野等②、p303)

六月五日 ★伊達政宗、小田原到着。(小和田哲男、p249)

六月七日 ■加藤清正充て秀吉朱印状。「忍城石田三成に、佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷勝俊・佐野天徳寺を添え、二万の軍勢で包囲するように命じたが、すでに岩付城が陥落したので、(筆者注:忍城の)城方の命は助け、城を請け取るように命じた。」とある。(中野等、p110)

→既に、忍城開城の目途がたっている(降伏の交渉が妥結した)かのような、秀吉の書状です。この書状を見ると、既に忍城は降伏することが決まっているというのが、秀吉の認識なのだと思われます。小田原城内に籠る忍城主成田氏長が秀吉に通じ、密かに降伏を申し出ていたら、秀吉がそのような認識となるのも自然かと考えられます。

 また、岩付(岩槻)城が陥落したため、忍城に積極的に落城させるべき戦略的価値がさほどなくなったことも、秀吉が急いで力攻め行う必要性をなくしたということもあるでしょう。

六月十二日 ■石田三成充て秀吉朱印状。

忍城攻略のことは堅く命じたが、(城方の)命は助けてくれるようにとの嘆願①がある。水責めにすれば②城内に籠もる者は一万ほどもいる③であろうが、(水没して)城の廻りも荒所であるから助けるようにし④城内の者の内で、小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤は、別の城(端城)に移して、忍城を請け取り⑥、岩槻城と同様に鹿垣を巡らせておくように。小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦そなたのことについては、何の疑念も持っていないので、別の奉行を差し向けることはしない。忍城を確保したら、すみやかに報告するように。城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧る。」(中野等、p111)(下線、番号筆者)

→ここからは私見です。上記の書状から考えると、小田原城内に籠っている忍城城主成田氏長が豊臣軍と既に内通しており、氏長の指示で忍城は開城する運びになっていたのだと思われます(「命は助けてくれるようにとの嘆願」①をしているのは氏長と考えられます)。

 ところが、小和田城にいる城主氏長に代わって城を守っていた成田長親らが氏長の指示に反発して開城を拒否し、籠城することで歯車が狂いだすことになります。

 氏長の内通の最低条件が、「小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤」の助命ということでしょう。氏長による内通の利益(小田原城内の状況の密告など?)を得ていた秀吉は、氏長との約束を裏切る訳にはいかず、忍城攻めに対しては、殲滅戦は行わず「水責め②」に切り換える必要があったことになります。更に秀吉はこの書状で内に籠もる者は一万ほどもいる③」(これらは、付近の村から城内に避難した民が多く含まれていると考えられます)が、これらの者も、「助けるようにし④」また、既に「小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦」ことになっているので、「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」)ています。

 

 三成は「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を殺すことなく、城内の籠る民達も「助けるようにし④」、小田原城内で内通している者たちは「召し抱える⑦」予定なのだから「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」る、という条件を全てクリアした上で、相手方を降伏させなければいけないという極めて困難なミッションを抱えることになります。

もとより、戦闘中に「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を見分けて助けるなど困難な訳で、更に秀吉は「内に籠もる者は一万ほどもいる③」がこれも「助けるようにし④」ろ、言っている訳ですから、基本的に城攻めでこのような命令を実行するのは不可能に等しいです。

 敵を殺さずに攻めるとしたら、秀吉の命令通り「水責め②」にするより他にありません。力攻めなどできない訳です。(なお、この書状から「水責め②」は秀吉の命令であった事が明確に分かります。)

 以上の、六月十二日付秀吉書状及び前述の六月七日付秀吉書状を見ると、秀吉の命令は既に相手方が降伏していることが前提な話であるように見えますし、そうでなければ実行が極めて困難なものばかりですが、既に降伏が決定事項ならば、水責めをする必要もないし、城内の全ての将兵及び民も降伏しているはずな訳です(つまり忍城の降伏は決定されていない)。秀吉の命令は意味不明で、三成も理解に苦しんだと思われます。

 なお、「岩槻落城後は、忍城の軍略的意味合いも低下し、むしろ敵味方を問わず関東・奥羽の将兵に、上方勢の戦の仕様を見せつけることに意味があったとみるべきであろう。」(中野等、p113)という指摘もあり、忍城を降伏させることより、敵味方の将兵に秀吉のパフォーマンスを見せつけることを目的として、秀吉は「水責め」を選択されたとも言えます。

