古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

文禄の役時の石田三成の動向について①

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(以下の記述については、主に中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年を参照しました。)

 

 これより、文禄役時の石田三成の動向について記します。

 

  天正二十(1592)年四月二十二日、日本の軍勢が朝鮮半島への上陸を開始し、いわゆる「文禄の役」がはじまります。破竹の勢いで進軍する日本軍は、五月三日には朝鮮の首都である漢城を陥落させ、入城します。

 

 この間の朝鮮侵攻諸将たちの兵粮事情ですが、「上陸間もない段階で日本の諸将は、朝鮮半島の豊かな兵粮事情を報じていた。たとえば、加藤清正鍋島直茂連署状には「諸勢兵粮の儀、国本にても加様の繁多の事、これ有るまじくと、下々満足仕ることに候」「口々城々も兵粮多く御座候間、人を残し置き、御動座の御用に立て候ようにと存じ候間」などとある。漢城到達以前の小西行長も、秀吉に対し「高麗の城々十ヶ所退散、(中略)国の図を進上、城々に兵粮二三千石づつ□□、摂津守封を付け、奉行を置く」という内容の注進を行っている。このように朝鮮半島上陸、日本の軍勢は各地に残された兵粮を確保し、それらを厳重な管理に委ねつつ、北進していったのである。

 侵攻基地である名護屋には一定規模の兵粮が集積されていたが、如上のような朝鮮事情が伝えられるなか、兵粮の現地調達も可能であるとの判断が下され、当面は兵員や武器・弾薬などを優先的に日本から輸送することになった。」(中野等②、p50)

 

とあり、朝鮮軍が城や倉庫に残した兵粮が豊富に残されており、これを日本軍が奪取することによって、充分な兵粮が確保できたことが分かります。

 

この勝利を受け、豊臣秀吉は自らの渡海を計画しますが、六月二日に至って徳川家康前田利家らが秀吉渡海の再考を促し、秀吉は渡海の延期を決定します。この時、石田三成は秀吉の渡海を主張したといいます。左記の詳細については、以前以下のエントリーで記述しました。↓

秀吉の朝鮮渡海を主張する石田三成 

 

 秀吉の渡海が延期されたことに伴い、秀吉は自らに代わり長谷川秀一、前野長泰、木村重玆、加藤光泰、石田三成大谷吉継の七名の奉行衆を朝鮮に派遣することを決定します。

 奉行衆は六月六日の朝に名護屋から出船し、その日のうちに壱岐に着陣しました。そして、七月十六日には漢城に到着しました。

 彼ら奉行衆の役割については、「長谷川秀一以下の四名は秀吉古参の家人衆であり、軍事的な監察の役目を帯びていたように推察される。秀吉の指揮権を代行するという意味では、むしろ三成と大谷吉継増田長盛がとりわけ重要な立ち位置を占める。」(中野等①、p165)とされます。

「まもなく長谷川秀一や木村重玆は慶尚道内の経路確保を目論んで漢城から南下し、細川忠興らとともに晋州城攻略に従う。漢城には、前野長泰(但馬守)・加藤光泰(遠江守)と、三成ら三奉行とが残留」(中野等①、p166~167)します。漢城には他に主将である宇喜多秀家が在陣します。

「以後、三成(治部少輔)は、大谷吉継(刑部少輔)・増田長盛(右衛門尉)とともに「都三奉行」あるいは単に「三奉行」などと称され、基本的に漢城にあって在朝鮮の諸将に秀吉の軍令を伝え、指示を発していく。」(中野等①、p167)

 三奉行が秀吉の指示により渡海した目的は、秀吉が六月三日に発した軍令(「六月三日令」)を朝鮮在陣諸将に伝達・指令することでした。その内容については、「朝鮮各地に転戦する九州・四国・中国の諸将に充てられた「六月三日令」の主眼は、朝鮮半島の奥地、さらに明国へ侵攻することを要求するものであった。」(中野等①、p167)

しかし、一方で「朝鮮にいる武将たちのあいだでは、明国との国境を目指すより朝鮮半島の制圧を優先すべし、との議論が支配的となり、現地諸将の決定によって、軍団を朝鮮八道に分遣し、それぞれの担当地域を経略するという作戦が実施されていた。」(中野等①、p167)とあり、秀吉の軍令が到達する前に現地においては、現地諸将の独自の判断による作戦が既に実施されていました。

このように、初期の朝鮮在進快進撃の報(漢城陥落は五月三日)を受けた、秀吉の六月三日の軍令は、七月十六日頃に諸将へ伝達されたわけで、戦勝の報告→報告を受けての秀吉の判断・命令→命令の諸将への伝達まで約二月余りのタイムラグが発生しています。その間に刻々と戦況は変わっている訳で、秀吉の代行として派遣された奉行衆は、このタイムラグに終始悩まされることになります。

 

「三成らの伝達した「六月三日令」によって策定された八道分割支配に関する現地決定はくつがえされ、変更を余儀なくされたのである。三成らの渡海目的が「六月三日令」の徹底を第一義としていたことがわかる。

 しかしながら、三成が実見する朝鮮の状況は、名護屋で想定していたものと大きく異なるものであった。平壌を押さえていた小西行長は、状況説明のために漢城へ戻り、兵粮事情に深刻な不安があることや、奥地への侵攻を強行すると、絶対的な兵粮不足によって退路を断たれるおそれがあることなどを、三成らに細かに告げたようである。最前線に展開する小西行長の意見は充分傾聴に値するものであった。三成ら奉行衆はすみやかに明国境を侵せと命じる秀吉の軍令と、実際に見聞する朝鮮半島の現状のあいだで、深刻な板挟みの事態に陥ってしまう。」(中野等①、p168)

 三成ら奉行衆が漢城に着いた頃には、当初の現地の状況に対して、情勢は既に変化しており、当初の現地からの報告を基にした秀吉の軍令は実行するのは現実的なものではなくなっていました。

 次回のエントリーでは、この現地の状況を受けて、名護屋へ向けて三成ら奉行衆が発した書状について検討します。

※ 次回のエントリーは以下参照↓

文禄の役時の石田三成の動向について②~勝申候内二日本人ハ無人ニ罷成候 

 

参考文献

中野等①『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2017年