豊臣秀次事切腹事件の真相について⑤~秀次は、実際に「謀反」を企てていたのではないか?~「むほんとやらんのさた」とは何か。
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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)
豊臣秀次事切腹事件の真相について②~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)
豊臣秀次事切腹事件の真相について③~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)
豊臣秀次事切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)
1.秀次「謀反」説は現在ほとんど支持されていない
さて、これまで「豊臣秀次の切腹事件の真相について~矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想です(① ② ③ ④)」で、秀次切腹の謎に対する矢部健太郎氏の新説を検討してきたのですが、個人的には、この新説でも色々腑に落ちない点が多くあり(もちろん、従来の通説でも腑に落ちないところがたくさんあり、というより従来の通説が腑に落ちない点が多々あるから、今回の新説が唱えられたのだと思いますが)なんかすっきりしないのですね。
そこで、上記のタイトルに戻る訳です。近年の大多数の(矢部健太郎氏も含めた)歴史学者の説は「秀次は『謀反』の企ては無かった。『無実』なのに、秀次は切腹して死ぬことになった(その「切腹」が「秀次自身の意思」なのか、「秀吉の命令」か、はまさに矢部説の論点で、これは現在の歴史学者でも見解が分かれる訳ですが)」というのが、通説です。
現在の歴史学者で、「いや、秀次は実は本当に『謀反』を企てていたのだ」という説を唱えている方はほとんど見たことがありません。(唱えている学者の方がいたらご教示願います。)
しかし、矢部説のように、「秀吉には秀次に切腹させる意思はなかった」としても、秀次は秀吉政権からの詰問により、高野山行きを余儀なくされました。
そして、その詰問の内容は「むほん(謀反)とやらんのさた御入候て、大かうきけんわろくて(機嫌悪くて)」(*1)と『御湯殿上日記』の七月八日条にあるように(ちなみに、『御湯殿上日記』とは、宮中御所の女房たちによって書き継がれた公的な日誌で貴重な一次史料です。)秀次による「謀反」とやらの噂が秀吉の耳に入って、秀吉の機嫌が悪くなったから、その「謀反の噂」の真偽を問いただすための詰問だったわけです。
ここから、分かることは、
① 『秀次謀反』の噂はあり、しかも秀吉の耳に達するまでに噂は広がってしまい、これを秀吉政権としては放置するわけにはいかなくなった。
② この「『秀次謀反』の噂」の真偽を問いただす詰問使に対して、秀次は申し開きができなかった。あるいは、申し開きはしたが、その弁明は認められなかった。
このため、秀吉に対する謝罪の意を示すために高野山に行くより他なかった。
ということです。
いずれにしても、秀次の高野山行の原因となったのは、「謀反とやらの噂」に対する秀吉政権の詰問であり、その「謀反とやらの噂」の内容が分からなければ、そもそも「謀反」説が正しいかわかりません。
実のところ、この秀次の「謀反」とは何を指しているのでしょうか?
一般的に考えられる「謀反」とは、例えば「本能寺の変」の如く、秀次が秀吉を狙って暗殺したり、暗殺までいかなくても謀って秀吉を幽閉するなどして、秀吉の実権を奪い自身が成り代わったりする等、実力行使が必要なわけです。このための本当の意味での「謀反」は大掛かりな準備や共謀計画、軍事力や資金が必要で、当然このような謀反の計画を立てて途中で露見すれば、証拠が残るはずです。
このような準備があった証拠が全くない(史書からも全くみられない)ゆえに、秀次には「謀反」の証拠は全くない、だから秀次は「謀反」などしている訳がない、という理由により現在の歴史学者の大多数の説は、秀次「謀反」の事実はなかった、という結論になっています。
しかし、実際には「むほんとやらんのさた(謀反の噂)」は実在しています。この「謀反の噂」というものの内容について、もっと注目すべきなのではないでしょうか。
2.そもそも、秀次の「謀反」とは、どういう意味なのか?
そもそも、ここで言われている「謀反」とは、上記で書いているような、(軍事力等を伴うような)具体的な「謀反」を指すのでしょうか?
