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☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る
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1.小早川秀秋の越前転封の謎
慶長二(1597)年六月二十九日、小早川秀秋は、朝鮮出兵(慶長の役)の総大将として、名護屋を出陣します。この時、秀秋わずか十六歳。
しかし、その数か月後の慶長二年(1597)年十二月、更には慶長三(1598)年正月に秀吉の帰国命令を受けて、秀秋は日本に帰国することになります。(実際の帰国時期は不明ですが、四月一日以前とされます。)そして、四月二日には越前国に減知転封されることになります。(元の領国筑前・筑後33万石→越前北ノ庄 16万石)
なぜ、このような措置を秀秋が受けることになったのか?私にとって長らく謎でしたが、黒田基樹氏の『小早川秀秋』を読むと、だいたいのその背景が分かります。
話は、秀秋の出陣より前の慶長二(1595)年二月二十一日に、朝鮮出兵渡海軍の陣容が決定され、秀秋が全軍の総大将とされた直後にさかのぼります。秀秋とその宿老である山口宗永とに不和が生じたため、共に伏見の秀吉の召還を受け、不和の弁明をすることを求められます。(*1)
不和の内容は不明ですが、宗永は宿老役を解任されることもなく、秀秋と共に六月に渡海します。
名護屋を出陣した翌日の七月一日付書状で、秀秋は秀吉から軍陣における注意を受けます。
「何事についても山口玄蕃頭(宗永)・福原右馬亮(直高)らの意見をうけて、心を改めて、落ち着いた心を持って、よく考えなさい。以前から言っているように、決して憎んでいるわけではなく、今後の(秀秋の)ためを思って、親切心で言っているので、今後は心の底から心懸けるのが大事だ。(後略)」(*2)
上記の書状を見ると秀秋と宗永の不和の原因は、秀秋のためを思って口うるさく十六歳の秀秋を指導している宿老宗永と、それについて反発する秀秋ということが原因だと分かります。それを秀吉は「決して憎んでいるわけではなく、今後の(秀秋の)ためを思って、親切心で言っているので、今後は心の底から心懸けるのが大事だ。」と教えさとしますが、この秀吉の書状は秀秋の心には届かなかったようです。
その後、「八月十六日に山口宗永は、秀吉とその奉行衆増田長盛・長束正家から、不慮の事態になった場合には秀秋の軍は役に立たないので、その心づもりが大事だ、と述べられている(「菅文書」「筑紫文書」『新修福岡市史資料編近世1』二〇四~五号)(*3)
つまり1万人の大軍を率いる総大将軍にも関わらず、秀秋軍は不慮の事態に対処できない、役立たずの軍だったというのが実態な訳です。秀吉としては、十六歳で初陣の秀秋が軍勢の指揮を執ることなど、もとより期待しておらず、実質的な指揮は宿老の山口宗永に任せることを期待したのでしょう。秀吉にとって、秀秋は今や数少ない豊臣一族武将であり、お飾りとしてでも、総大将として形式的にでも実績を上げさせ箔をつけさせたいというのが、秀吉の本音でしょう。
しかし、出陣前から実質的に陣頭指揮すべき宿老宗永に反発し、朝鮮渡海後もことあるごとに反発し、軍の指揮が取れない状態になったのでしょう。これでは「お飾り」としての総大将の役割も果たせず、一万という大軍を抱える総大将軍が戦力として頭数に入らないという異常事態に慶長の役は突入したのでした。しかも、総大将軍の指揮が機能していないわけですから、朝鮮在陣武将全軍の指揮すらままなりません。(ただし、秀秋軍は梁山城の普請を行い、山口宗永に蔚山城の救援の後詰を命じる等、まったく何もしていなかった訳ではありません。(*4)総司令部として機能しなかったということでしょう。)
すべては、十六歳で戦争指揮経験もない未熟な秀秋に総大将という重圧を課した秀吉の判断ミスです。この判断の誤りを遅まきながら悟った秀吉は、慶長二年(1597)年十二月、更には慶長三(1598)年正月に秀秋の帰国命令を出します。
さて、秀吉の帰国命令はある意味当然として、なぜ秀吉は秀秋を越前減知転封にしたのでしょう。減封ですので、そこに懲罰的な意味合いはないとは言えません。お飾りの大将としてすら機能しない秀秋に対して、秀吉が失望したというのもあるでしょうし、身内にも厳しいという事で、綱紀粛正をはかる意味もあったのでしょう。しかし、そうした理由より、朝鮮出兵は現在進行形の戦役であり、筑前・筑後両国は、後方支援のための重要な兵屯基地でした。慶長の役の日本軍が苦境に立つ中、この地域の軍勢・兵糧を「空地」にする訳にはいきません。
秀秋主従に軍を指揮する力がないことが判明した以上、朝鮮攻略の基地として枢要なこの地を、軍も率いることができぬ役に立たない大名に預けておくことはできません。このため、秀秋の転封が決まったのだと思われます。
この越前転封は、秀吉死後、その遺命により解除され、秀秋は筑前・筑後に再封されます。このことから、黒田基樹氏は「この北庄領への転封は、やはり朝鮮での戦況にともなう緊急措置であったといえるのではないだろうか。」(*5)としています。
上記でみたように、秀秋の帰国及び越前国北庄領への転封は、朝鮮出兵での戦況悪化にともなう秀吉による緊急措置でした。このため、そもそもこの秀吉の決定に、石田三成はまったく無関係なのですが、「『藩翰譜』等々には、三成が秀秋をざん言して転封させた」(*6)と江戸時代の書物にはあるようです。
