古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その11 後漢の宦官は必要悪(1)

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 後漢の歴史は外戚と宦官との闘争との歴史といってよいでしょう。そして、外戚と宦官の存在が後漢を滅ぼしたといわれます。

 実際、最終的に外戚曹丕によって後漢は滅ぼされることになります。三国志を知っている方でも、うっかり忘れてしまう人が多いですが、献帝の最後の皇后は曹操の娘であり、曹丕の妹です。曹家は後漢の皇帝の最後の外戚な訳です。

 

 後漢の皇帝は幼少で即位することが多く、外戚が権力を握り皇帝の権力を脅かしてきました。そして、これに対して皇帝に忠誠を誓い、外戚の専横を打倒してきたのが宦官達でした。

 

 宦官といっても常に皇帝や皇太子の味方という訳ではなく、外戚になびく者もいました。(外戚派というより皇太后派というべきでしょうか。)しかし、朝廷の官吏達が権力を持つ外戚になびく中、皇帝を守るために、専権を振るって皇帝をおびやかす外戚を打倒したのは常に皇帝・皇太子の側近くに仕える宦官だったのです。

 

 後漢の歴史で皇帝のために宦官達が立ち上がった例として以下があります。(皇帝の号は諡号ですので、在位中は実際には呼称されませんが、分かりやすくするため諡号をそのまま使います。)

 

1.和帝(第4代皇帝)時代

 後漢の第3代皇帝章帝の皇后竇氏は、章帝が生きている頃から暴虐が激しく野心溢れる女性でした。章帝の夫人には、他に梁貴人、宋貴人等がおり、それぞれ皇子が生まれました。しかし、竇皇后には子はなく、梁貴人の子肇を養子としました。これに対し、章帝の母の馬太后は宋貴人の子慶を可愛がり、皇子慶を皇太子とします。

 馬太后が亡くなると、竇皇后は宋貴人を亡き者にしようと章帝に陰口をし、宋貴人を陥れます。宋貴人が邪媚(呪い)の道を使っていると誣言したのです。

これにより、宋貴人は自殺に追い込まれ、皇子慶は皇太子を廃されます。代わりに梁貴人の子、竇皇后の養子である、皇子肇が皇太子となります。

 

 しかし、竇皇后は、今度は皇太子の母の家である梁氏の権勢が大きくなるのではないかと危ぶみ、今度は飛書(匿名の怪文書)を作って、梁貴人の父梁竦を陥れ、梁竦は誅殺され、梁貴人もまた憂いを以て亡くなります。

 

 こうして、竇皇后はライバルを蹴落として権力を固めます。そして、章帝が章和2(88)年に31歳で亡くなると、養子の皇子肇はわずか10歳で第4代和帝として即位します。竇皇后は皇太后となり、兄の竇憲ら、竇氏一族は外戚として宮廷で重要な地位につき、権勢をほしいままに振るうことになります。特に竇憲は匈奴征討に功績を立て、竇氏一族の増長は更に大きくなります。竇氏一族に反発する者は宮中から排除されていくことになりました。

 

 やがて、和帝が成長すると、この竇氏一族の専横に反感を抱くようになります。しかし、宮中の外部の臣下からは、既に竇氏一族に反する者は排除されてしまっており、皆竇氏一族になびく者ばかりです。宮中で頼りになるのは、皇帝に近侍し、権勢に媚びず豪党に組みせずに、独り一心に王室を思っていた宦官の鄭衆だけでした。

 

 以下、三田村泰助『宦官 側近政治の構造 改版』中公新書、2012年(p131~132)より引用します。

 

「帝は彼(引用者注:鄭衆)に相談すると同時に、帝と親しい腹ちがいの兄である廃太子の清河王と連絡し、前漢外戚のことを書いた班固の『前漢書』「外戚伝」を手に入れ、これを研究して対策を練った。

 すでにのべたように、始祖光武帝は内外を厳重にわけ、宦官の世界を独立させたが、これが秘密漏えいをふせぐのに役に立つことになった。手筈をととのえた帝は禁軍に非常警戒線をはらせ、太后の宮殿にいる一味を一網打尽にする一方、憲(引用者注:竇憲)から大将軍の印綬をとりあげた。帝は太后をまきぞえにしたくなかったので、憲をあらためて華族に列し、兄弟ともどもその采領の地におもむかせ、そこで自殺させたのであった。

 勲功第一であった鄭衆は、功賞を辞退したことから、ますます帝の気に入り、政事万端の相談をされるようになった。これ以後、宦官が側近勢力として擡頭するようになるのである。」

 

 三国志 考察 その12 後漢の宦官は必要悪(2)に続きます。

 

参考文献

范曄編、李賢注、吉川忠夫訓注『後漢書 第2冊 本紀2岩波書店、2002年

三田村泰助『宦官 側近政治の構造 改版』中公新書、2012年