六月十三日 ■浅野長吉・木村重茲充て石田三成書状。

「昨日、家臣の河瀬吉座衛門尉を遣わしたところ、御懇の返事と口上で詳細を河瀬にお伝えいただき①、諒解しました。忍城のことは、これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰ったのでその通りとします②。ところで、味方の軍勢は水責めの用意を進め、押し寄せることもなく、その方向で動いています。城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③ただし、城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④御返事を待ちます。なお(使者に)口上を言付けします。」(中野等、p112~113)

→この書状の日付は六月十三日付書状ですが、先程の六月十二日付の秀吉朱印状が三成に届いていたかは不明です。しかし、この書状は、三成家臣の河瀬吉座衛門尉を浅野長吉・木村重茲の元に遣わして詳細を伺った事に対する返状であり、その「詳細」とは秀吉朱印状の内容とほぼ同内容が伝えられたのだと考えられます。

 三成が忍城に派遣される以前は、浅野長吉・木村重茲が忍城攻略の担当だったと考えられ、三成は「引継ぎ」を受ける必要があったのでしょう。このため、三成は「引継ぎ」を受けるため、家臣の河瀬吉座衛門尉を派遣したということになります。

「これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰った②」のは、浅野長吉・木村重茲ということになりますので、長吉・重茲の話をそのまま信じれば、ほぼ忍城降伏の目途がついたという事になりますが、なぜかその後「水責め」の話になってしまいます。ほぼ「降伏」でかたがつきそうなら、水責めをする必要もない訳で、前任の浅野長吉・木村重茲も、後任の石田三成も、秀吉の命令は意味不明で、困惑していることが伺えます。

「城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③」の「半数」とは、六月十二日付秀吉朱印状に書かれた「別の城(端城)に移」すようにとされる「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)」のことでしょう。「城内への御手立てに任せて」とは、忍城内に内通している者がいるのが前提なのでしょうが、そもそも内通者だけでなく、城を守る成田長親が事前の交渉でこの条件を受諾していなければ、城内の半数の引き渡しなど無理でしょう。三成が「ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)」③と書いているところからみれば、このような条件での城方との交渉は全く行われておらず、ゼロから交渉しろということになります。このような「引継ぎ」を受けた三成の困惑はいかばかりか、と思われます。

「城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」

→「城内の半数を退去させる」という条件交渉を貫徹せず、ただ単に「(殲滅せずに)降伏させる」という目的だけを守ればよいのなら、何もしていなくても相手方が「城内の半数を退去させる」という条件を受諾するとは思われませんので、「すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」と三成は聞いています。これに対する長吉・重茲の返信があったかは分かりませんが、六月十二日付の秀吉朱印状の内容から考えると、「すみやかに攻撃をかける(力攻め)」ことも不可、あくまで水責めをするとともに、条件交渉も行え、という返信が三成にあったのだと思われます(こうした返信がなくても六月十二日付の秀吉朱印状の内容で、秀吉の意思は三成には伝わったと考えられます)。

六月十四日 ★武蔵鉢方城落城。(柴裕之、p109)

六月二十日 ■石田三成充て豊臣秀吉朱印状。

「◇其所について送って絵図と説明を諒承した。水責めのための普請を油断なく命じたこと、尤もである。浅野長吉・真田昌幸の両名を派遣するので、相談の上、手堅く措置するように。普請の大部分が出来上がれば、使者を遣わし実見させるので、それを招致して精進するように命じる。」(中野等、p114)

六月二十四日 ★北条氏規の籠る韮山城開城。(小和田哲男、p242)

六月二十六日 ★相模石垣山城が作られる。(柴裕之、p109)秀吉、石垣山城に本陣を移す。(中野等、p105)

七月一日 ■この頃、浅野長吉が忍城攻めに戻った。(中井俊一郎、p36)

七月三日 ■浅野長吉宛て秀吉書状。

「(忍城の)皿尾口を破って首を三十余り取ったそうだが、絵図を見れば破って当然のところだ。(忍城は)ともかく水攻めにする。その段申し付ける。」(中井俊一郎、p36~37)

→浅野長吉が忍城の皿尾口を「力攻め」した報告に対する秀吉の返状とみられます。秀吉は、皿尾口は破って当然のところであり、ともかく「水責め」の履行を命令します。ここから、(「力攻め」ではなく)「水責め」が遵守すべき秀吉の既定方針であることが分かります。

