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慶長四(1599)年九月七日、「軍勢を率いて伏見から大坂に下った家康は、次いで徳川秀忠正妻の江戸下向・政仁(ことひと)親王(後の後水尾天皇)への譲位・(筆者注:宇喜多)秀家の大坂から伏見への居所変更を求めた(「閥」「長府毛利家所蔵文書」等)。」(*1)とされます。
これは、「さきに触れた東国・北国の大名は大坂城下、九州・中国の大名は伏見城下という屋敷割を、家康はこのとき持ち出したらしい。「東国衆之儀者(は)在大坂、西国衆の儀者(は)在伏見」という秀吉の遺命に背き、なぜ秀家ば大坂にいるのか、という理屈である(「長府毛利家所蔵文書」)。」(*2)ということです。
「慶長四年(一五九九)年正月十日、秀頼は秀吉の遺言に従い、前田利家らに供奉されて伏見城から大坂城(大阪市中央区)に移った。このとき秀家もおそらく大坂に移動し、備前島(大阪市都島区)の邸宅に入ったと考えられる。前年六月頃に着工した大坂三の丸の築造により、多数の武家屋敷や町屋が地ならしのため取り壊されたが、この秀家邸や石田三成・増田長盛の屋敷は破却を免れていた(「西笑和尚文案」。)(*3)と、大西泰正氏は述べており、おそらく慶長四年正月の頃から秀家は、大坂備前島の自分の屋敷に居住していたことが分かります。
では、なぜ「西国衆の儀者(は)在伏見」という秀吉の遺命があったにも関わらず、それまで秀家は大阪に居住していたのでしょうか。
これについては、姜沆『看羊録』に、
「そして〔家康は、〕(筆者注:慶長四年九月に)備前中納言と筑前中納言〔小早川秀秋〕とを伏見に駐留させようとしたが、備前は拒否し、
「〔なくなられた〕大(太)閤には、肥前守と私の二人で共に秀頼〔公〕を戴き大坂を守れ、と遺言された。そのお声がまだ耳に残っております。どうしても命令は聞けませぬ」
と言った。〔しかし、〕家康が〔彼の主張を〕固く拒んで聴かなかったので、秀家はやむをえず、伏見に移駐した。」(*4)
とあり、ここから秀吉の遺言により、秀頼を補佐するために秀家は大阪に居住しており、「東国衆は在大坂、西国衆は在伏見」というのは五大老五奉行には適用されず、秀吉の遺言の方が優先されていたことが分かります。(東国衆である徳川家康が、在伏見三年を命じれられているのも、「東国衆は在大坂」は五大老・五奉行には適用されず、別の秀吉の遺言があったためです。)
徳川家康にしても、慶長四年九月に至るまで、秀家が大坂に居住することを咎めてはいません。秀家の大坂居住が秀吉の遺言によるものであった事を、家康も知っていたためでしょう。
なぜ、慶長四年九月に至って、このような難癖ともいえる要求を家康が秀家にしたかといえば、以下の可能性が考えられます。
① 大坂城の守備を預かる大老前田利長が、前月(八月)から領国(加賀)へ行っており不在でした。九月九日の重陽の節句を祝う事を表向きの理由に、大坂へ下向した家康ですが、この大坂下向を計画した時点で、大坂城に居座り大坂の実権を奪取することが既定事項だったのだと思われます。
利長と秀家は義兄弟(秀家の嫁(豪・南御方)は利長の妹)であり、秀家は利家(慶長四年閏三月に亡くなりましたが)・その子利長と共に秀頼を補佐し、大坂城を守ることが秀吉の遺言によって命じられています。大坂城を乗っ取りたい家康にとって、秀家は前田利長と共に大坂から排除したい「政敵」だったといえます。
② 「東国衆は在大坂」という一般的な置目を、秀吉の五大老・五奉行への遺言より優先することで、五大老である自身に課せられた「在伏見三年」という秀吉の遺言を破ることができると考えたため、と考えられます。
また、「東国衆は在大坂」という置目を理由に、自分の従者を大坂に下らせ大坂城内の自分の軍事力を増強することができる、と考えたからだとも思われます。
家康の要求に対して,秀家は当然抵抗しましたが、家康の強硬さに折れて伏見へ移りました。「九月十一日、京都北野社の松梅院禅昌が大坂屋敷の秀家を訪ねたあと、同月十三日、毛利輝元が「備中納言(秀家)之儀者(は)、在伏見ニ大かた澄(すみ)候由候」、と秀家の伏見への居所変更がおおかた固まったと述べているので、秀吉の大坂退去はおそらくこれ以降のことであろう(「北野」「長府毛利家所蔵文書」。大西二〇一〇)。」(*5)としています。
この家康の秀家に対する伏見移住強要に対して、大西泰正氏は、以下のように述べています。
「大坂城には秀吉から補佐を託された秀頼がいる。また、大坂に下った家康も三年の在伏見と言う秀吉の遺言に背いているではないか(「早稲田大学図書館所蔵文書」)。」(*5)。
また、福田千鶴氏は『豊臣秀頼』で、以下のように述べています。
「事件((※)筆者注:後述します。)後も家康は備前嶋の石田三成旧宅に居住していたが、九月十一日には秀頼四人衆の一人、石田正澄が堺に立ち退いた跡の城内屋敷に移った。その間、「東国衆は在大坂、西国衆は在伏見」と「太閤様御置目」にあるのに西国衆の宇喜多秀家が大坂にいることを家康が強く抗議したため、秀家は在伏見となり、逆に家康の従者は次々と下ってきた(長府毛利家文書)。こうして、家康は秀吉の置目を楯に秀家を大坂から遠ざけることに成功したが、秀吉の遺言では家康こそ伏見にいて政務をとるべきはずだった。それを棚にあげ、家康は東国衆だからと都合よく筋を通したのだろう。」(*6)
