古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十七 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・大谷吉継も、しばらく「徳川派」だった

 

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 では、「徳川派」とは?の続きを書きます。 

 再掲します。

 

A.徳川派(東軍)

 ① 徳川家康・徳川一族・譜代大名

 ② 徳川(秀吉の生前からの)縁戚:(池田輝政・蒲生氏行・真田信幸・石田三成(※)(→西軍)

 ③ 徳川(秀吉の死後の)縁戚:伊達政宗福島正則蜂須賀家政黒田長政加藤清正北政所派?→東軍)

 ④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎浅野幸長北政所派→東軍)

 ⑤ 徳川支持派:(加増を受けた者):森忠政・細川忠興北政所(前田)派→東軍)

 

 続いて、④から見ていきます。

 

④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎浅野幸長北政所派→東軍)

 

 ア.大谷吉継(→西軍)

 大谷吉継もまた三成と同じく、秀吉死後のしばらく間、親家康派として行動しています。

 現代の我々は、最終的には吉継が三成と共に西軍として家康と戦った事を知っているため、これをいぶかる方も多いでしょう。

 しかし、吉継は秀吉の生前から家康と交流がありました。

 

 具体的に大谷吉継徳川家康の関係を見ていきましょう。(以下は、主に池内昭一「大谷刑部と徳川家康」(花ケ崎盛明『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)を主に参照しました。)

 

 天正十四(1586)年十月二十七日、家康は上京し秀吉に聚楽第で対面、臣従します。この時の場に、大谷吉継浅野長政増田長盛石田三成らも同席しています。池内昭一氏は、この時が、大谷吉継が家康と見えた最初であったとします。(*1)

 もちろん、この時は吉継と家康が同じ場所にいたというだけで、まだ親しく声を交わす仲だった訳では当然ありません。

 

 天正十七(1589)年十一月初め、大谷吉継は秀吉の使者として駿河の家康の元へ赴きます。これは天正十七年十月に、いわゆる「名胡桃城事件」が起こったことを受けてです。 

 この時より前、上野国沼田領の所有を巡る沼田領の真田家と北条家の争いがありました。この争いについて秀吉の仲裁により、沼田の三分の一を真田領、三分の二を北条領とする裁定が定められます。ただし、真田が主張して認められた名胡桃の地は、沼田城から目の鼻の先にあり、これを不満に思った北条方の沼田城代猪俣範直が、名胡桃城を勝手に乗っ取ってしまいました。この事件を名胡桃城事件といいます。

 

 これに激怒した秀吉は、北条討伐の腹を決めましたが、気になるのは徳川家の動向です。家康の娘督姫は、北条当主の氏直に嫁いでおり、徳川家と北条家は縁戚です。仮に徳川家が北条家に付くとなれば、これはかなりの脅威となります。

 このため、秀吉としては、家康が北条に与せず北条攻めに協力するように要請する必要がありました。このため、秀吉は使者として吉継を派遣して、家康の意向を伺います。

 使者の吉継に対して、家康は北条親子が態度を改めず不服従の貫くのであれば、殿下の討伐の先手を務めると返答し、秀吉の協力の要請に答えます。

 家康の協力により、秀吉は安心して北条討伐に取りかかることになります。(*2)

 

 その後、朝鮮の陣から帰陣した吉継は、病状が悪化し、しばらく療養に入ります。

 そのような中、慶長二(1597)年九月二十四日、秀吉は徳川家康、富田左近、織田有楽といった人々を連れて、伏見の大谷邸を訪問します。これは吉継の病気見舞いの意もあったといいます。(*3)

 また、外岡慎一郎氏によると、吉継の養子大学助を吉継の後継としてお披露目する目的があった、としています。(*4)

 

 

 このように、吉継と家康の間には秀吉の生前から交流があったことが分かります。

 

 秀吉死後、私婚違約事件が起こり、大老徳川家康と、他の四大老五奉行の間で対立が発生します。

 この時期に、前述したように『当代記』『校舎雑記』には、「(石田三成による)家康暗殺計画の物言(噂話)」があり、そのため、大谷吉継真田昌幸・信幸・信繁、石川光元・一宗らが、徳川屋敷の護衛に駆けつけたことが伝えられています。(*5)

 

 吉継の娘は真田信繁の正室となっており、信繁の兄信幸が徳川家康養女(本多忠勝実娘)小松殿となっていることを考えると、既に真田家を通して大谷家は徳川家と間接的に縁戚関係となっているともいえます。そして、盟友である石田三成が、実はしばらくの間親徳川派だったということも、以前のエントリーで述べました。

 

 ※上記については、以下のエントリーで検討しました。↓ 

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!? 

