古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三「外交官」石田三成(1)~上杉家との外交①三成、外交官デビュー

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 それでは石田三成の、秀吉政権の「外交官」としての足跡をみていきます。この三成が「外交官」として行った各大名との外交関係が、関ヶ原の合戦で大名が西軍・東軍のいずれにつくのかの選択に大きく影響していくことになります。

 

 第1回目は三成と上杉家との関係についてです。

 

 天正10(1582)年6月27日清州会議にて織田家の後継者が三法師に決まった後、織田信長死後の天下の主導権を巡って羽柴秀吉柴田勝家との仲は急速に悪化します。12月7日、秀吉は勝家の甥柴田勝豊のいる近江長浜城を囲み、秀吉と勝家の戦いは始まります。

 

そして、秀吉は勝家の背後より牽制するため、越後の大名上杉景勝と同盟を結びます。天正11(1583)年2月6日の秀吉の家臣、のちの五奉行の一人である増田長盛から景勝の側近直江兼続に送られた文書から、景勝と秀吉が起請文を取り交わし、同盟を成立させたことが分かります。(*1)

 

 秀吉は景勝に兵を越中に出して、勝家に味方する越中佐々成政を牽制することを依頼します。2月7日には、秀吉の書状とともに、その内容を補足する覚書が増田長盛・木村清久・石田三成の三者から西雲寺を通して、景勝の家臣須田満親に送られます。その覚書の6条目に「『先ず越中江御人数を出され、急ぎお手遣い有るべき事』と、景勝軍の越中への出馬を要請していたことがわか」(*2)ります。三成の外交官としてのデビューはここから始まるかと思われます。この時、三成24歳。(年齢はかぞえです。)

 

 景勝は出兵を約するものの、結局、越後下郡新発田重家らの近接する敵と対峙しているため容易に出兵できず、そのうちに秀吉は4月21日賤ヶ岳の戦いで勝家方に勝利しました。ついで、秀吉は勝家の居城である越前北ノ庄城を包囲し、勝家は4月24日に自刃します。

 

 しかし、景勝が約束通り出兵しなかったため、勝家が滅んだ後の秀吉と景勝の関係は必ずしも良好ではなく、苛立った秀吉は勝家滅亡後に上杉討伐を公言するほどでした。(*3)

 

 その後の増田長盛・木村清久・石田三成の上杉家との交渉で、上杉景勝が証人(人質)を上洛させることで両者の関係は回復します。そして7月11日付で増田長盛・木村清久・石田三成の連名で、直江兼続あてに証人の上洛を告げる連署状を発しています。(*4)

 

 これ以後も、三成らは上杉家と秀吉との間を斡旋することに努め、天正14(1586)年に景勝を上洛させることに成功しています。(景勝が「上洛」するという事は、上杉家が秀吉に臣従するということを意味します。)

 

 天正14(1586)年6月の景勝の上洛に際しては、三成は5月28日に景勝・兼続主従を加賀森本まで出迎えています。そのまま景勝一行に同行し6月7日に入京します。その後、三成は大阪に下向した景勝一行を屋敷に招き、饗宴をはりました。(*5)こうして羽柴家と上杉家との間には強固な関係が結ばれ、上杉家は毛利家と並ぶ強力な親豊臣(羽柴)大名となりました。

 

 秀吉の東国支配を考える上で、上杉家を親豊臣(羽柴)大名として臣従させた効果は、はかりしれないものでした。三成らの外交努力の功績は秀吉によって大きく認められ、以後、秀吉によって三成が重用されるきっかけになったといえるでしょう。

 

 また、これにより三成個人と上杉景勝直江兼続との親密な関係も結ばれ、この関係は関ヶ原の合戦まで続くことになります。

 

 もうひとつ注意すべき点は、のちに同じ五奉行となる増田長盛と三成の関係です。「軍師官兵衛」とかのドラマでは、普通に三成の同僚、下手をするとまるで側近か何かのように扱われる長盛ですが、長盛は天文14(1545)年の生まれ、三成は永禄3(1560)年の生まれで15歳も年が離れており、長盛は三成の大先輩なのです。(秀吉に仕官した年は長盛が天正元年(1573年)、三成が天正5年(1577年)で数年ですが。(三成は天正2年仕官説もありますが、その場合は小姓としてで、正式な仕官はやはり天正5年になります。))

 同じ奉行衆といっても序列(連署するときの順番で大体分かります)的には常に長盛の方が上です。

 この上杉家との外交に見られるように、三成は増田長盛と仕事を同じくすることが多く、仕事での協力関係を通じて、長くの間深い信頼関係を築いてきました。しかし、関ヶ原の合戦の直前辺りから、この関係にはほころびが出てきます。この事については後のエントリーで検討します。

 

 こうして、順風満帆にみえた秀吉と上杉家の関係ですが、実はまだ大きな問題が残っていました。それは新発田重家の問題です。次回のエントリーでは、上杉景勝を絶えず悩ませた新発田重家の問題について検討します。 

 

  注

(*1)光成準治 2009年 p132

(*2)小和田和男 2006年 p75

(*3)中井俊一郎 2012年 p20

(*4)中井俊一郎 2012年 p18・20、中野 等 2011年 p295

7月11日付文書の発せられた年についてですが、(「中井俊一郎 2012年」)によると、「天正11年」となっています。(「中野等 2011年」)によると「天正12年」となっています。

(*5)中野等 2011年 p295

 

 参考文献

小和田和男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館)2006年

中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通からの書状に見るその生き方』(サンライズ出版)2012年

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』(思文閣出版)2011年)

光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』(NHK出版)2009年