古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

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☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ ①【慶長三(1598)年8月】

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☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

関ヶ原への百日

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

↓以下、本文

 

☆慶長三(1598)年8月

 

〇1日 毛利輝元、「在伏見、秀吉を慰める能興行に招かれ、秀吉に世嗣秀就(松寿丸)との対面を求められる。(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)」。(中野等『居所集成・毛利輝元』p230)

〇1日 毛利輝元の元養子であった秀元は、輝元の実子秀就の誕生により毛利家次期当主の地位を失う代わりに、豊臣秀吉から「似合」の給地を分配される事になっていました。(秀元は、秀吉の養女(弟秀長の実娘)婿でもあります。)この日(8月1日)、この給地について秀吉の意向が伝えられます。「その内容は、秀元の給地を出雲・岩見(銀山を除く)とし、隆景旧家臣団及び秀元領となる出雲・石見に給地を有する給人の一部を秀元家臣団に編入する一方、隆景遺領には吉川広家を移すというものであった。

 しかし、この裁定は実行されなかった。なぜならば八月一日の裁定後、秀吉の病状は再び悪化し、八月十八日、この世を去ったからである。」(光成準治①、p240)

〇1日 浅野長政 「8月1日付で発給された甲斐の知行目録では、22万5000石のうち5万5000石が長政分とされた。(『浅野』)」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)

〇4日 筑前の旧小早川秀秋領のうち18万石余の蔵入地の代官も(筆者注:浅野長政に)命じられている。(『浅野』)」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)

〇4日 「8月4日付で浅野長政(長吉から改名)充ての筑前御蔵入目録が発給される(『浅野』)。これは筑前国内九郡を対象としたものであるが、同時に三成にも御蔵入目録が発給されたとみてよい。(中略)すなわち、『西笑』所収の書状案によると、7月下旬には秀吉の遺物分けが進められており、秀吉の死はすでに現実の問題と想定されているようである。したがって、石田三成に続いて浅野長政筑前筑後を代官支配するのは、朝鮮半島からの撤兵を支えるという意味合いが想定される。」(中野等『居所集成・石田三成』p305)

〇4日 イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが伏見を来訪。秀吉、ロドリゲスのみに謁見を許す。(小林千草、p156)

イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況↓

考察・関ヶ原の合戦 其の二十六 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況① 

考察・関ヶ原の合戦 其の二十七 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況②

考察・関ヶ原の合戦 其の二十八 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況③

 

〇5日 「重病の床にあった秀吉は、幼い秀頼の将来を、徳川家康上杉景勝毛利輝元宇喜多秀家に、そして利家らに託し(『毛利』)、利家は、慶長3年8月5日付で前田玄以らに対し、秀頼への忠誠を誓う起請文を認めている(『増訂加能』)」(尾下成敏『居所集成・前田利家』p217)

→この日(8月5日)に発出された秀吉の遺言状として、

 1.「太閤様御覚書」(浅野家文書)、

 2.早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案、

 3.豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵) の3つの遺言状があります。

 ただし、桑田忠親氏は、1.「太閤様御覚書」(浅野家文書)の内容について、「七月十五日には、西国の大名は伏見に、東国の大名は大坂に集まり、諸大名立会いの中で、太閤が病床で遺言を述べた。勿論、たどたどしい言葉であったにちがいない。これを秘書が書き留めたのが、次の覚え書きである。」と述べており、七月十五日に秀吉が語った遺言を書き留めた覚書としています。そして「そこで、この遺言に対して、五大老五奉行は、それぞれ、起請文をしたためて、その命令に背かないことを神仏にかけて誓い、これに花押を書き、血判を押したのである。それらの起請文の日付は八月五日付となっている。」としています。(桑田忠親、p289~290、295)

 また、浅野家文書の「太閤様御覚書」は、あくまで後日に書かれた「覚書」であり、リアルタイムに書かれた文書とはいえないかと考えられます。この「覚書」が、秀吉が語った遺言をすべて書き留めているものなのか、という疑問も残ります。

 ☆秀吉の三つの遺言状については、以下参照↓

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〇5日 八月五日付で、五奉行が二大老徳川家康前田利家)と起請文を交わす。

 堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』から下記引用。

「秀吉死去直前の慶長三年(一五九八)八月五日、「五大老」と「五奉行」は互いに起請文を交わしている。そこで「五大老」は、秀頼へ忠誠を誓うこと、法度・置目を遵守すること、徒党を作らないことなどを誓っているが、中に「五大老」が知行宛行について誓約している箇条がある。ただし内容は家康とそれ以外の「大老」で異なっている。個々にみていきたい。

一、御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事、

これは家康が「五奉行」に差し出した起請文前書の一部である。秀頼成人以前における「知行方之儀」については、どのような者から「御訴訟」-ここでは知行の加増を求める訴えをさすのであろう―があっても家康は決してこれについて「申次」を行わず、ましてや自身の知行などは決して要求しないし、たとえもし知行を与えると言われようとも、これを拝領しないとしている。

これに対して、他の「大老」はどうであったか。

一、御知行方之儀、秀頼様御成人之上、為御分別不被仰付以前ニ、諸家御奉公之浅深二ヨリテ、御訴訟之子細モ有之ハ、公儀御為ニ候条、内府(徳川家康)并長衆五人致相談、多分二付而随其、可有其賞罰候、但、手前之儀者少モ申分無御座事、

 自身の加増は一切要求しないとしている点は同様だが、「御訴訟」があった場合には、「諸家御奉公の浅深」を勘案して家康および「長衆」-ここでは「五奉行」を指す-と相談し、その多数決によって決するとしている。」(堀越祐一、p163~164)

 また、「慶長三年八月五日付で、「五奉行」が徳川家康前田利家の二人の「大老」に宛てた起請文の一節には、

一、御法度・御置目等諸事、今迄之コトタルヘキ儀勿論候、并公事篇之儀、五人トシテ雖相究儀ハ(徳川)家康・(前田)・利家得御意、然上ヲ以急度伺上意可随其事、」(堀越祐一、p179)とあります。

 一見徳川・前田両大老を立てているように見えますがそうではなく、①太閤の定めた御法度・御置目等が(五大老五奉行体制でも)優先される事の確認、②五人で「相究」ることができるのであれば、家康・利家の「御意」を得る必要はなく、五奉行のみで判断できるとした起請文といえます。

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〇6日 五奉行前田玄以長束正家増田長盛石田三成浅野長政)が、八月六日付連署状で「石川光元に対して以前からの代官地の取沙汰を命じ、さらに「重而可被仰付分」についても秀吉が病気であるので朱印は調わないが、物成を運上するように要請している。」(堀越祐一、p184)中野等氏は、「暫定的とはいえ、奉行衆の連署状が秀吉朱印状の機能を代行していると考えてよかろう。秀吉の死を現実のものとし、奉行衆はみずからの連署状の権威上昇を企図したものとも考えられる。」(中野等②、p373)と述べています。

〇7日 「伏見の秀吉が危篤となり長政らに後事を託したとの噂が三宝院義演の耳に入っている。(『義演』)」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)

 中野等氏の『石田三成』より、京都醍醐寺の座主義演の日記(慶長三年八月七日条)を以下に引用。(現代語訳のみ。)

「伝え聞くことに、太閤御所は御病気であり不快という。一大事である。(快癒を)祈念する外にやるべきことはない。(秀吉は)浅野長政(弾正)・増田長盛(右衛門尉)・石田三成(治部少輔)・前田玄以(徳善院)・長束正家(大蔵大夫、正しくは大蔵大輔)の五人を指定し、日本国中のことを申し付けられた。八月六日(昨日)に、この五人の間に婚姻関係を結ぶこととなったという。これは秀吉の意向(御意)であろう。(中野等②、p374)

〇7日・11日 徳川家康、伏見在。家康は、5月1日に伏見に戻り、以後秀吉の発病により伏見に詰めていました。)(相田文三『居所集成・徳川家康』p115)

〇8日 『義演准后日記』の八月七日条に「浅野弾正(長政)・増田右衛門尉(長盛)・石田治部少輔(三成)・徳善院(玄以)・長束大蔵(正家)五人にあい定め、日本国中の儀申し付け」とある。(河内将芳②、p156)