ここで、太田牛一の「大かうさまくんきのうち」を紹介します。
まず、太田牛一ですが、彼は織田信長の旧臣です。彼が書いた『信長公記』は信長について記載された一代記であり、その記述の精確さから(もちろん、牛一の記憶違いの部分なども指摘されていますが)、歴史学者からも信長研究の第一級の歴史史料として高く評価されています。
本能寺の変以後は丹羽長秀・長重に使えますが、一時隠居、その後秀吉に召し出され、秀吉の死後は秀頼に仕えます。
彼の書いた「大かうさまくんきのうち」は、豊臣秀頼のために書かれた豊臣秀吉の一代記であり、秀次切腹事件の記述もされています。基本的には秀吉・秀頼に不利なことは書いてない書物と考えるべきでしょう。また、作者太田牛一による意図的な虚偽の記述も散見されるようです。このため、「大かうさまくんきのうち」は、『信長公記』ほど客観的に正確な記述としてはあまり信頼されていません。
しかし、同時代を生きた太田牛一の記録なのですから、この史料は史料として内容を検討する必要があります。特に当時の「むほんとやらんのさた(謀反の噂)」の(その「噂」が真実かは別として)の内容を知る上では貴重な史料といえます。
さて、その「大かうさまくんきのうち」では秀次の「謀反」はどのように描かれているのでしょうか?以下、引用します。
「又、関東より、粟野木工頭と申もの参り、御意に合ひ、(中略)すでに陰謀(おんぼう)をさしはさみ、御拾様へ御世へ渡され候事、全くもつて御分別参るところに候。さいわひ、若君様まし〱候間、これに御譲りなされ、日本国、唐、南蛮まで御心一つにまかせらるべきの旨、たくみをめぐらし申上ところに、げにもと御同心。こゝより、夜輿をひかせられ、又、しゝ狩と号して、山の谷、峰、茂りの中にて、より〱御謀反御談合とあひ聞こへ候。」(*2)(下線引用者)
つまり、粟野木工頭という人物が、秀次の御意を得て近侍することになり、その後秀次に「謀反」を持ち掛けます。その「謀反」の内容とは、「うまいぐあいに、秀次に息子があったので、それに名目上の関白職をゆずって、秀次自身は、実権として、日本国、唐、南蛮までわが心一つに治める」(*3)(下線部に対応)というものでした。
ここで、注意しなければいけないのは、この粟野木工頭と秀次が考えている「謀反」とは、「今・現在」のことではないのです。秀次が秀次の息子に関白の地位を譲ろうと思っても、長男仙千代丸は秀次切腹事件当時の文禄4(1595)年でも、かぞえで6歳、関白を譲れるような年齢ではありません。つまりは、この「謀反」とは秀吉死後の将来のことを考えています。
といっても、これは遠い将来の話ではありません。現実に秀吉が死去するのは慶長3(1598)年、3年後の話です。秀吉もこの時代では老齢であり、いつ亡くなるかもわかりません。
秀吉は、死後は御拾(秀頼)に後継させる意思を明確に示していますので、秀次が御拾ではなく、自分の息子を後継にすることを望むならば、秀吉が死去したらすぐに行動を起こさねばなりません。これはある種のクーデターですから、秀吉死後どのように行動すれば(御拾ではなく)自分の息子を後継に据えられるか、事前に同志と密談して準備しておく必要があります。(例えば秀吉死去時に自分の息子が成人しているか、していないかで、大きく計画は変わっていきますし、色々な展開に分けてシミュレーションする必要があります。)
この「秀吉死後に、秀頼ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」というのが、「謀反」の内容です。こうした「謀反」に「今・現在に、物理的な謀反を起こす準備の証拠」が出てくるわけがありません。
「(物理的な)謀反の具体的な証拠がない」から「謀反」はなかったとするのは誤りです。
3.秀吉の「処罰感情」への違和感
矢部健太郎氏は、その著作『関白秀次の切腹』で秀次の高野山行時点の秀吉の処罰感情に「さほど厳しい処罰感情があったとは考えにくい」(*4)としています。
確かに、文禄四年七月十日付島津義弘宛秀吉朱印状には「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。その他は別に記すこともないので、気遣いなきように」(*5)とあり、この書面だけ見れば厳しい処罰感情があったとは考えにくいですが(むしろ事態を拡大させないように収拾を図っているようにみえます)、一方で七月十三日には秀次重臣の熊谷大膳直之・粟野木工頭秀用・白井備後守成定が秀吉の命令で切腹を命じられ(*6)、七月十五日には、同じく秀次重臣の木村常陸介重慈も秀吉の命令で切腹させられます。(*7)
秀次の切腹が七月十五日ですから、これらの秀次重臣の切腹命令は、秀次切腹が原因ではなく、それ以前から決まっていたことといえます。
つまり、秀吉は彼ら秀次重臣に対しては、厳しい「処罰感情」があったといえます。
