古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

安東(秋田)実季と石田三成について

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 藤木久志氏の『戦う村の民俗を行く』(朝日選書843)で、石田三成関連の記述がありましたので、以下引用します。(ページ数は該当書のページ)

 

「その春(筆者注:天正十七(1589)年)、北羽の安東家に起こった、檜山(能代)城の実季(さねすえ)と、湊(秋田)城の湊通季(みちすえ)との抗争が、北奥で津軽の独立をはかる大浦(津軽)為信と、北羽平鹿(秋田県横手市)・比内(大館市)への進出をねらう南部信直との抗争を巻きこんで、北の激動の焦点となった。実季は由利の赤尾津氏や津軽の大浦氏と結び、仙北の戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破って秋田(下三郡、秋田・檜山・比内)の大名としての地歩を固める。

 だが、この戦闘行為が豊臣政権の惣無事令に触れた。前田利家から南部信直への情報によれば(「盛岡南部文書」)、秀吉は自ら出馬して、この秋か来春には「出羽・奥州両国の御仕置」にあたろうとし、前田氏に北国の軍勢を率いて秋田に侵攻することを指令したが、とりあえずは秋田を「御蔵納(おくらおさめ)」つまり豊臣直轄領として接収し、南部・上杉両氏にその管理を委ねる方針を決めた、という。豊臣政権がはじめて奥羽に示した、もっとも強硬な力の政策であった。

 この方針はすぐには強行されなかったが、それは石田三成を頼った、実季の必死の中央工作によるものであったらしく、最上義光は実季に「そこもと進退の儀について、様々ご苦労候つる由」といい、「石田治部少輔ご内通について、そこもと安堵」といって、その労の報いられたことを喜んでいた(「松沢亮治郎氏所蔵文書」)」(p96)

 

 

 その後、三成の尽力もあり、奥州仕置において安東(秋田)実季は本領を安堵されますが、その七万八千六百余石の三分の一にあたる土地が豊臣家の蔵入地(直轄領)として割かれ、管理だけ安東(秋田)氏に委ねられることになります。この豊臣家の蔵入地の設定のねらいは北羽の木材と金であったとされます。

 

 慶長五(1600)年の北の関ヶ原の戦いでは、実季は東軍につき、西軍方の小野寺義道と戦います。慶長七(1602)年には、常陸国宍戸へ転封。実質的な減封でした。

 

 寛永七(1630)年には幕府によって実季は、突然蟄居が命じられます。嫡男俊季との争いが原因とされます。秋田家は嫡男俊季の家督相続が認められ、存続します。

 万治2(1660)年、実季は蟄居先の伊勢朝熊にて死去。享年85歳でした。