古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その14 曹操の祖父、曹騰の宮廷遊泳術

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 曹操の祖父である曹騰は宦官でした。順帝が皇太子の時に、当時の鄧太后が、曹騰を年が皇太子と年が近く謹厚であるため、皇太子の側近として仕えさせ太子の学友とします。太子も年の近い曹騰を親愛しました。これが後に曹騰及び曹家が栄達する契機となります。

順帝が宮中クーデター(詳しくは三国志 考察 その12 後漢の宦官は必要悪(2) 参照)で、即位すると曹騰は小黄門となり、後に中常侍となります。順帝の曹騰に対する信頼は厚いものでした。

後漢書』の宦者伝や、『三国志』の注にある司馬彪の『続漢書』による曹騰伝の概略は以下のとおりです。

 曹騰は宮中で30余年、4帝(順・沖・質・桓)に仕え、一度も過ちがありませんでした。彼は虞放、邊韶、延固、張温、張奐、堂谿典等名のある賢明な人物を朝廷に推薦し、彼らは皆、高官に出世しましたが、曹騰は恩着せがましい態度をとりませんでした。

 またある時、蜀郡太守は曹騰に賄賂を贈ろうとしたものの、益州刺史种暠がその書類を掴み、上奏して太守と曹騰を弾劾します。順帝は「書は太守が贈った物で、曹騰の過ちではない」と、种暠の弾劾を却下します。しかし、曹騰は种暠の弾劾を恨みに思わず、常に种暠を能吏だと称えました。世間は、これを美談だと噂します。种暠は後に三公のひとつの司徒にまで出世しますが「『今日公(三公)になれたのは、曹常侍のおかげだ』と人に語った。」(『三国志武帝紀注)とあります。

 

 これだけ読むと、曹騰は素晴らしい人格者であるようにみえますが、『後漢書』等の他の部分を読むと決して曹騰は人格者ではない、腹黒くまた宮廷遊泳術の巧みな、したたかな人物であることがわかります。

 そもそも、曹騰は魏の皇帝となった曹丕の曽祖父であり、諡号とはいえ中国の歴史では唯一宦官として皇帝号を贈られた人物です。このような人物が歴史書において公式に正面から悪く書かれる事はありえません。曹騰の本当の人物像を見るには、歴史書の端々のエピソードから推測していくしかないのです。

 曹騰は貧しい家の出身であり、そうであるが故に宦官とならざるを得ませんでした。また養子の曹嵩もまた貧しい家の出身であり、そうであるが故に宦官の養子とならざるを得ませんでした。また、この時代養子は同姓でなければならない不文律がありましたが、曹嵩の元の姓は夏侯氏とされており、この養子縁組は「異姓養子」というタブーを破ったものとされており、石井進氏は「曹氏という一族は、当時の家族制度のタブーを、何重にも犯していたのかもしれない。」(*1)としています。(曹嵩の元の姓が夏侯氏なのは、夏侯氏曹操の時代に親族扱いになっていることから明らかでしょう。)

 しかし、貧しいはずの曹氏も夏侯氏も曹騰が宦官として出世するに及び、親族らも立身出世し富貴の身となります。これに曹騰の口利きがあったのは間違いないでしょう。

 後に、養子の曹嵩は霊帝の時に宦官に賄賂を贈り、銭一億万で三公のひとつの太尉の官位を買います。霊帝の時代、売官がはびこっていましたが、銭一億(万)は相場よりはるかに高く、どれだけ曹家が蓄財をしていたか分かります。

 またある時、曹騰の弟の河間相の曹鼎が賄賂を貰い、冀州刺史の蔡衍に弾劾されます。曹騰は大将軍の梁冀に書を送り免罪を求めますが、蔡衍は答えず曹鼎を処罰する事件がありました。(『後漢書』党錮列伝)この伝そのものは蔡衍がいかに実直な人物であるかを示す伝ですが、同時に曹一族が賄賂を日常的に受け取っていたことも示しています。

 このように曹一族は蓄財に励んでおり、その原資が賄賂であったことは容易に想像できます。蜀郡太守が曹騰に賄賂を贈ろうとしたのも、日常的に曹騰は賄賂を受け取っており、たまたま蜀郡太守の件だけが発覚したのが実際のところだと思われます。

 他の宦官と曹騰が違うところは、賄賂を弾劾する人物を敵視して陥れるのではなく、むしろ能吏として称賛する(そして政府に推薦するという飴を与える)ことによって懐柔するところです。このようなことができるのは、曹騰が順帝と絶対的な信頼関係があり、どんな弾劾があっても順帝が自分を処罰することはない、という自信のあらわれから来たものといえるでしょう。

