古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ 『真田丸』 第29話 「異変」 感想

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※前回の感想です。↓

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 29話の感想を書きます。

 

 今回は、秀吉が認知症になったという展開でした。このドラマはフィクションですので、突っ込んでも仕方ありませんが、ネットで過去の回を見た時の感想を見ると、「従来のドラマのように、晩年の秀吉を『耄碌』したように描いていないから、このドラマは斬新」と評価する意見も多かったので、なんだよ、結局従来よく描かれた路線と今更同じ路線に戻るのかよ、という気分になってしまいます。

 

 今回のドラマの時系列は、秀次の死(文禄4(1595)年7月15日)の後、慶長伏見大地震(文禄5(1596)年閏7月13日)までですので、その間に秀吉の(病状的な)「耄碌」は始まったことになります。

 

 慶長伏見大地震以後も、明使節の来日(文禄5(1596)年9月)、慶長の役(慶長2(1597)年2月(陣立書)~)、死後の体制の指示(慶長3(1598)年5月)などいろいろ豊臣政権には重要なイベントがありますが、ここら辺は認知症の秀吉が指示したのでしょうか。(秀吉の死は、慶長3(1598)年8月18日。)そのような史料があるのでしょうか?(いや、ないでしょうし、三谷氏に聞くのも野暮というものです。)

 

 よく晩年の秀吉が「耄碌」したという俗書は確かにいろいろ見かけますが、それは千利休切腹天正19(1591)年2月)、唐入り(文禄の役(文禄元(1592)年3月)、秀次切腹(文禄4(1595)年7月)あたりまで遡って「耄碌」していたというのが従来の見方ですので、三谷氏の説はそれとは違います。

 

 筆者の考えでは、秀吉の意識は(むしろ残念ながらと言うべきか)その死の直前まで明晰だったのではないかと思われます。でないと、慶長の役を強行することもできなかったでしょうし、また、秀吉の明確な意思が反映された遺言体制はできないでしょう。

 

 この遺言体制(豊臣政権にとって秀吉死後に一番警戒すべき最大の外様大名徳川家康を最優遇する五大老体制)は、いわゆる五(四?)奉行の意思に、まっこうから反するものでしたので(五奉行のうち浅野長政は家康に近く、奉行衆の中ですら信用されていませんでした。)、彼らが「耄碌」した秀吉に代わってこのような体制を指示することはありえません。

 

 仮に、晩年に秀吉が比喩的な意味ではなく病状として「耄碌」していて、代わりに秀吉死後の豊臣政権体制の具体的な指示を奉行衆から出すことができていれば、家康が豊臣政権に参画する道を実質的に排除して、直臣の奉行衆が政権を仕切りやすい体制にしていたはずです。(家康は、外様大大名(家康自身)が豊臣政権に参画した事により豊臣政権が崩壊したことの反省を踏まえ、徳川幕府に対する外様大名の政権参画を排除しました。)

 

 ということで、その死の1~2ヶ月前くらいまで、秀吉は残念ながら明晰な頭脳を持っていて、その明確な指示によって豊臣政権は動いていたといえるでしょう。