〇9日 毛利輝元家臣隆春が、八月十九日付で出した書状で、死を目前にした秀吉が大名達と最後の別れをした九日の様子を伝えている。(福田千鶴①、p60~63)

→☆慶長三年八月十九日付内藤隆春書状(下記エントリー文中に引用しています。↓)

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〇9日 「慶長三年八月九日の秀吉と大名衆との対面の席においても、左座に徳川家康前田利家伊達政宗宇喜多秀家とともに(筆者注:毛利)秀元が着座したのに対し、輝元は一人だけ右座に着座しており、秀元は五大老と同格に扱われている。銀山も本銀山、今銀山は秀元に分配されることとなっている。こうしたことを勘案すると、たとえ形式上は輝元から給地分配されるとしても、秀元には実質上独立大名に近い待遇が予定されていたのではなかろうか。」(光成準治②、p22)

〇11日 「「五大老」と「五奉行」は、秀頼への奉公や両者の間に隔心なきことなどを互いに誓約し、起請文を交わした。このうち「五奉行」が「五大老」に出した起請文の一文には「今度被成御定対五人之御奉行衆、不可存隔心候」とあるが、これが「五奉行」が差し出したものということを考えれば、「五人之御奉行衆」とは、「五奉行」ではなく徳川家康ら「五大老」を指し示していることは確実であろう。つまりこの史料は、「五奉行」が「五大老」を「奉行」と呼んだものということになる。」「(堀越祐一、p126)

上杉景勝会津にいますので、少なくともこの場にはいません。)

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〇13日 吉川広家は、長門国一国に加え、毛利氏領国内の隆景遺領約五万国のうち、一万石程度を広島堪忍領・上京用として拝領し、残った隆景遺領は秀元領に予定されていた出雲・石見に当時給地を有していた輝元馬廻衆の代替地にするように輝元に提案している。このように一日の秀吉裁定を覆そうという動きがすでに始まっていたが、秀吉の死没後、この問題は単なる毛利氏領国内を越えた国全体の政局変動の中で大きく変動していく。」(光成準治①、p240)

〇13日 後陽成天皇は、気分を悪くし眩暈を起こした。(中略)所司代前田玄以に「くすし(薬師・医者)派遣が求められ、その要請に応えて玄以から「くすし」が派遣された。さらに医者の祥寿院瑞久が脈を診に来、薬を進上した。『御湯殿上日記』のその日の条には「さしたる事にてはなし、めてたし〱」と記されているが、十五日から十九日まで祥寿院瑞久が脈を診に訪れ、十五日、十六日には吉田社から御祓いが届けられたように、その後も後陽成天皇の不調は続いた。」(藤井譲治、p237~238)

〇14日 大坂城移徒(わたまし)の準備も始められ、八月十四日に大坂城の番体制が整えられた。」(福田千鶴①、p68~69)(本丸表門番は宮部継潤、本丸裏門番は小出秀政等々)

〇14日 片桐且元 「秀吉病死直前に定められた「大坂御番之次第」により大坂城詰めとなった。」(藤田恒春『居所集成・片桐且元』p343)

〇17日 宇喜多秀家、参内し、進物を献上。(大西泰正、p42)

〇17日 「秀吉が重篤な病症にあるとの噂(雑説)はすでに市中にも拡がっており、世情は大きく混乱していた。このような喧噪のただなか、八月十七日に浅野長政を加えた「五奉行」は連署して諸大名に書状を発し、家中の取り締まりを令している。この八月十七日付の書状は、これ以降に諸大名の家中が武装して移動すること(対(ママ)兵具懸付(兵具を帯し駆けつけ)候儀)を禁じた。それぞれの大名が自らの屋敷を過剰に警衛することによって、予期せぬ武力衝突が勃発することなどを危惧したのであろう。従って、発見されれば、当事者はいうまでもなく、その主人(諸大名)も罰せられることとなる。この連署状は真田信幸(伊豆守)や分部光嘉(左京亮)充てのものなどが確認されており(『長野県宝 真田家文書(3)』所収二六号文書、大阪城天守閣書所蔵文書)、当時伏見にいた諸大名に同様の連署状が発せられたことが推定される。」(中野等②、p374)

