「(三谷幸喜のありふれた生活:815)石田三成の「ミニ関ケ原」についての考察」の考察
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※関連エントリー↓
大河ドラマ『真田丸』脚本の三谷氏のコラムが朝日新聞(ウェブ版)に載っています。
(三谷幸喜のありふれた生活:815)石田三成の「ミニ関ケ原」についての考察↓
http://www.asahi.com/articles/DA3S12538866.html
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これについての感想は、前回の孫陳さんへのコメントの返答の通りです。
(下記参照↓)
三谷さんは、なぜ「捏造」と自分が批判されているか自体まったく理解できていません。ちょっとこれは溜息しかでません。
なぜ、「捏造」だと批判されているのか?それは三谷氏のこの数回で書いた骨格のストーリーそのものがフィクション・捏造な訳で、結局無理があるから、オリジナルのフィクションストーリーをさらに創作・追加して、つじつまを合わせるよりほかなく、三谷氏は逆に自分の脚本で、自分の採用した史料が信用ならんものだと、暴露してしまったにすぎない、ということだからです。
ただ、この三谷氏のコラムの以下の点は私も首肯できます。
「①知られざるエピソードを、史実を基に、独自の解釈も入れながらドラマ化する喜び。②しかも、本当の関ケ原の戦いでは、三成の味方となる大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いているのだ。どうしてこんなことになったのか、想像しながら物語を組み立てる作業はとても楽しかった。まさに大河ドラマの脚本を書く醍醐味(だいごみ)がここにある。」(番号、下線は筆者。)
歴史ドラマの脚本家のみならず、市井の素人歴史考察家も「①知られざるエピソードを、史実を基に、独自の解釈も入れながらドラマ化する喜び。」が理由で、歴史考察しているのです。(ドラマ化はさすがに難しいですが・・・・・)
では、市井の素人歴史考察家も、上記の「②しかも、本当の関ケ原の戦いでは、三成の味方となる大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いているのだ。どうしてこんなことになったのか」について、考察してみましょう。
まず、前提として、以下にこの当時の前田派と徳川派の対立について、一次史料に基づいて時系列に並べたエントリーをご覧ください。↓
以下、抜粋します。
ここで、「1月19日、家康と毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、20日は和解が目指されていた。(『言経』24日条)(前田利家)(p218)①」とあり、すでに1月19日の詰問事件の翌日から和解が目指されていた、とあります。
そして、その後「家康暗殺計画事件」など影も形もなく、両派は和解に向かって動き、「2月12日、縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」との間で、誓詞が取り交わされた(『毛利』)。(浅野長政)(p327)②」となるわけです。
このため、一次史料には見えない、「家康暗殺計画事件」や三谷氏の述べる「ミニ関ヶ原の戦い」などそもそも存在しなかったと切り捨てるのも簡単です。三谷氏の述べる「②しかも、本当の関ケ原の戦いでは、三成の味方となる大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いているのだ。どうしてこんなことになったのか」というのも「そもそも、後世の江戸時代に作られた徳川よりの二次史料であり、信用するに値しない」と切って捨てるのも簡単でしょう。しかし、それでは面白くない。
二次史料にも、部分的になんらかの史実があるのだ、と解釈することが、「独自の解釈も入れながらドラマ化する喜び」に繋がるのですね。
『当代記』に、石田三成による「家康暗殺計画」の「物言(うわさ話)」があったという記載があることは、以前のエントリーで述べました。そして、この「物言(うわさ話)」があり(というより、徳川サイドが自ら広めた)、諸将が徳川家康を守るため、家康の屋敷に集まり、そしてその中には「大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いて」いたとしましょう。「そもそも、後世の江戸時代に作られた徳川よりの二次史料であり、信用するに値しない」と切って捨てるのではなく、この中に、部分的になんらかの史実があると考察していくのです。
しかし、その二次史料の記載も、一次史料の記述に整合性があるように考察しなければいけません。そうしないと、三谷氏の失敗例のようにフィクションにフィクションを重ねてつじつま合わせをして、かえって自説の信憑性を著しく下げるという惨状になってしまいます。
江戸時代の二次史料と、当時の一次史料とのあいだに整合性のある解釈・考察がありうるか?