七月五日 ★北条氏直、豊臣軍に投降。(柴裕之、p109)

七月六日 ★小田原城開城。(柴裕之、p109)

七月六日 ■上杉景勝宛て豊臣秀吉書状。

「小田原では(筆者注:北条)氏政をはじめ、その他年寄りたち四、五人切腹させます。(略)ついては(小田原の事は片付いたので)こちらへ来ずに、忍城へ早々に行って、堤づくりをしてください。十四、十五日頃には忍城の堤を見物に行きます。」(中井俊一郎、p37)

小田原城開城後もなおも、秀吉が水責めに固執していることが分かります。秀吉にとって忍城水責めは28km(「大正期に現地調査した清水雪翁氏の「全く新規に作った堤が6km程度、既存の堤を補修した部分が22km程度あった」、という評価が妥当なものであろう。」(中井俊一郎、p38)))に渡る大堤防を築き、敵味方に豊臣の水責めの威容を知らしめること自体が目的であり、忍城を早く落城させることすら目的ではないということです。中井俊一郎氏は、「仮に堤の全長を14kmと仮定した場合、必要となる土砂の量は70万㎥となる。旧陸軍の基準に照らすとこの規模の土木工事は築堤だけで約四就六万人に地、すなわち一日一万人の人が働いたとして四十六日かかる工事量という計算になる。」(中井俊一郎、p39)としています。

七月十一日 ★北条氏政・氏照ら切腹。氏直は高野山へ蟄居。(柴裕之、p109)

七月十三日 ★小田原城内で秀吉の論功行賞。功第一とされた家康の関東移封が決まる。(小和田哲男、p251~252)

七月 ★秀吉、徳川家康を関東へ移封。(柴裕之、p109)秀吉は、織田信雄徳川家康の旧領への移封を命ずるが、信雄は断ったため改易とした。(柴裕之、p186)

七月十六日 ■忍城が開城。(中野等、p115)

※参考↓

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七月十七日 ★秀吉、小田原城を出発し、奥州に向かう。(小和田哲男、p253)

七月十九日 ■石田三成、佐竹家重臣の小貫氏・真崎氏に、家臣の井口清右衛門尉を派遣し、こちらの指示に従うべしとの書状を送っている。(中野等、p116)

七月二十二日 ■岩城常隆が相模国星谷(しょうこく)で客死。常隆は実子の政隆(当時1歳)がいたが、幼少により秀吉の命により養子の能化丸(のちの貞隆)が岩城家の後を継ぐ(能外丸は佐竹義宣の弟)。能外丸は宇都宮で秀吉に拝謁し、正式に岩城領主となるが、三成も拝謁の場に陪席していたと考えられる。(忍城落城後、宇都宮で三成は秀吉の本隊と合流したと思われる。)(中野等、p116)

七月二十五日 ■石田三成、「鹿島社の大宮司則興に社領において乱妨狼藉を行う者は罪科に処す旨の書状を手交するが、(中略)この文書発給は宇都宮で行われている。」(中野等、p116~117)

七月二十六日 ★秀吉、宇都宮に到着、北関東と奥羽の諸大名に出頭を命じる。(第一次奥羽仕置)(小和田哲男、p253~254)

七月晦日 ■秀吉、本願寺顕如に戦勝祝賀の礼状を出しているが、この副状に三成と増田長盛が出している。(中野等、p117)

七月 ★朝鮮の使節が京都に到着。この時期には秀吉は関東におり、会見は十一月十七日になる。(新名一仁、p154)

八月 ■三成は、制札・禁制などにあたっての「料銭」の料金を具体的に公定した書状を発出している。「もとより、依怙贔屓や現地での不正を防ぐためのものであり、違犯が生じれば厳罰に処するためである。こうした政策に裏付けられて、豊臣政権による支配の正当性が担保されていくことになる。」(中野等、p117~119)

八月三日 ★秀吉、宇都宮を出発。(小和田哲男、p254)

八月六日 ★秀吉、白河に至る。(小和田哲男、p254)

八月九日 ★秀吉、黒川に入る。黒川城に入らず、城下の興徳寺に入った。ここで第二次奥羽仕置が行われる。大崎義隆・葛西晴信らの領地を没収。(小和田哲男、p254)

