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今回から、関ヶ原の戦いの西軍「総大将」毛利輝元について、考察します。
なぜ、毛利輝元は西軍の「総大将」として大坂城に入城し、西軍の指揮をとることになったのかの理由と経緯をみていきます。(当時の文書に輝元を「総大将」とした記述はないので、輝元を西軍の「総大将」とするのは不適当ではないか、という意見があるかもしれませんが、①豊臣の本拠である大坂城を占拠し、西軍の全軍の戦略を指示している事、②西軍全体でも毛利軍の兵力が最も多い事等から、輝元は西軍「連合軍」の盟主という意味での実質的な「総大将」と呼んで差しさしつかえないと考えます。)
1.秀吉の遺言~「西国の儀任せ置かるの由候」
秀吉の死が翌年となる、慶長二(1597)年十二月二十三日の秀吉父子と毛利輝元との対面について、福田千鶴氏の『豊臣秀頼』より引用します。
「一方、毛利輝元は朝鮮在陣中の慶長二年九月に発病して帰国し、十二月に上洛して、同五年六月に帰国するまで在京を続ける。上洛するとすぐに秀吉に対面を許され(十二月二十三日)、伏見城の奥に招かれ、秀吉から懇ろな言葉をかけられた。体調不良の秀吉が誰にも対面していないなかでのことであり、その場には秀頼も呼ばれていて、輝元は父子から、のし柿や饅頭をもらった。さらに、秀吉から炬燵にあたるように勧められたが、遠慮していると、秀吉がそっと炬燵に手を入れ暖めてくれた。輝元は「このような気詰まりの忝いこと」と秀吉の気安い態度に驚きに驚きながらも、特別の扱いに感激した様子であった。同席者は、石田三成と増田長盛二人のみだった(『荻藩閥閲録』榎本織衛家文書)。
秀頼は数えの五歳。炬燵にあたる父の横で、のし柿や饅頭を食べる無邪気な姿を想像すると、なんとなく長閑(のどか)な光景だが、秀吉としては幼い秀頼を輝元に引き合わせ、情を深めさせようとしたのだろう。こうした機会は一人輝元だけに設けられたわけでもなかったろうが、自分だけに特別な対面があったと喜んでいるところが、いかにも輝元らしい。」(*1)
この時の同席者が石田三成と増田長盛だったのは、文禄二年頃から石田三成と増田長盛が毛利家の「取次」になっていためと考えられます。また、この対面自体が取次である三成と長盛の取りはからいによるものと思われます。以後にも述べますが、こうした三成・長盛と輝元との取次関係が、奉行衆と毛利家の親密な関係を形成し、後の西軍決起に輝元が西軍の総大将として参加する要因となったものと考えられます。
慶長の役の際にも毛利家は朝鮮へ出兵しており、朝鮮出兵に対する秀吉の意向・指事、兵の差配、国分けの可能性等についても三成等との相談があったと思われます。(下記参照↓)
続いて、輝元の家臣の内藤隆春が慶長三(1598)年八月十九日付で出した書状に関連する記述を下記に引用します。
「輝元家臣の内藤隆春が八月十九日付で出した書状は、死を目前にした秀吉が大名たちと最期の別れをした九日の様子を克明に伝えている。(『荻藩閥閲録遺漏』)。長文ではあるが、以下に現代語訳を示す。なお、原文のままの引用は「 」で示した。
(前略)
一、去九日に大名衆が召し寄せられ、ご対面がありました。太閤様は上段におられ、種々の唐物を敷かれ、脇息に寄り懸かられ、青い小袖に紅(もみ)の裏付をお召しになり、側には女衆が五人と露庵という針打ばかりが伺候していました。
一、左座には「家康・前田(利家)殿・伊達(政宗)・宇喜多(秀家)・宰相様(毛利秀元)の五人、右には「殿様(輝元)」お一人だけだったそうです。