これは、江戸時代の書物においては、三成は神君家康公に刃向かった大悪人として扱われており、しかも関ヶ原の戦いで小早川秀秋が西軍を裏切った史実もありますので、この両者を結び付けて、根拠なくこのような誤った説が創作されたのでしょう。
さて、秀吉は一時秀秋の旧領筑前・筑後33万石を三成に封じようとしますが、三成は断ります。近江佐和山19万4千石から筑前・筑後33万石に加増転封ですから、一見大抜擢に見えますが、なぜ三成は断ったのでしょうか。
ここに、三成の重臣である大音新介に宛てた三成の書状があります。以下(現代語訳のみ)中井俊一郎氏の『石田三成からの手紙』から引用します。
「(秀吉殿は)我等には筑前筑後(福岡県南西部)をくだされ、九州の物主にしてくださるとの内意でした。しかしそのようなことをしては、(京近くの要衝である)佐和山に置ける人もなく、身近にて用事を申し付けられる人も少なくなるので、我らはこのまま(佐和山にとどまること)になります。近江のその方の知行や蔵入(代官領)などが増えないことになれば、後悔もありますが、よくよく申し付けます。筑前筑後は蔵入になります。また、金吾殿(小早川秀秋)は越前へ替わり、我らにその地の代官を命じられました。近々筑前へ行きますので、その心得でいてください。このことを父や妻にも伝えてください。」(*7)
上記の書状を見ると、三成が筑前筑後への転封を断った理由は、他に京近くの要衝である佐和山に置ける人もなく、秀吉の側近くで御用をこなす人間も少なくなってしまうので断ったということですね。
しかし、これって額面通り受け取っていいのでしょうか。上記の理由も、もちろんあるでしょう。しかし、一番の問題は、この後筑前・筑後両国は、後方支援のための重要な兵屯基地であったということです。この転封は、ただの加増転封はなく、ただちに朝鮮へ出兵し、(かつて小早川秀秋が担った)総大将格の働きを示せ、という条件と引き換えということではないかと思われます。
筑前・筑後33万石への大抜擢と引き換えに、現在苦境にある朝鮮の戦いに軍を率いて総大将格として乗り込み、この苦境を打破せよ、というのがこの加増の裏の意味なのです。
元々三成は、朝鮮出兵反対派です。たとえば「戦いの始まる前に、博多の嶋井宗室と図って戦いをやめることを秀吉に進言した記録が享保年間(一七一六~一七三五)の著述集『博多記』に残って」(*8)います。また、『看羊録』には「石田治部は、つねづね、「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた。」(*9)とあります。こうした三成の言動を秀吉は苦々しく思っていたでしょう。
しかし、こうした直言を吐く三成は粛清には至りませんでした。まあ、それほど三成の存在が秀吉政権にとって必要不可欠になっていたということでしょうか。
今回の秀吉の三成に対する転封の意味は、朝鮮出兵に反対していた三成に対して加増転封という飴を与える代わりに、火中の栗を拾って総大将格として軍を率いて、事態を収拾せよという意味です。つまり出兵反対派である三成を、責任ある朝鮮出兵の総大将格に祭り上げて、三成の異論を封じ込めようというのが秀吉の狙いです。こうした毒まんじゅうを三成が受けたい訳もありません。
しかし、秀吉の時代には加増転封も拒否すれば改易されるおそれがあります。織田信雄も加増転封を拒否して、改易されました。結果として、三成が加増転封を断ったにも関わらず、秀吉が改易できなかったのは、最早秀吉政権が切羽詰まっていて、今や秀吉政権の重要人物である三成を粛清あるいは改易して、これ以上の政権の大混乱を起こす余裕がなかったからともいえます。
結局、秀秋の旧領は、蔵入地となり三成と浅野長吉が代官として管理することになりました。また、「慶長四年(一五九九)にもさらなる朝鮮派兵が計画されていたことがわかる。これは軍勢を蔚山に上陸させ、全羅道(赤国)を攻略したのち、漢江(都河)にまで迫ろうとするものであった。この派兵計画では、福島正則(羽柴左衛門大夫)、石田三成(石田治部少輔)、増田長盛(右衛門尉)の三名が大将に擬せられている。三成に筑前・筑後を与えようとする思料は、こうした派遣計画とも関係するのかもしれない。」(*10)とあります。
三成は、加増転封を断りましたが、三成らの出兵は既定事項だったようです。この出兵は慶長三年(1598)年八月十八日に秀吉が亡くなることで沙汰やみとなります。
注
(*1)黒田基樹 2017年、p44~45
(*2)黒田基樹 2017年、p46
(*3)黒田基樹 2017年、p47
(*4)黒田基樹 2017年、p48
(*5)黒田基樹 2017年、p51
(*6)白川亨 2009年、p237
(*7)中井俊一郎 2012年、p52
(*8)中井俊一郎 2016年、p45
(*9)姜沆 2008年、p160~161
(*10)中野等 2017年、P359
参考文献
姜沆(訳注 朴鐘鳴)『ワイド版東洋文庫 440 看羊録』平凡社、2008年
黒田基樹『シリーズ・実像に迫る 005 小早川秀秋』戎光祥出版、2017年
中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版、20
12年
中井俊一郎「第六章 朝鮮・文禄の役 日本は無人に罷りなり候」(オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』所収)サンライズ出版、2016年
中野等『石田三成伝』吉川弘文社、2017年