(また、『当代記』の「(石田三成による)家康暗殺計画の物言(噂話)」の記述については、江戸時代の二次史料であり、『当代記』作者自身の、「関ヶ原の合戦の首謀者は石田三成なのだから、当時から三成と家康は対立していたにちがいない」という先入観・思い込みによる誤りの可能性がきわめて高い事について、上記のエントリーで検討しています。)

 

 こうして考えていきますと、秀吉の生前から家康との交流もあり、真田家を通じて間接的に徳川家と縁戚でもある吉継が親徳川派となるのはむしろ自然なのです。

 

 

 慶長四年閏三月、前田利家の死の翌日、七将による石田三成襲撃事件が起こります。

(七将襲撃事件とは、私婚違約事件で家康を糾弾した奉行衆への不満、慶長の役時における黒田長政蜂須賀家政処分事件への不満に端を発した事件といえます。

 下記のエントリーも参照願います。↓ 

考察・関ヶ原の合戦 其の十六 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何かの続き1

 

 この時、吉継が三成の助命のため、家康の仲裁を得るべく奔走していたことが、事件後の閏三月九日付の吉継の書状で分かります。現代語訳のみ引用します。

 

「(現代語訳)昨日は何度も使者をお送りいただきありがとうございました。今度のこと(諸将による石田三成襲撃事件)ではいろいろご苦労をおかけしましたが、無事におさまり、天下が乱れることもなく皆喜んでおります。それにつきましても、適切なご仲裁と(事後の)配慮、御礼の申しようもございません。本来であればそちらにお伺いし(て御礼申し上げ)なければならないのですが、ご存知のような状態(病身)で、できません今度、お会いする機会がございましたら、いろいろご相談させていただきたく存じます。」(*6) 

 外岡慎一郎氏は「閏三月とあることから、慶長四年とわかる。そして、九日は、福島正則黒田長政ら七将による石田三成襲撃が、家康の仲裁によって未然に収められ、三成の佐和山隠退が決定した翌日にあたる。充所は家康本人か、あるいは家康周辺にあって仲裁の実際を担った人物と推定される」(*7)としています。

 

 

 慶長四(1599)年九月、前田利長らの徳川家康暗殺未遂疑惑事件が発生します。

利長が軍勢を率いて上洛・上坂する可能性もあり、これを警戒するため、家康の要請を受けて大谷吉継の養子大学が北陸方面に軍勢を展開したことが、慶長四年九月二十一日付の島津義弘島津忠恒宛書状から分かります。以下、中野等氏の現代語訳のみ引用します。

 

「◇一、今度、大坂において内府様(家康)が天下の政務をみることとなった。どのような子細に拠るのかわからないが、現在加賀に在国の前田利長(羽柴肥前守殿)に対して、上洛することのないように、と命が下った。万一強(しい)て上洛しようとすれば、越前国でくい止めるとして、大谷吉継(刑少殿)の養子大谷大学殿と、石田三成(石治少)の家中一〇〇〇余を、越前へ下し置かれることとなった。」(*8)

 

 ここで、石田三成自らも越前に兵を率いて出陣したという方がいますが、上記の書状の通り、その見解は誤りであり、出陣したのは「石田家中」です。当時石田三成は隠居・謹慎しており、兵を率いて出陣などできません。

 

 

 また、翌慶長五年の上杉景勝の謀反疑惑の際には、家康の要請を受けて、大谷吉継増田長盛は景勝の上洛の説得にあたります。 

 しかし、この吉継らの説得はうまくいかず、家康は上杉征伐を強行します。

 この説得がうまくいかなかった理由は、景勝が「讒人を糾明してほしいと申し入れた一ヶ条が不問にされ、相変わらず上洛せよと要求ばかりされ、上洛期限まで指定されたことから、上洛要求を呑めないと判断した」ことによります。この事については、以下のエントリーで詳述しました。↓ 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 元々、家康は政敵である上杉を屈服させるために上杉征伐を強行しようとしている訳なので、上杉との交渉などまともにする気がなかったわけです。

 

 

 以上見てきたように、親家康派であった吉継が、なぜ最終的には西軍に付き、家康に敵対することになったのか?

 

 これには、慶長五年にいわゆる「宇喜多騒動」が起こった時に、吉継は家康とともにその調停にあたりましたが、その調停時における家康の対応に、吉継が失望して家康に不信感を抱いたということが考えられます。

 加えて上記で書いたように、景勝謀反疑惑事件の際に、景勝の上洛を吉継は説得することになりますが、その際の家康の強硬姿勢に更なる不信感を抱き、やはり家康は豊臣公議の簒奪を目的として行動している、という疑惑を家康に対して吉継が抱いたという事になったと思われます。

 

 次回のエントリーでは、吉継が家康に不信感を抱くきっかけとなった宇喜多騒動について触れる前に、秀吉から最も期待をかけられた宇喜多秀家の生涯について検討します。

※次回のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

  注

(*1)池内昭一 2000年、p108~109

(*2)池内昭一 2000年、p109~112

(*3)池内昭一 2000年、p113

(*4)外岡慎一郎 2016年、p64

(*5)黒田基樹 2016年、p40

(*6)外岡慎一郎 2016年、p68

(*7)外岡慎一郎 2016年、p69

(*8)中野等 2017年、p410

 

 参考文献

池内昭一「大谷刑部と徳川家康」(花ケ崎盛明『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

黒田基樹『シリーズ 実像に迫る001 真田信繁』戎光祥出版、2016年

国書刊行会編、国立国会図書館デジタルコレクション「当代記」『史籍雑纂. 第二』 国書刊行会国書刊行会刊行書〉、1912年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/7

・外岡慎一郎『シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継』戎光祥出版、2016年

・中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年