〇17日「ところで、秀吉不例(病気)の風聞は七月なかばあたりから世間に取沙汰されていた(「義演准后日記」慶長三年七月十七日)。当然、世間の空気は不穏になる。ついに秀吉の死ぬ前日、前田玄以五奉行は伏見一帯につぎのような達しをだした。 

 今度下々の者雑説申し、切々騒き懸く候之段、是非なき義ニ候、然らば何(いず)れも人持衆家中之者共、向後、兵具を帯し懸付候儀、堅く停止せられ候、重ねて右之族有るに於いては、慥(たしか)に見届け、其身之事ハ勿論成敗有るべく候、主人も(越度)落度たるべく候、   (「中田文書」)」(北島万次、p342)

〇17日 秀吉はこの日「当時、東山の大仏殿に安置されていた善光寺如来信濃国善光寺へ返還している。(中略)慶長三年(一五九八)八月十六日の夕方に決定された急な返還だったとのことである[川内二〇〇八]。」(野村玄、p71)(河内将芳、p161~163)

〇18日 豊臣秀吉、伏見で死去。(『舜旧』「太閤死去云々」。)(6月13日から8月18日に死去するまで、秀吉は伏見在住。)(藤井譲治『居所集成・豊臣秀吉』p81・82)

〇18日 「秀吉が伏見城内で逝去した。「高徳公記」によれば、秀吉の遺物配分が利家邸で執り行われている。しかし一次史料では確認できない。」(尾下成敏『居所集成・前田利家』p217)

(慶長三年七月十六日付山口宗永宛西笑承兌書状案によれば、七月十五日に秀吉の形見分けが行われ、諸大名に秀吉が起請文を提出させた、と伝えられている。この時宇喜多秀家は、秀吉から茶器「初花の小壺」を下賜された。(大西、p26))

〇18日 毛利輝元、「秀吉逝去の折は在伏見。」(中野等『居所集成・毛利輝元』p230)

〇18日 上杉景勝は、秀吉死去時は会津在住。(3月頃に会津入城。)(尾下成敏『居所集成・上杉景勝』p266)

〇18日 「秀吉死去。(筆者注:伊達政宗は)この年も在京。」)(福田千鶴『居所集成・伊達政宗』p281)

〇18日 「秀吉臨終にさいしては、石田三成浅野長政ともに伏見にいたと考えらえる。」(中野等『居所集成・石田三成』p305)

〇18日 「十八日、午刻、太閤(豊臣秀吉薨去、内府公(徳川家康)太閤の御機嫌うかゝひとして御登城の処、石田(三成)治部少方〇使者八十嶋を以て太閤御他界の事申、御登城可被差止の旨なり、」(『戸田左門覚書』)(野村玄、p46)

※参考↓(ただし、藤井治左衛門氏の『関ヶ原合戦史料集』では、上記の事は八月十九日のこととしています。)

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〇18日 秀吉の死の知らせを受けた家康は、「ただちに嫡子秀忠を江戸に返している。」(「参謀本部編前掲『日本戦史・関ヶ原役』五ページ。」)(笠原和比古、p49・239)

〇19日 五奉行、「淀川の過書船公用の免除と以前の未払い分運上を命じる(谷徹也「納所村役場文書」『史林』九七-四号。)ちなみに、この連署状の書き出しは「為御意令申(ぎょいとしてもうせしめ)候」であり、(筆者注:秀吉の死が秘匿されているため)秀吉の意向をうけての発給であると断っている。」(中野等②、p375)

〇20日 五奉行、「東寺役者中に宛てて連署状を発し、北政所が東寺の堂舎再建を命じ、木食応其に造営奉行を任じたことを告げている。(「東寺蔵」、ここでは和歌山県立博物館特別展図録『木食応其』所蔵写真に拠る。)」(中野等②、p375)

〇21日、24日 徳川家康、伏見在(相田文三『居所集成・徳川家康』p115)

〇22日 五奉行、「慶長二年夏頃から進めてきた田方麦年貢の賦課撤廃を命じる」(中野等②、p375~376)→朝鮮出兵の戦費捻出のための増税賦課(田方麦年貢)だったと考えられるので、秀吉死去に伴い朝鮮撤兵が規定路線となったため、増税も撤廃されたという事になったと考えられます。