八月十日 ■秀吉、石田三成に「奥羽仕置」のための「定」を与えている。

 内容としては、以下のとおり。

・今回の検地によって定められた年貢・銭の他、百姓に臨時に道理の合わないことを命じてはいけない。

・盗人は厳罰に処する。

・人身売買を厳禁する。

・諸奉公人は知行によって役をなし、百姓は田畠の耕作に専念すること。

・刀狩りの徹底。

・百姓が居所の村が移動することの禁止。

・永楽銭二十貫文=金子一枚、鐚銭三銭=永楽銭一銭に換算する。

 右の条々に違反するものは、厳罰とする。(中野等、p119~121)

八月十二日 ★秀吉、検地施行に関る朱印状を出す。(小和田哲男、p255)

八月十三日 ■石田三成・長谷川秀一、石川義宗に秀吉朱印状の写しを送り、秀吉の指示を伝える。知行について異動が生じるので、今年の年貢の三分の二を維持し、今後の公儀の指示に従うこととしている。(中野等、p121~123)

八月十三日 ■上記の書状に危機感を覚えた石川義宗は、伊達政宗に取り成しを依頼する。義宗と政宗は従兄弟の関係にあり、このため義宗は政宗に窮状を訴えたのであろう。この後、結果的には石川氏は改易の処分となり、義宗は伊達家の家臣となる。(p123~124)

八月十三日 ★秀吉、黒川を出発、京に戻る。(小和田哲男、p255)

八月十六日 ■石田三成増田長盛、岩城家臣の白土摂津盛守・好雪斎顕逸に「覚」を発給する。岩城家の跡を継いだ能化丸の所領を保障し、蔵入地の代官衆に算用の適正化・明確化を促している。能化丸は、佐竹義宣の弟であり、好雪斎顕逸は佐竹家より遣わされた家臣であり、岩城家はこの後佐竹家の統制下に入り、政権内では三成や増田長盛の指南を仰ぐことになる。(中野等、p124~126)

八月二十日 ■この頃、石田三成は葛西氏旧城の登米に入り浅野長吉と合流。ともに大崎・葛西氏の旧領の仕置に従う。(中野等、p129)

八月二十日 ★秀吉、「唐入り」に向けての具体的準備に入るべく、小西行長・毛利吉成に指示を下す。(中野等、p152)(中野等③、p15)

「当初の計画では大陸侵攻が「来春」すなわち天正十九年に予定されていたことが分かる(筆者注:実際の侵攻は天正二十年・文禄元年)。こののち小西行長・毛利吉成らがいくつかの候補地を踏査し、侵攻の拠点は肥前名護屋に決定する。」(中野等③、p15~16)

八月二十四日 ■毛利家臣佐世元嘉宛て毛利輝元書状。(中野等、p136~137)詳細は、↓

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→上記書状について、中野等氏は天正十八(1590)年としていますが、この頃三成は葛西氏旧領の登米にいるので、少し違和感はあります。三成が直接応対している書状ではありませんので、三成がどこにいてもあまり関係はないかもしれませんが。

九月一日 ★秀吉、京に到着。(柴裕之、p110)★秀吉に従軍していた島津久保も果たす。(新名一仁、p153)

九月八日 ■増田長盛、白土摂津盛守に(能化丸の)すみやかな上洛を促している。(中野等、p126)

九月十五日 ■石田三成奉行滝本太郎左衛門尉・増田長盛奉行永原平左衛門尉、「札」を定める。内容は、「田中郷三ヶ村」の支配を佐竹一門の大山義景に認めたもの。(中野等、p129)

九月二十八日以前 ★島津義弘、国元から大坂に到着。これに伴い、久保は帰国する。(新名一仁、p153)

九月二十九日 ■石田三成、岩城家家中に指示を与える。三成と細川忠興は、奥羽仕置の一環として相馬領・岩城領の検地を担当しており、その結果を受けたものである。秀吉の命令では、検地の出目分を能化丸の蔵入地とするとしているが、今年においては本知の三分の一を能化丸に上納するように指示している。上納は十月中にするようにし、十一月にずれこめば四割上納とし、十一月を過ぎた場合は、闕所とするとしている。(中野等、p126~127)

十月五日 ■好雪斎岡本顕逸充て石田三成書状。好雪斎の経済基盤が派遣元の佐竹家の所領だけでは不十分なため、検地によって期待される「出米」の一部から充当するように指示している。(中野等、p126~127)