と述べています。
なぜ、秀家は家康の強要に対して抵抗したにも関わらず、数日ですぐに折れたのでしょうか。実はこの間に大坂で大事件(※)が起こっています。「徳川家康暗殺計画疑惑事件」です。
福田千鶴氏の『豊臣秀頼』(*7)等から、この間の動きをまとめてみます。(いずれも慶長四年(1599年)の出来事です。)
九月八日 増田長盛・長束正家が来邸し、「家康暗殺計画」の謀略を告げる。首謀者は、大野治長、土方雄久、浅野長政、前田利長。
九月九日 家康、大坂城へ登城。「関原軍記雑考」によると本当に襲撃があったとされますが、実際には不明です。この記述によると、いつの間にか通報したはずの増田長盛・長束正家も家康暗殺計画の一味の扱いになっています。福田氏は「やや講談めいた話であり、(筆者注:藤堂)高虎が秀頼の剣役を勤めた(筆者注:という描写があります。)ことも疑問なので、脚色箇所が多いと思われるが、大坂城奥御殿の様子を考察するうえで参考になる。」(*8)としています。)
九月十一日 家康、大坂の石田正澄屋敷に移る。
同日 京都北野社の松梅院禅昌が大坂屋敷の秀家を訪問(*5)
九月十三日、毛利輝元が「備中納言(秀家)之儀者(は)、在伏見二大かた澄(すみ)候由候」と述べる。(*5)
九月十八日 秀吉の御伽衆だった三人を介して、家康は、大坂城内にいる豊臣家臣達に誓詞を提出させます。(*8)
九月二十六日 「北政所浅野寧が京都新城に移り、その居所であった大坂城西の丸に家康が移った(『義演』)。」(*9)(「徳川家康暗殺計画疑惑事件」の首謀者の一人とされる浅野長政と北政所は縁戚であることに注意する必要があります。)
十月八日 「土方雄久を常陸太田に、大野治長を下野結城に配流し、浅野長政には領国の甲斐に蟄居が命じられた(『慶長見聞書』)。
ここに家康は大坂城西の丸を占拠し、政権内での立場を浮上させ、天下の仕置きを相当することになった(谷徹也「秀吉死後の豊臣政権」)。(*9)
上記のように、宇喜多秀家の居所の伏見移住強要は、「徳川家康暗殺計画疑惑事件」と同時並行で行われています。この慶長四年九月の時点において、宇喜多秀家が補佐すべき前田利長が大坂に不在の上、利長が「徳川家康暗殺計画疑惑事件」の首謀者の一人として疑われたのは、秀家の大坂での立場を著しく弱めたと考えられます。このため、秀家は家康の要求に屈して伏見に移住せざるをえなくなります。
九月二十六日には、秀家の正妻豪の養母である北政所も京都新城に移り、その居所であった大坂城西の丸に家康が移ります。これも、「徳川家康暗殺計画疑惑事件」の首謀者の一人となった縁戚の浅野長政がいた事が、北政所の立場を著しく弱めた事によるものといえます。
こうして、徳川家康は、大坂城を守護すべき前田勢力(婿の宇喜多秀家・前田利家の実娘(豪・秀家の嫁)を養女に迎えた北政所も含む)の大坂城からの排除に成功し、大坂城の乗っ取りに成功することになります。
ちなみに、光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』を見ると、慶長五(1600)年四月八日付の島津忠恒宛島津義弘書状には、「「伏見へは西国衆御番たるべき由御諚仰せ出され候処に、何ほどの儀候哉、諸大名悉く大坂へ家居引っ越され候、我等事とかく承らず候間、伏見へ御番務し候」とあり、多くの大名が前年に伏見から大坂に移動した家康に倣って大坂に移ったのに対し、義弘は伏見に残っており、家康に媚びる姿勢は見せていない。」(*10)とあります。
前年(慶長四年)に家康が伏見から大坂に移ったのに対して、西国衆が置目を破って家康を追いかけ、こぞって大坂に移っていくのを家康が咎めだてもしていないことが分かります。家康に、秀吉の置目などそもそも守る気も大名に守らせる気も全くなく、宇喜多に対しては、この置目を単純に難癖に利用したかっただけだったということが、ここから分かります。
(令和2年10月24日 追記)
藤井譲治『織豊期主要人物居所集成【第2版】』思文閣の記述を見ると、秀吉死後(秀吉生前からですが)、五大老の一人の毛利輝元は伏見に居住しています。また、同じく五大老の上杉景勝も、秀吉死後の上洛後、慶長四(1599)年八月に国許に戻るまで伏見に居住しています。
西国の毛利輝元が伏見居住であっても置目上は確かにおかしくありません。しかし、東国の上杉景勝が伏見居住だと置目上おかしなことになってしまいます(大坂居住でないといけない)が、それを徳川家康が咎めたという史実もありません。
やはり、五大老には「東国衆は在大坂、西国衆は在伏見」の置目は適用されていない、と見るのが妥当でしょう。
(*1)大西泰正 2019年、p213
(*2)大西泰正 2019年、p213
(*3)大西泰正 2017年、p64~65
(*4)姜沆 1984年、p173~174
(*5)大西泰正 2019年、p213
(*6)福田千鶴 2014年、p79
(*7)福田千鶴 2014年、p77~81
(*8)福田千鶴 2014年、p79
(*9)福田千鶴 2014年、p80
(*10)光成準治 2018年、p331
参考文献
大西泰正『シリーズ実像に迫る013 宇喜多秀家』戎光祥出版、2017年
大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』角川新書、2019年
姜沆(朴鐘鳴訳注)『看羊録』平凡社、1984年