一、お煩いが快気するのは難しいとお話になるお声は、いかにも幽かな様子でしたが、御一期後のことなどをお話になるときは、扇にて畳をおたたきになり、いつものような御気色のようでございました。
一、「家康」への御意には、毛利とご相談された子細は、備中清水(高松)城攻めのとき、「信長」に対して、「明智」が思いのままの所業に任せたので、毛利と御神文を取り交わした際、毛利は「表裏事本式者」(物事の裏も表も正式に行う人の意か)とお思いになった由で、西国の儀を任せ置かれる①とのことです。ちょうど実子が生まれた由なので、御家の儀は「松寿(秀就)様」へ渡され、「宰相(秀元)様」へは、出雲・石見両国に今銀山を副えて渡され、本銀山は「輝元」が統治するようにとのことでした。「宇喜多」の娘は御親類であり、ここ一、両年ほど太閤様のもとに置いていたので、「松寿様」と縁組させるとのことでした。「宇喜多」は「輝元」が目をかけて、万一相違のことなどがあれば頸をねじ切るようにとのことで、ただし「輝元」は「本式者」なので、すべてにおいて用捨があるだろうから、「家康」が命じるのがよい。そのでなければ、「草陰より太閤頸を切(きりま)する」と、「宇喜多」に言い聞かせられました。
一、「家康」とご相談された子細をも、「殿(輝元)様」へ御物語なされたとのことです。両家を無二のこととして相談したからには、「お拾」のことに気遣いはなく、成人姿をみることはできないが、「お拾」を各々がそばに置いてくれれば「王位」が廃れることはない。「東西は家・輝両人、北国は前田、五畿内は五人の奉行」が異議なくすれば一向に別儀はない。高麗(朝鮮)は引上げさせるが、「お拾」に考えがあって弓矢をとろうと思えば心次第にすればよく、別条はない、と語られ、御盃となりました。
「今日計(ばかり)の御対面御残多(おのこりおおし)」といわれて、各人に御酒をすすめられ、内へお入りになりましたが、また家康・輝元の二人ばかりを呼び返され、立ちながら、
「お聞ゝたる事は弥不可有忘却候、(いよいよぼうきゃくあるべからざずそうろう)、頼むぞよ〱」
と仰せになり、御手を打ち合わせられたそうです。
これを聞いた佐世元嘉も、これほど(意識が)明白なることは前代未聞であり、余り切り離れた御気分なので、結局は御快気になられるのではないかと申されたとのことです。また、日本始まって以来の名将であると、天下では評判しているそうです。
一、「松寿様」には御存命中に御対面したいと仰せ出されました。明後二十一日に「御袋様」とともに御上駕なされます。普請衆のこともお触替えがあり、四人役で本人も出立する必要があるそうです。早々に人数を上らせてください。これは「家康」より当家へ伝えられたと申しています。
(以下、三ヵ条略)
佐世元嘉から内藤隆春が聞いた情報をさらに内藤元家が得たものなので、多少の誤伝はあるだろうが、かなりの臨場感がある。また、秀吉は快気するのではないか、とみられていたが、書状が記された日には秀吉は黄泉路へと旅立っていた。」(*2)(下線部、強調筆者)
上記の秀吉の遺言では、輝元に「西国の儀を任せ置かれる」①とありますが、これはいきなりこの場で秀吉が言い出したことではありません。
まず、以下の天正十五(1587)年(推定)六月二十五日付秀吉朱印状のように、秀吉が毛利氏を「九州取次」として任せようという構想が持ち上がります。(山本博文氏の『幕藩制の成立と近世の国制』から引用。)
「 覚
一備中残分
一伯耆残分
一備後
一伊与(予)
合三ヶ国
右之分、右馬頭(毛利輝元)於相上■、
一豊前
一筑前
一筑後
合四ヶ国
右相渡之、九州取次可相任事、
六月廿五日 〇(秀吉朱印)