十月五日 ■この頃までの石田三成の奥羽在住が確認される。(中野等、p130)

→おそらく、(十月十六日の)大崎・葛西一揆が発生していたら、三成は京都へ戻れずに待機命令が下されていたと考えられますので、十月五日のすぐ後に京都へ向かうため奥羽を出発していたと思われます。

十月十六日 ★「奥州仕置で改易になった陸奥大崎・葛西両氏の旧臣と百姓たちが、陸奥国の旧大崎・葛西領(宮城県北部・岩手県南部)に配置された秀吉直臣の木村義清に対して一揆を起こした」(柴裕之、p110)大崎・葛西一揆の他、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、庄内一揆が起こっている。大崎・葛西一揆、和賀・稗貫一揆は翌年まで続いた。(小和田哲男、p256)

十一月七日 ★秀吉、京都聚楽第で「天下一統」を祝する朝鮮通信使に謁見。(柴裕之、p186)

 この使節はあくまで秀吉の国内統一を祝賀するものであったが、秀吉はこれをもって朝鮮国が「服属」したものとみなし、朝鮮国へ「征明嚮導」を要求する。(中野等③、p16~17)

十一月二十四日 ★大崎・葛西一揆への対処に伊達政宗会津に配置された蒲生氏郷らが対処するが、氏郷の政宗への不信感から、氏郷が秀吉へ「政宗別心」と訴える事態に発展する。(柴裕之、p111)「少なくとも京都では、「伊達政宗謀反」との取り沙汰がもっぱらであった」(中野等、p131)

十一月三十日 ■三成、京都で島津義久・義弘を茶席に招いており、この頃には在京が確認される。(中野等、p130)

十二月四日、五日 ■この頃も三成の在京が確認される。(中野等、p130)

十二月四日 ■島津義久・義弘、細川幽斎の京屋敷に招かれる。石田三成も同席し、「薩隅辺之御置目」について話があったという。(新名一仁、p154)

十二月五日 ■前日の「薩隅辺之御置目」についての話し合いは、細川幽斎石田三成連署の条書にまとめられ、義久に渡された。主な内容は以下のとおり。

・島津領内の蔵入地・寺社領・給人領の収穫量を(京屋敷造営費用を捻出するために)指し出すことと、その前提として検地の実施を命ずること。

・島津久保とその妻亀寿の来春早々の上洛を命じたこと。

・上洛する久保には、しっかりとした老中を補佐役としてつけること。(新名一仁、p155~156)

十二月 ★秀吉、大崎・葛西一揆等の解決のため、甥の豊臣秀次を総大将に、徳川・結城・佐竹他の諸大名に出陣を命じる。(柴裕之、p111)

十二月十五日 ■秀吉の朱印状によると、「三成は佐竹勢とともに「相馬口」の担当を命じられて」おり、この命令を受けて三成は奥羽へ出立した。(中野等、p.130)

十二月十六日 ■「島津義弘様御上洛。火急のこととて東国で一揆が発生し、豊臣秀次殿・石田三成殿・増田長盛殿が出立されたことを聞かれ、御立ちになった。この日は大雪である。」(「天正年中日々記」)(中野等、p.130)

十二月十八日 ■羽柴秀次充て秀吉朱印状。「◇最前、石田三成に一書を充てて、その方(秀次)は宇都宮に居るように命じたが、関東に留守は必要ないので、家康が白河に着陣したら、その方は岩瀬に、また家康が岩瀬に至れば(秀次は)白河にあって、伊達の城にいる軍勢を押さえ、確実に蒲生氏郷会津少将)を先陣に組み入れるよう。

 軍勢の発向後に軍令が変更されたわけだが、当初の命令は秀吉から三成への「一書」、おそらく朱印状のかたちと思われるが、通達されていたことがわかる。こうしたことからも、秀吉の軍令伝達者たる三成の役廻りをうかがうことができよう。」(中野等、p.130)

十二月十九日 ★島津義久、大坂を発ち帰途につく。(新名一仁、p155)

十二月二十七日 ★名護屋が領国内にある肥前波多家宿老有浦大和守充て小西行長重臣小西若狭守書状。この書状によると、「改年後早々にも名護屋城の普請作事が始められる予定であった。」(中野等③、p16)

十二月二十七日 ★島津義久、「日向国細島に上陸するも、厳寒のため持病の「虫気」を発症」(新名一仁、p156)する。

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版、2012年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年