ここで、現代の「徳川史観」に批判的な歴史考察家すらも、江戸時代の史料による「徳川史観」による刷り込みから逃れられていない、ということに思い当たります。
その刷り込みとは「石田三成は、秀吉の死後、一貫して反徳川の急先鋒だった」という考えです。今回の考察にいたるまで、私でさえ、「石田三成は、秀吉の死後、一貫して反徳川の急先鋒だった」という見解に囚われていました。
難しく考えることはなかったのです。一次史料に「1月19日、家康と毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、20日は和解が目指されていた。(『言経』24日条)(前田利家)(p218)①」とあり、そして2月9日に、石田三成は大坂屋敷で、
「宇喜多秀家、伊達政宗、小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、途中から三成の兄・正澄)を招いて茶会を開きます。和気藹々の雰囲気で話が弾み、皆夜遅く帰っています。このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出して」いるのです。これは、三成が私婚違約事件の当事者である伊達政宗を招いて和解の足掛かりとするためです。
なんのことはない、一次史料を信用して、三成を含む九人の衆は、詰問事件の翌日からすぐに和解に動いていたのだという史実を受け入れればよかっただけなのです。
前のエントリーで書いた通り、二次史料を一部信用するならば、「石田三成による家康暗殺計画」の「物言(うわさ話)」というのは、警護の口実で諸将を集めるための徳川派の自作自演の狂言でしょう。そして、「石田三成による」というのは、江戸時代の二次史料では信用できません。なぜなら著者自身が、「関ヶ原の戦いの首謀者は石田三成であるから、当時から石田三成は家康を敵視していたのだろう」という思い込みのもと、書いているからです。すべては後付であり、しかも書いている本人すら自分が書いていることが後付の思い込みに過ぎないことに気が付いてないのです。実際の三成は、他の八人の衆と同じように両派の和解に動いていたのです。
戦国時代の大名の行動様式が「和戦両様」だというのが理解できないと、今回の事件は理解できません。両派がにらみ合っていざ戦か、という状態になっている一方で、同時にすでに両派は和解に向かって動き始めていたのです。
こうした、戦国武将の行動様式を知っていれば、「大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いて」いたのか疑問は氷解します。この時の九人の衆の力の根源は「九人の衆が一致団結して、家康の暴走に対抗する」だったのです。だから、この九人の衆が和解を目指していたからといって、自ら家康の説得におもむくと、かえって徳川派に取り込まれてしまいかねず、一致団結の結束が崩れてしまいます。
しかし、和解交渉する人間は必要です。そこで、和解のための交渉要員に使われたのが、息子真田信幸の嫁が徳川家康の養女(本多忠勝の実娘)である真田昌幸、五奉行に準ずる奉行であり、三成とも近いが五奉行そのものではない大谷吉継でした。彼らは徳川派との和解交渉要員として使われたということに過ぎません。こうした「和戦両様」の「和」のルートの人間は、いつも第三者から「敵の味方についているのでは?」と疑惑を持たれる危険性があったのです。
秀吉から、徳川家康との公式な交流を阻まれた三成が、なんとか家康との交流ルートを構築したのが石田三成-真田信幸-本多忠勝-徳川家康というルートだったということは、以下のエントリーで指摘しました。↓
大谷吉継は、その後も関ヶ原の戦いの直前まで徳川派として行動しているではないか、という指摘がありそうですが、そこまで知っているならば、七将襲撃事件による石田三成謹慎以後、三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)も、石田家も、一時期「豊臣公議大老」徳川家康に屈服していたことは知っているでしょう。大谷吉継も他の奉行衆と足並みを揃えているに過ぎません。