古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

北信濃で石田三成・直江兼続が進めた「兵農分離」

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(以下の記述は、高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年のp31~36を引用・参照しました。)

 

 近年は、「兵農分離はあったのか?」という疑問が出されるようになりました。

兵農分離」の定義は何か?というところから始まりそうな話ですが、近年の研究を見ると、同時期に全国的に均一な「兵農分離」が行われた訳ではない、という見解が多いように見受けます。

 

 さて、高橋敏氏の『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』の記述によりますと、慶長三(1598)年に行われた上杉景勝の越後・北信濃四郡→陸奥・出羽120万石陸奥・出羽への国替に伴う、北信濃の「兵農分離」は徹底して行われたようです。

 この国替作業を石田三成は、上杉景勝家老直江兼続と共に取り仕切ります。

 

 以下、高橋敏氏の著作より引用します。

 

「ちょうど(筆者注:秀吉の景勝に対する国替命令から)一ヵ月後の二月一〇日、直江兼続信濃埴科郡海津・水内郡長沼両城の石田三成の奉行衆への引き渡しを命じ、領内から会津へ移動に際して一二ヶ条からなる掟書を発令している。注目すべきは、三成の意を受けた家臣に仕える奉公人の移住に関する厳格な措置である。上位の倅者(かせもの)から百姓身分と分かちがたい小者・中間に至るまで家中の武士身分に包括された者は、すべて一人残らず会津に同伴しなければならない。これに従わない者は成敗せよと厳命している(「信州河中嶋海津・長沼両城治部少輔殿奉行衆へ可相渡覚」『信濃史料第一八巻』)

 

 一此中めしつかい候かせもの(倅者)ゝ義ハ申にをよはす、こもの(小者)・ちうけん(中間)成とも、今度罷下らす候ハヽ、すなハちせいはい(成敗)いたすへき事

 

 一方で残留する百姓には手厚い保護の手を差し延べている。家中の地頭・代官に不法な搾取があったときは文書を持って訴えることを許している。さらに横合いから不当な所業をする奉公人は即刻成敗し、見逃した者も同罪であると旧領内在地に残留する百姓・町人を保護している。百姓に甘く、奉公人には厳しい処置である(掟書「条々」)。

 

 一当地頭・代官、前々法度を背き、一銭成共非分之儀を申懸は、以目安(めやすをもって)可申上事

 一為奉公人者、不寄上下、町人・地下人に対し横合非分之儀、乗合、笠咎(かさとが)め・押売・押買、惣而我儘之者於有之者(これあるにおいては)、立所可加成敗(せいばいをくわうべし)、自然見合候者ハヽ致見除、取逃に於(おい)てハ同罪可為(たるべき)事

 

 当然、兵農分離によって豊臣氏の蔵入地の村々に残って年貢負担者となる百姓を保護し、新しい村つくりが着手される。

 

 一百姓以下、唯今迄有来可為如(ごとくたるべく)候、縦(たとえ)如何様儀於有之者、可為用捨(ようしゃたるべき)事

 一百姓たとへ私曲ありと云共、速に不遂披露(ひろうをとげず)、私に成敗不可有之(これあるべからざる)事

 一困窮出百姓等者無利分之米、分際用所次第可借(かすべき)事

 

 百姓は従来通りの生業がゆるされ、たとえ私曲不正が見つかっても私の成敗から逃れ、切り捨て御免はなくなった。また貧窮のため逐電等離村した百姓には無利子の米を貸して帰村を図っている。百姓にまとわりついていた倅者等の種々の中間搾取者を会津に追放して領主と百姓という単一の支配を構築して一地一作人制の新しい村を創出しようとしたのである。

 侍・中間・小者のいなくなった村はどうなるのか。「おとな百姓」なる百姓のリーダーが現れている。新しい領主の支配の下百姓をまとめ年貢諸役を請け負う村役人、名主に先行した存在であった。

 

 一自然之儀ハ、其品之儀札に書付、印判を定、おとな百姓に可申付候、左様慥(たしか)成儀無之而、一切不可致許容(きょよういたすべからず)候、強而申付族於有之者(しいてもうしつけるやからこれあるにおいては)、召搦(めしからめ)、地頭・代官に可引渡事」

 

 以上を見ますと、ここまで徹底した「兵農分離」というのは、現実には「国替」を伴わないと困難だったのではないかと思われます。

 また、当然豊臣家の蔵入地(直轄地)に、豊臣公議の目指す政策が直接反映されたことになります。(他の大名の土地政策に、直接一から十まで介入できる程、豊臣公議は中央集権的な政権ではありません。そこは、各大名の実情に合わせ、現実的な政策の「指南」が行われていたといえます。)

 

 この、北信濃で新しく作られた豊臣家蔵入地の「兵農分離」に、豊臣公議奉行衆石田三成らが目指した「村づくり・国づくり」が見えてくるのではないでしょうか。

 

 参考文献

高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年