〇22日 大仏殿で大規模な法会が行われた。この法会は、大仏殿の完成を祝う「大仏堂供養」だった。(河内将芳、p163~165)

〇25日 「奉行人連署で朝鮮との和議の書状が発給されている(同日付徳永寿昌等宛長政等書状『島津』)。」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)この書状を携え、徳永寿昌・宮木豊盛が朝鮮の陣営に赴く。(中野等①、p350~358)

☆慶長三年八月二十八日付秀吉朱印状(秀吉の死は秘匿されているため、秀吉の朱印状と奉行衆の副状という形をとりました。)(下記参照↓)

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〇28日 毛利輝元は、「同月28日付で増田長盛石田三成ら奉行衆に起請文を提出しており、在伏見と考えられる。」(中野等『居所集成・毛利輝元』p230・231)

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「同日、宇喜多秀家前田利家徳川家康らと在朝鮮将兵の撤退に関する連署状を発す(『黒田』)ちなみに、上洛の途次にあった嗣子松寿丸は備後鞆で訃報を受け、ここから引き返し9月1日広島へ到着。」(中野等『居所集成・毛利輝元』p231)

(1日の項で、輝元が秀吉に世子秀成(松寿丸)との対面を求められている事項を参照。)

〇28日 「上杉景勝を除く家康ら「大老」は、朝鮮在陣中の諸将に充てて、八月二十八日付で連署状を発する。この連署状で、将兵の帰還を迎えるため、毛利秀元浅野長政石田三成を博多へ下向させることを告げている。」(中野等②、p377)

 同日、同内容の朝鮮在陣諸将宛ての五奉行連署状も発出されています。

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〇29日 醍醐寺三宝印座主の義演は、八月二十九日に秀吉の息災祈祷を依頼され、翌九月から毎月、秀頼の誕生日の三日にあわせて息災祈祷を行い、巻数(かんじゅ)を献上するのが恒例となった。」(福田千鶴①、p68)

 

コメント

1.慶長三(1598)年八月十八日の秀吉死去時に、五大老五奉行のうち、四大老徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家)と五奉行全員(前田玄以浅野長政増田長盛石田三成)は伏見在住だったと考えられます。

  会津在住で、当時伏見に不在だったのは大老上杉景勝のみです。上杉景勝は慶長三年三月に伏見を発ち新しい転封先の会津に向かいます。そして、秀吉死去の報を受け、9月に会津を出立して、10月7日頃、伏見に到着します。(尾下成敏『居所集成・上杉景勝』p266)

2.秀吉死去直後の最大の懸案事項は、朝鮮撤兵問題でした。不和とされる五大老五奉行間においても、緊急に共同で対処しなければいけない重大的な危機である、という共通の認識があり、また、五大老五奉行の間では「秀吉が死去したら即時朝鮮撤兵」という事は、既定事項・暗黙の了解事項として共有されていたと考えられます。

3.この時期に秀吉の「遺言」が(複数)出され、また大名間の起請文の取り交わしが複数行われます。秀吉の発した具体的な遺言はほとんどが秀吉が口頭で言った事を聞き取ったものであり「豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)」を除き、書かれた「遺言書」ではありません。

 唯一秀吉が自筆で書いた、豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)」は短く簡潔なものであり、具体性を欠いた遺言といえます。

 おそらく、対面した人物によって秀吉の言っていることは微妙に違っていたのではないかという事が考えられます。また、特に本人にのみ関わる事項については本人に対してしか言わず、他の大老には伝えていなかった場合もあると推測されます。

大老は聞いておらず)奉行衆のみが聞いている秀吉の「遺言」も存在する可能性があります。

4.「五大老」は当時の呼称ではありませんが(当時定まった呼称はなく、あえてつけるのなら秀吉直筆遺言の「五人の衆」になります)、呼称として定着していますのでこのまま使用します。

5.慶長3年8月5日付の早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案に、一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事」とあり、福田千鶴氏は、「秀吉の構想としては、遺言で諸大名の妻子を大坂に移させたように、最終的には秀頼のいる大坂城を首都化することを考えていた(「豊臣政権と首都」)。」(福田千鶴②、p163)としています。