古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者 石田三成の虚像と実像~第14章 石田三成は加藤光泰を毒殺していません

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 文禄の役時に、軍目付として石田三成らは、朝鮮に渡海しますが、この時、軍監として加藤光泰らも朝鮮に渡海します。

 

 諸書によると当時、秀吉軍は朝鮮奥地まで攻め入ったために、補給線が伸び切ってしまい、その上、義兵の決起や明の応援軍の出現によって、補給線もズタズタに寸断されてしまっている状態となっていました。

 補給もままならない状態の秀吉軍を立て直すため、三成ら軍目付は、全軍一時漢城に撤退して守りを固め、和議の交渉を図るべきだとします。

 この時に、最もこの方針に反対し、強硬に主戦論を主張したのが、加藤光泰だったとされます。

 ところが、文禄二(1593)年八月二十九日、戦をさかんに主張していたはずの光泰が、西生浦城で病死します。享年五十七歳。

 いつも三成の作戦に光泰が反対していたことから、邪魔に思った三成が光泰を毒殺したのだという説が、江戸時代中期の大名加藤泰衑(1728-1784)編による加藤家の家史である『北藤録』に載っていますが、結局これも江戸時代に作られた根拠のない話であり、史実とすることはできません。

 実際には、光泰は死去する前日の二十八日に、浅野長政に、遺言ともいえる次のような書状を送っているとのことです。

「「我らこと、ご存知のごとく、この中、相煩(わずら)ふにつき、種々養生つかまつり候へども、ついに験を得ず、相果て申し候」

 この冒頭の文面を読めば、光泰がだいぶ前から病んでいろいろ養生していたことがわかる。」(*1)とあります。

 この書状から分かるように、光泰は以前から病気であり、その死は毒殺によるものではないことが明らかです。

 このように、江戸時代の書物は何かがあれば、悪いのは三成だと根拠なく決めつける傾向にあり、三成関係の記述は特に眉に唾をつけて読む必要があります。

 

 注

(*1)左方郁子 1998年、p79

 

 参考文献

左方郁子「【太閤事件簿】“三成疑惑”再審法廷」(『歴史群像シリーズ特別編集 石田三成 復刻版』学研、2010年(初出1998年)

(上記論文全体については、筆者の意見と違う点が多々ありますので、必ずしも上記論文のすべてに賛同するものではありません。今回については、加藤光泰の怪死(?)の概要の参照及び、光泰の浅野長政宛書状の紹介のため、参考文献として参照いたしました。よろしくお願いします。)