この秀吉の厳しい「処罰感情」は、たとえば「秀次に謀反の意思がなく、特に咎めるべき理由はないにも関わらず、秀吉が(秀頼のために)秀次を邪魔に思って適当な理由をつけて高野山に行かせた」とか、「秀吉の態度に過剰反応した秀次が発作的に、自発的な意思として高野山に出奔した」とかいう説では説明がつかない厳しい感情といえます。
これは、実際には秀次の「謀反」の意思があることが秀吉に確認され、切腹を命じられた秀次重臣達こそが、この「謀反の密謀」の主犯であると秀吉に判断されたからです。
本来であれば、秀次の謀略を諫めて止めなければならないはずの秀次の重臣たちが、秀次の謀反計画に乗り(あるいはけしかけ、)密謀を図っていたという事は、秀吉にとっては許しがたい事だったのでしょう。(もしくは、彼らは秀次の計画に賛成していなかったのかもしれませんが、こうした謀反計画を持ち掛けられながら、それを止めずに黙っていれば、それは謀反に加担したという事になります。)
では、なぜ秀次自身は高野住山のみの寛大な処置になったのでしょう。
これは、秀吉の秀次に対する「温情」でしょう。秀吉といえば、現代では血も涙もない冷徹で非道な人物の印象が強い人物ですが、決して単純に冷徹な人物ではなく、秀吉の手紙などを見れば親族に対して愛情深い人物であることが分かります。人に対する愛憎の振れ幅が極めて大きい人物なのですね。
秀次というのは、これまで一族の中では最も期待をかけてきた甥、御拾が生まれる前は後継者(養子)として関白の地位を譲った人物なのです。秀吉に甥(養子)に対する愛情が残っていないわけではなく、今回の事件もなるべく寛大な処置にしたかったというのが、秀吉の本音でしょう。
そう見ると、秀次の高野山行の理由が「むほん(謀反)とやらんのさた御入候て、大かうきけんわろくて(機嫌悪くて)」(『御湯殿上日記』)、「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。」(「七月十日付島津義弘宛秀吉朱印状」)という極めて曖昧な理由しか、対外的には秀吉政権からは説明されない理由が分かります。
仮に「秀次の謀反計画はあったことで確定」ということが秀吉政権の公式見解になってしまうと、秀吉としては秀次に本当に切腹命令を下さないといけません。当たり前ですが、謀反は重大犯罪です。また、現役の関白である秀次が秀吉(というより御拾に対してですが)に謀反を計画したというのが明らかになれば政権の動揺は計り知れません。
ドラマの『真田丸』でも違和感を抱いたのですが、「秀次には本当に何の罪もないが、秀次が高野山を出奔してしまったことを取り繕う」ために、後から理由をでっち上げる理由としては「謀反の噂」というのは極めてきな臭いもので、事態を収拾するためにつけた後付けの理由としては、ふさわしからぬものです。
こんな理由ではかえって事態が深刻化してしまいます。(もし理由をつけるのなら、ストレートに「気鬱にて」高野山に出奔とかでよいと思われます。実際、この時代にも気鬱で寺に駆け込んだ人間はいたでしょう。)
「むほん(謀反)とやらんのさた」というのは、後付けの理由ではなく、本当にあったことなのです。そして、その噂が真実であると確認されたため、秀次重臣が切腹を命じられました。
しかし、秀次本人に「謀反」の責任を取らせるというのはすなわち死しかないため、なるべく穏便な処置にしたい秀吉政権は、公式には「むほん(謀反)とやらんのさた」という噂の段階で留め(それが真実であるかは確定させず)、「このような噂を立てられること自体がけしからん」という理由で、「秀次はその秀吉の責めを受け、自ら高野山に籠ることで謝罪の意を示した」という結着が、秀吉の望む「穏便な処置」だったといえます。
しかし、その秀吉の「温情」は、秀次の切腹によって最悪の形で裏切られることになります。
4.終わりに
上記の解釈もまた、推測のひとつにすぎません。しかし、結局秀次事件の解釈は、一次史料だけでは情報が不足しており、二次史料は間違いだらけという状態ですので、確定した解釈が今後も難しいでしょう。今回のエントリーは、多数の人が当然視している「秀次は無実だった(「謀反」などたくらんでなかった)」という解釈に疑問を呈してみました。
現在の秀吉の特に晩年の行動・判断に対する解釈は「晩年の秀吉は耄碌(実際に認知症という意味ではなく、比喩的な意味で)していた」という見解に基づく「豊臣政権滅亡必然史観(晩年の秀吉が耄碌して愚行を繰り返したために、豊臣家は必然的に滅びた)」という先入観に縛られているような気がします。
実際には、この先入観は「おおむね」間違ってはいないのですが、この先入観が固まりすぎると、「晩年の秀吉が行った行動・判断は『すべて』耄碌した愚行であり、間違った所業である」という結論を先取りした解釈になってしまう危険性があります。
