古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「石田三成にもう少し人望があれば・・・・・・」

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 ちょっと今回はエッセイ風に書きます。

 

 さて、タイトルの「石田三成にもう少し人望があれば・・・・・・」です。この意見はたまに見かけます。このタイトルの続きは「関ヶ原の戦いに西軍は勝てたかもしれないのに・・・・・・」でしょう。残念ですが、正直これは石田三成の過大評価です。

 他のエントリーでも書きましたが、西軍の総大将は毛利輝元ですので、結局、西軍の総大将に彼がなった時点で、輝元の能力に西軍の行く末は委ねられてしまったのです。

 

 では、実際に「石田三成にもう少し人望があ」ったら、どうなっていたでしょうか。結論から言いますと「豊臣秀吉に粛清(「首切られますよ!解雇って意味じゃなくて!」byエウメネス)されていた」でしょうね。

 

 上記の「石田三成にもう少し人望があれば・・・・・・」と言う人の勘違いは「人望」というのをパラメータか何かと勘違いしているところです。「人望」はたとえば「信長の野望」シリーズのようなパラメータではないんです。「豊臣秀吉 人望 98」みたいなものではない。

 

「人望」はパラメータではなく、行動です。では、その行動とは何なのか。

 

 これは、一言で言ってしまえば「取り成し」です。相手のために利益になること、たとえば相手を接待したり、天下人秀吉様との謁見を取り計らったり、相手にとって有利な裁定をするように秀吉にはたらきかけたり、あるいは相手が秀吉の怒りを買ったときにかばったりすれば、相手を「取り成した」ことになり、相手から感謝されます。中世・近世(いやもしかして現代もそうかもしれませんが)日本では、相手からこのような「取り成し」を受けたとしたら「借り」は返さないといけません。このように、相手に「取り成し」という「恩」を売る事で、相手が「この借りは返さねば」と思わせ協力を得ると言うのが「取り成し」の実体です。こうした「恩」を売った蓄積こそが「人望」になるのです。

 

 三成以外で、主にこうした「取り成し」をした大名は、徳川家康前田利家です。彼は官位も領地も豊臣家に準ずる大大名(後の五大老筆頭と第二位)、いわば豊臣政権NO.2、3として、しかも社外取締役のような比較的自由な立場で「取り成し」をすることができました。

 

 ところが、三成の「取り成し」というのは、自由な立場によるものではありません。彼の「取り成し」は、大名との「取次」を命じられたためです。三成が「取次」を命じられた大名は、上杉景勝佐竹義宣島津義弘毛利輝元(毛利との「取次」は秀吉晩年ですが)他、いずれも錚々たる大大名です。この一筋縄ではいかない、下手をすると敵にまわりかねない大大名達との「取次」を三成が行い「取り成し」たことで、彼らは「親豊臣大名」となります。そして、彼らは関ヶ原の戦いでは全て西軍についているのです。

 

 もっとも上杉景勝は家康の上杉征伐が先です。また、佐竹義宣は景勝と密約を結びましたが、父義重の反対もあり、結局最後まで動けませんでした。そして、毛利、島津も大名家内部で分裂し、一枚岩になれませんでした。これが、関ヶ原の戦いの敗因の大きな原因です。(この、大名家の内部分裂の大きな原因が後述する豊臣政権の「指南」に対する大名親族・家臣団の反発です。)

 

「いや『取次』ってのは、大名との便宜をはかる立場なんだから、大名の人気得て当然でしょ」と言う方もいるかもしれませんが、秀吉時代の「取次」って結構大変なんですね。その大名家の「指南」もしなきゃいけないから。「指南」とは、その大名家の政治に介入して豊臣政権の方針を押し付けることです。具体的には検地したり、家臣の知行の割り振りしたり、国替え処理したりを行いました。特に太閤検地なんて、つまるところは国人層の中間搾取の既得権はく奪ですから、どこでやっても一揆頻発で、憎まれ役以外の何者でもない。

 前にも紹介しましたが、浅野長政は取次先の伊達政宗から絶縁状を叩きつけられるくらい憎まれています。(この「絶縁」は江戸時代以降も続いたそうです。)

 

 こうした憎まれるような「指南」もして、なおかつ「親豊臣大名」にしなきゃいけない。本当に豊臣奉行の「取次」というのは困難な作業で、三成はよくやったといえるでしょう。

 

 また、三成も含む奉行衆というのはその職務として、豊臣譜代家臣から憎まれる立場にありました。

 

