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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像  第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

 石田三成ほど、江戸時代から現代に至るまで、讒言により他の武将を陥れる「奸臣」「佞臣」と貶められ続けた武将もいないでしょう。それらの「奸臣・石田三成」のほとんどは、江戸時代に作られた軍記物や各大名家の家譜で悪意的に創作された「虚像」といってよいもので、実際の「実像」としての石田三成とは違います。

 

 近年、歴史学者や研究者により従来の「虚像」としての三成の見直しは進んでいますが、昨年の大河ドラマ軍師官兵衛」のように、いまだに従来通りの「虚像」としての石田三成像が描かれることも多く、誤ったものでも一度見方が固定するとそのイメージを払拭するのは難しいものであることが分かります。

 

 以下のエントリーでは、まず第2章から第18章では軍記物語や大名家の家譜で語られた「虚像」としての石田三成が史実に反しているものであり、実際の史実の石田三成の「実像」がいかなるものであったかを個別に検討したいと思います。

 

 しかし、「実像」の石田三成が「虚像」とかけ離れたものであったとしても、それで彼が同時代の一部の武将達に嫌われていなかったとはいえません。全ての人に好かれるような人気者ではなく、実際に嫌った武将達もいたからこそ関ヶ原の戦いで敵対する武将も出てくるわけですし(※)、その後の家譜等でも悪口(その悪口が創作な訳ですが)が多く書かれるわけです。少なくとも東軍の大部分の諸将から好かれていたとはいえないでしょう。

 第19章では、いかに「嫌われ者」三成が形成されたのかを検討します。

 

(※)ただし、例えば関ヶ原の戦いを豊臣家臣団内部の親三成派と反三成派の内輪もめなどと考えてしまうと、日本全国の大名を巻き込んだ関ヶ原の戦いの意義を矮小化してしまうことになりますし、天下分け目の戦いが三成に対する好悪で東西陣営が旗分けされたと考えるのは、あまりも三成を過大評価しすぎでしょう。各大名家はどちらの陣営が勝ち、自らの家が存続するかを必死に考えて、どちらの陣営に入るかを決めたと思われます。個人に対する感情の好悪で家の存亡を判断するほど、当時の大名達は単純ではありません。)

 

☆目次☆

第2章~古渓宗陳を讒言により配流させた?