要は、晩年の秀吉の判断であれば、それがどんな判断であれ、それはすべて愚行であり、間違った判断なのであると、内容そのものを検討することなく決めつけられる傾向にあるように見受けられるのです。実際にはそんなことはなく、晩年の秀吉の判断でも、優れたとはいえないまでもそれなりに考えた合理的な判断をしている場合もあるのですが。(それなりに考えた合理的な判断が、最適解にたどり着くかは別問題です。)
こうした「豊臣政権滅亡必然史観」に基づいた先入観を秀次切腹事件に当てはめると、「秀次謀反の噂」を理由に「秀次を高野山に出奔させた」秀吉の判断に対する解釈は以下のようになるのはやむをえないでしょう。
「秀次が、秀吉政権の詰問により、高野山行を強いられたのは、秀次が秀頼を脅かすのではないかと疑心暗鬼にかられた秀吉の根拠なき暴走によるもの。秀次に「謀反」の意思はなかった。「謀反」の噂は根も葉もないものであり、存在しない。あるいは「噂」は秀吉政権側がでっち上げたもの。秀吉の暴走により秀次一族は粛清され、豊臣政権は弱体化した。豊臣政権が滅亡したのは必然だ。」
「晩年の秀吉の判断・行動はすべて間違い」なのですから、秀吉が「謀反の噂」を真実ではないかと疑っている場合、それは「すべてが間違っている秀吉」の判断な訳ですから「謀反の噂」は虚偽に決まっており、そんなものは存在しない、秀次は無実だ、という結論に自動的になってしまうわけですね。結論から解釈を定めてしまっているのです。
また「謀反の証拠史料がない」という意見も聞きますが、そもそも秀吉政権は後世に審判をゆだねるために、謀反の証拠となるような書状等を保存するとかいう事務処理をしている訳ではありません。関係者に聞き取りは当然行われたでしょうが、そもそも書類として書きとられたものが存在するのか、書きとられたとしても、それが史料として現代まで保存されている可能性はどの程度なのか考える必要があるでしょう。
秀吉が謀反と判定した時点でそれは「謀反」な訳で、現代の裁判記録とかと一緒にされて、「証拠がない」だから「秀次は無罪」だという現代的感覚で解釈するのもいかがなものかと思われます。こうした先入観に縛られることなく、個別に検討していく必要があると考えます。
(付論)
秀次「謀反」説が正しかったとして、なぜ、秀次は「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」という考えにいたったのでしょうか。
ここからは、完全に個人的な推測ですが、秀次は「御拾(秀頼)は秀吉の実子でない」と信じていたのではないでしょうか。
ルイス・フロイスの『日本史』の記載によると、秀吉には子どもを作る体質を欠いているから、息子は彼の実の子どもではないと、既に同時代に多くの人から信じられていたということです。(*8)
秀次もこの噂を信じていた可能性があります。服部英雄氏の『河原ノ者・非人・秀吉』によりますと、(この書籍の該当の章の記載は、主に「秀頼は秀吉の実子か否か」を検証したものなのですが、ここではその内容に立ち入らないことにします。)文禄二(1593)年八月三日に御拾が生まれた後、秀吉は十月二十日に淀殿付女房衆を大量に処刑します。(これを服部氏は「淀殿懐妊の不始末の責任を取らせたことによる」と解釈しています。)そして、十月二十七日に公卿との能の予定を延期して、秀次は急に伏見の秀吉に会いに行きます。
服部英雄氏は「秀次が緊急に秀吉に会った理由は何か。秀次の強い主張があったと想定する。」(*9)とします。その主張とは「明らかに実子ではなく、本来なら犯罪行為の結果の子として葬るべき子どもを後継者にした。そのことに、強く反発したのではないだろうか。」(*10)としています。
服部英雄氏の見解が絶対的に正しいともいえないのですが、「秀次が、『御拾が秀吉の実子ではない』と信じていた」というのは可能性のひとつとしてありうるかと思います。その場合は、「秀吉の実子ではない(と思っている)御拾に後を継がせるくらいなら、秀吉の血縁でもある自分の子に後を継がせたい」と秀次が考えるのも、ある意味自然な発想かもしれません。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)矢部健太郎 2016年、p72
(*2)小林千草 1996年、p139
(*3)小林千草 1996年、p144
(*4)矢部健太郎 2016年、p70
(*5)矢部健太郎 2016年、p70
(*6)矢部健太郎 2016年、p147、248
(*7)矢部健太郎 2016年、p62
(*8)服部英雄 2012年、p610~612
(*9)服部英雄 2012年、p649
(*10)服部英雄 2012年、p656
参考文献
小林千草『太閤秀吉と秀次謀反 『大かうさまぐんき』私注』ちくま学芸文庫、1996年
服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社、2012年