古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

秀吉の朝鮮渡海を主張する石田三成

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(令和5年10月22日 文末に追記しました。(当初書いた見解とは異なる見解になります。))

 

 天正二十(1592)年、豊臣秀吉の軍勢は朝鮮半島への侵攻を開始し、文禄の役が始まります。五月三日に漢城を陥落させた知らせを五月十六日に聞いた秀吉は、自身の渡海の準備を加速させ、六月の決行が予定されます。

 しかし、六月二日になって、徳川家康前田利家らが秀吉の渡海再考を促します。これを受けた談合の場で石田三成はこの六月中の秀吉渡海を主張しますが、結果的に徳川家康前田利家等の意見が通り、この渡海計画は延期されることになります。この時の延期の理由の第一は、「不時の早風」という天候上の問題でした。(*1)

 

 秀吉の渡海に代わって、石田三成大谷吉継増田長盛ら奉行衆が軍目付として、六月に朝鮮に渡ることになります。

 

 元々三成は、朝鮮出兵反対派です。下記のエントリーでも書きましたが、↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 たとえば「戦いの始まる前に、博多の嶋井宗室と図って戦いをやめることを秀吉に進言した記録が享保年間(一七一六~一七三五)の著述集『博多記』に残って」(*2)います。また、『看羊録』には「石田治部は、つねづね、「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた。」(*3)とあります。

 

 朝鮮出兵反対派であった三成が、なぜこの時は秀吉の渡海を主張したのでしょうか。

 それは、以下の理由が考えられます。

 

 少し時代を下りますが、「戦争を終結させるためには、秀吉自身の渡海が望ましいとの期待感」(*4)から秀吉の渡海を望む以下の聖護院道澄の手紙があります。(聖護院道澄は、京都聖護院門跡で、関白太政大臣近衛稙家の子、近衛前久の弟です。)

 

「  当春者太閤可為渡海由候間、定一行被仰付静謐候歟、不然者、被引取候歟、何辺一途之儀可有之候間、珍重候。

 朝鮮在陣中の島津義弘にあてた文禄二年の正月七日付書状のなかで、道澄はまぢかにせまった秀吉渡海を望ましいものだと述べている。(筆者注:この秀吉渡海も実現には至りませんでした。)その理由は、彼が対外戦争に積極的なためでではない。秀吉の渡海によって朝鮮国内を静謐に制圧できるか、あるいはそうならなければ朝鮮から撤兵することになるか、いずれにせよ戦争に一つの決着がつき、終戦への見とおしが得られるから「珍重」だと書き送っているのだ。」(*5)

 

 天下人・太閤秀吉の意思によって「唐入り」は決行された以上、それを終結できるのは、秀吉自身以外ありません。秀吉自身が渡海せず、全軍の指揮を直接にしなければ、朝鮮に在陣する諸将はばらばらに行動し、秀吉の意思・命令の統制はとれず、戦争は収拾がつかない泥沼の状態になるおそれが高くなります。

 

 出兵には反対の立場であった三成ですが、主君秀吉が出兵と決めて号令をかけた以上、家臣としては従うほかはなく、すみやかな戦争の決着をつけるためには秀吉自身の渡海、秀吉による全軍の指揮が必要と考えたのだと思われます。

 

 この後も秀吉の朝鮮渡海は何度か計画されますが、結局秀吉は朝鮮に渡海することなく、慶長三(1598)年8月18日死去します。

 

(令和5年10月22日 追記)

 従来、この秀吉の朝鮮渡海を巡る石田三成徳川家康の「論争」は、石田三成が即時の豊臣秀吉の渡海を主張し、徳川家康前田利家が秀吉の渡海の中止を主張し、「不時の早風」という天候上の問題を理由に渡海を延期することに決したという事だとされてきました。これに対し、谷徹也氏は、「朝鮮三奉行の渡海をめぐって」(立命館文學 677号)で、以下のように述べています。(下線筆者)

「(前略)ここからは、三成が先に渡海の機会を六月に限定することで、家康の天候を理由とした渡海の困難さの主張が有効性を持ち、ついに秀吉も即時渡海を断念するに至ったという論理展開が読み取れる。つまり、三成と家康はともに秀吉の渡海を制止する方向性は一致しており、あたかも事前に調整したかのように両者の主張が会議の場で機能したと考えられよう。
会議後、秀吉自身も漢城在陣中の宇喜多秀家らに対して、家康・利家とともに「只今罷越候者とも」(三成ら)も即時渡海を強く制止したために、来年三月まで渡海を延期した旨を伝えている。こうした三成の志向性は、姜沆『看羊録』において、家康が朝鮮再侵(丁酉再戦、慶長の役)を失策と非難し、三成も日頃から対外侵略に批判的であったとする見立てとも合致する。」

 つまり、秀吉の朝鮮渡海を巡る徳川家康石田三成の「論争」は、あたかも(家康と三成が)事前に調整したかのように、秀吉の渡海を制止する方向へ誘導されたものだったという事となります。谷氏の見解に賛同いたします。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p163~165、跡部信 2016年、p125

(*2)中井俊一郎 2016年、p45 

(*3)姜沆 2008年、p160~161

(*4)跡部信 2016年、p132

(*5)跡部信 2016年、p131~132

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

姜沆(訳注 朴鐘鳴)『ワイド版東洋文庫 440 看羊録』平凡社、2008年

中井俊一郎「第六章 朝鮮・文禄の役 日本は無人に罷りなり候」(オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』所収)サンライズ出版、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年