 また、士大夫達は通常宦官を忌み嫌い、宦官も、通常は宦官を見下している官吏達を憎みますが、曹騰は実直な官僚を称賛したり、有能な人物を朝廷に推薦したりすることで士大夫階層とも友好関係を築きます。曹騰は全方位に友好関係を結んでおり、この辺りも巧みな宮廷遊泳術といえます。

 そして、曹騰と外戚の梁氏(梁商・梁冀)との結びつきも注目されるところです。外戚と宦官は(前のエントリー三国志 考察 その11 後漢の宦官は必要悪(1) (2) (3) 参照)で見たように、激しく対立する場合もありますし、逆に外戚になびいて緊密な関係を結ぶ者もいます。曹騰の場合は、以下に見るように外戚の梁氏(梁商・梁冀)と深い結びつきがありました。

 永和4(139)年、順帝の頃、中常侍の張逵らが、大将軍梁商が宦官の曹騰・孟賁と結んで謀反をたくらんでいると、帝に訴えます。梁商の人柄から言っても考えられない話であり、張逵らの讒言は一蹴され、逆に誅殺されます。(*2)

 ここで考えたいのは張逵らの讒言ではなく、梁商と曹騰の結びつきです。張逵らは、もし梁商が謀反を企むなら曹騰と結ぶのは当然であろうと考えていたと思われます。それだけ梁商と曹騰との友好関係は公然のものだったと考えられます。

 また前述したように、曹騰は質帝が崩御したときの後継に劉志(のちの桓帝)を推すように梁冀に説くなど、梁冀と協力して桓帝を擁立します。桓帝・梁冀からの曹騰に対する信頼も厚くなり、曹騰は費亭侯に封じられ、宦官としての最高位の大長秋(皇后の侍従長)にもなり、位特進を加えられます。

 そして、上記で書いたように曹騰の弟の曹鼎の汚職事件に対しても曹騰は梁冀に頼っています。このように、曹騰と梁商・梁冀親子の友好関係は深いものがありました。

 しかし、前のエントリー(三国志 考察 その13 後漢の宦官は必要悪(3) )で見たように梁冀は桓帝と宦官達のクーデターにより延喜2(159)年誅殺されます。この時、梁冀に連座して死刑になった高官は数十名、免職になった者は300人余りであったにも関わらず、梁冀と親密な関係にあったはずの曹家はこの事件に連座して失脚することはありませんでした。(ちなみに、曹騰が亡くなったのは延喜3(160)年の前後とされ(*3)梁冀誅殺の頃、曹騰が存命だったかは不明です。)曹騰は梁冀の権勢を危ういものと考え、いつの間にか梁冀と距離をとっていたものと考えられます。ここにも曹騰の巧みな宮廷遊泳術が窺えます。

 子の曹嵩は、銭一億万で三公のひとつの太尉の官位を買うような俗物でした。こうした買官、宦官の養子であるという出自、蓄財に励み親族の繁栄に力を入れる曹嵩の所業は、清流派の士大夫から、まさに「濁流中の濁流」とみなされていたとしても仕方ないでしょう。

 

 曹嵩の子、曹騰の孫の曹操は、年少ながら曹家のこうした状況に危機感を抱きます。仮に未来に世の状況が変じて濁流派(宦官派勢力)が没落し、清流派(反宦官派の士大夫)が力を握るようになれば曹家は濁流派の代表として一家もろとも誅滅の対象になりかねません。こうした、かつて繁栄を誇った一族が世の変転によりあっという間に没落していくという話は、漢の歴史では枚挙に暇がありません。

 

 自分の代のうちに清流派へ転身しないと曹家は滅亡すると考え、曹操は曹家の濁流派から清流派への転身に奮闘することになります。

 

 次のエントリーでは、若き曹操の清流派転身の奮闘(追記:これは次々回にします)と、後に彼の最大のライバルとなる袁紹の若い頃の「奔走」について検討します。

 

次回のエントリー:三国志 考察 その15 党錮の禁と、袁紹の「奔走の友」について

 

(*1)石井仁 2010年、p35

(*2)石井仁 2010年、p25~26

(*3)石井仁 2010年、p29

 

参考文献

陳寿著、今鷹真、井波律子訳『正史 三国志1』ちくま学芸文庫、1992年

范曄編、李賢注、吉川忠夫訓注『後漢書岩波書店

三田村泰助『宦官 側近政治の構造 改版』中公新書

石井仁『魏の武帝曹操』新人物文庫、2010年