すなわち、秀吉は、九州征服後、備中等の代わりに豊前・筑前・筑後の四ヶ国を毛利輝元に与えて、「九州取次」を任せようとしたのである。これは、毛利氏の意向が配慮され、小早川隆景が伊予から筑前に移るにとどまったが、西国においても当初は「大大名」が「取次」として構想されていたことが分かる。」(*3)
とあります。
また、光成準治氏によると、
「関白豊臣秀次が失脚した文禄四(筆者注:1595)年七月の起請文前書案(『毛利』)には「坂東法度置目公事篇、順路憲法の上をもって、家康に申し付くべく候、坂西の儀は輝元ならびに隆景に申し付くべく候事」とあり、豊臣秀吉・秀頼を補佐する体制として東国を家康、西国を輝元と小早川隆景が統括する構想が示されて」(*4)
います。
上記を見ると、従来から毛利輝元(および小早川秀秋)に西国の儀を任せるという構想が秀吉にあったことが分かります。
少なくとも毛利輝元にとっては、秀吉の遺言により「西国の統括」を任されたという認識と自負があり、大老の中でも、東国の統括を任されたのは徳川家康、西国の統括を任された毛利輝元であり、自分は家康と並び立つ存在であるという認識にあったといえるでしょう。この自己認識がその後の輝元の判断と行動を決める大きな要因となったといえます。
(令和元年10月8日追記)
慶長四年に島津領内で庄内の乱が起こったときの毛利輝元の対応について、堀越祐一『豊臣政権の権力構造』(吉川弘文館、2016年、p49~50、56)に以下の記述があります。
「そこで、慶長四年、島津家臣伊集院氏による叛乱(庄内の乱)における豊臣政権の対応をみてみよう。島津氏領国の薩摩・大隅・日向は言うまでもなく西国に属する。とすれば、毛利輝元が主体となってこの叛乱に対処していかなければならないはずである。山本博文の詳細な研究にあるとおり、実際には家康と「九州取次」の寺沢正成が中心となって対処しており、毛利輝元は関与していなかった。とすると、前掲史料(筆者注:秀吉が遺言で輝元に「西国の儀を任せ置かれる」としたこと)のような体制は、実際にはなかったのであろうか。
だが、これは慶長四年という時期を考慮しなくてはなるまい。この時期は家康の威勢が格段に高まっており、毛利輝元はこれに屈した形になっていた。それゆえに輝元は庄内の乱に関わることができなかったとも推測されるのである。そういった事情は、以下の史料にもあらわれている。(27)(注(27):「旧記雑録後編」巻四五(『鹿児島県史料』))
遠路之儀二候処、度々御使札忝次第、雖申謝候、然者源二郎(伊集院忠真)事、于今楯籠躰ニ候、此中一途雖可申付候、種々差合事候て、令遠慮候、八月入候而、一行可存立覚悟候二、従内府様(徳川家康)御使被指下候間、幸之儀共ニ候、内々得御意可申付心底候、此元之様子、聊御心遣入ましく候、等期後音之時候、恐請煌謹言、
「朱カキ」「慶長四年」七月
差出人の名が記されていないが、おそらく島津義弘であろう。輝元が島津氏に対して「度々御使礼」が送られている事が確認できる。「西国は毛利」という自覚は、輝元の中に存在していたのである。輝元は西国担当として庄内の乱に主導的立場で臨もうとしたが、当時圧倒的な権勢をほこっていた家康によってそれを阻まれたのではなかろうか。」
とあります。
次回は、小早川秀秋の越前転封を巡り、石田三成が行った小早川家旧臣の救済について検討します。(この三成の取った救済行動も、三成等奉行衆と輝元の結び付きを強めるものになったと考えられるからです。)
※ 参考エントリー↓
※ 次回エントリーです。↓
注
(*1)福田千鶴 2014年、p59~60
(*2)福田千鶴、p60~63
(*3)山本博文 1990年、p27~28
(*4)光成準治 2016年、p271
参考文献