 例えば、豊臣氏の蔵入地は各地にちらばっていて、その蔵入地は近くの豊臣譜代大名が代官として管理していたのです。実の所秀吉はそうした蔵入地の代官としての管理能力で各武将の能力をはかっていたふしがあります。(蔵入地代官→大名に抜擢というパターンが多いのですね。)また、大名になった後でも近辺の豊臣家蔵入地の代官として管理を指示されるケースが多かったのです。

 

 で、この蔵入地、当然豊臣家のものですから年貢は豊臣家のものです。しかし、本来の年貢徴収分より余った場合は管理していた代官の収入として認められていました。役得として公式に認められていたのですね。しかし、この本来の年貢徴収分を割り込んだ分は代官が赤字補てんしなければいけなかったのです。

 

 この、蔵入地の収入の管理をしていたのが、奉行衆(蔵入地の管理の中心は増田長盛、三成も当然奉行衆の中に入っています)だったのです。それで、この蔵入地の管理は非常に厳正なものだったらしく、代官をした大名の役得はほとんどなく、加藤清正の記録などによると、むしろ赤字だったそうです。(不作だったのですね。)加藤清正はじめ豊臣譜代大名にしてみれば、「もうちょっと甘くしろよ、蔵入地管理して、俺達赤字持ち出しってどういうことだよ」となりますね。当然、不満は奉行衆に行きます。

 

 しかし、たとえばこれで三成とかが本来徴収すべきところをおめこぼししたところで何の解決にもなりません。上納額はすでに決まっている訳なので。むしろ厳正に徴収しなければ、「こいつ、豊臣家の財政の根幹である蔵入地徴収を、適当にやっている」とクビになるだけです。(奉行衆をクビになるんじゃなくて改易ですね。)

 

 あと、三成ら奉行衆は朝鮮出兵で、軍目付をしていますが、軍目付として諸将の「讒言」した訳ではありません。当たり前の話ですが、軍目付の役割は司令塔である、秀吉に戦況の正確な報告をすることです。正確な戦況報告ができない軍目付など害悪以外の何者でもありません。

 こうした軍目付が不正確な報告をするような軍隊は、最終的にトップが正確な情報をつかめず、間違った判断を下してしまいます。軍目付が諸将を慮って不正確な報告をしていたら、日本軍は朝鮮で壊滅していたでしょう。

 

 しかし、正確な報告をするというのは、失態をした武将にとっては不都合なものです。その失態を正確に報告された武将の主観にとっては、その報告は「讒言」であると思う場合もあるでしょう。(字義的にはこれを「讒言」とは言いませんが、あくまでその武将の主観では、ということです。)

 

 このように、三成ら奉行衆はその職務上から既に豊臣譜代大名たちから嫌われてもおかしくない立ち位置にいました。ここで、三成が自らの人望を上げるような振る舞いをしたらどうなるでしょう。たとえば、蔵入地の代官収入の上納をごまかしたり、軍目付で不正確に諸将の失態をごましたり、功績を過大に報告したら?

 まあ、普通に秀吉から「こんな無能は、奉行衆においておけない」と改易ですね。下手すると切腹かもしれません。

 

 仮に、そこら辺をなんとかごまかして、三成が豊臣譜代大名に恩を売り、「人望を高めること」ができたら、どうなるか?

 

 秀吉は、実質主家である織田家を押しのける形で、天下人になったのです。自らの後継者問題を考える上で、一番重要なことは、自分の部下から「決して第二の豊臣秀吉明智光秀を作ってはいけない」です。あまり、他の部下から人気を集めるような人物、権力が集中しそうな人物(かつての織田政権下の秀吉や光秀のように)は、排除しないといけないのです。結局、奉行衆であれ、その他の武将であれ、豊臣譜代大名は三成に限らず周りの「人望」を集めようと行動したら、「こいつ、昔の自分を真似て、人気取りに走って『人望』を集めてやがる。さてはわしの死後に天下を狙う野心があるな」と秀吉に睨まれ、適当な理由をつけられて粛清されてしまったでしょう。

 

 五大老五奉行制という、うまくいかないことが明白な集団指導体制は、秀吉が望んだものです。秀吉は自分の死後に周りの権力が分散してにらみ合って対峙している間に、秀頼が成人することを望んだのです。つまり秀吉は五大老五奉行も含め誰のことも信頼していません。

 

 こうした中で、秀吉の生存中に豊臣譜代大名、例えば三成が「人望」を集めようとした場合は、秀吉に粛清されたであろうことは間違いありません。