古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)コメントの回答

 kayakokuro さんより、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。⑭」のエントリーhttp://sonhakuhu23.hatenablog.com/entry/2013/04/27/065201

に以下のコメントをいただきましたが、『国境の南、太陽の西』『海辺のカフカ』のネタバレ言及がありますので、こちらに移動しました。(以下『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』『国境の南、太陽の西』『海辺のカフカ』のネタバレ言及がありますので、ご注意願います。)

(*たまたまこのページをご覧になっている方は、blog(「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。)を読まないと意味がわからないかと思いますので、blog(色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。)をまずご覧ください。→「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き) (ネタバレあり)

 

 

 

 

 

kayakokuro さんのコメント

「ブログ楽しく拝見させていただきました。 沙羅がシロの姉であるとしたら、つくるはシロとは恋人関係にならず沙羅と関係を持つことを望むわけですが、この関係から国境の南、太陽の西の主人公を思い出しました。 学生時代に付き合った女の子とは結局関係をもたないまま、彼女の姉のような従妹(確か…)と浮気してしまった結果、その彼女は致命的に傷つけられてしまう、という内容だった気がするのですが、これは村上さんの一つのテーマなのでしょうか?姉のような存在と交わることは、海辺のカフカで母を犯すと同じといわれていた様な気もするのですが、色彩…には父を殺して母を犯すという文脈は無かったので、また違う意味なのでしょうね。」

 

 kayakokuro さん、コメントありがとうございます。

 

「これは村上さんの一つのテーマなのでしょうか?」なのですが、どちらかというと『国境の南、太陽の西』の方が村上春樹作品の中では異色な作品で、氏の作品のテーマとしては「妻に去られる」「妻が他の男に寝取られる」テーマの方が多いです。具体的に作品を挙げるとそれこそネタバレになってしまうので避けますが、作品数からいうとそちらの方が多いです。『国境の南、太陽の西』は、このいつものテーマを反転させた作品なのではないかと思います。

 

「姉のような存在と交わることは、海辺のカフカで母を犯すと同じといわれていた様な気もするのですが、色彩…には父を殺して母を犯すという文脈は無かったので、また違う意味なのでしょうね。」

→『海辺のカフカ』のテーマとして「父殺し」「母を犯す」のオイディプスの神話のテーマがあります。『海辺のカフカ』のテーマと『・・・多崎つくる・・・』を関連づけて「多崎つくるの父真犯人説」を唱える人も一部いらっしゃいます。(筆者としては「多崎つくるの父真犯人説」は推理小説的(つまり現実的に)にはありえないと考えています。詳細は、以下

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。⑧「15.シロを殺した犯人は誰か? のコメント欄のNatsuさんへのコメントで考察しました。)

 

 小説的にも『・・・多崎つくる・・・』においては、氏の「父殺し」がテーマの他の作品で見られる父・息子間の葛藤の描写がありませんので、本作品については主人公の「父殺し」はテーマではありません(念のため書いておきますと『海辺のカフカ』の「父殺し」「母を犯す」はメタファーであり、現実ではありません。また、『・・・多崎つくる・・・』においては、別の登場人物の「父殺し」が重要なテーマな訳ですが。)

 

 なぜ、実際には息子の「父殺し」というテーマでは関連していない『海辺のカフカ』と『・・・多崎つくる・・・』が関連づけられて解釈されることが多いかというと、この2つの作品は「夢・想像の中から責任が発生する」という共通したテーマがあるからです。このテーマはキリスト教的には重要なテーマだと思われますが、(「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書)、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネによる福音書)(キリストの時代において「姦淫」は死刑となる罪です。))(おそらくキリスト教徒ではない)村上春樹氏は、作者個人としてこのテーマ(「夢・想像・心の中の時点で、罪・責任が発生する」)を重要視しているのだと思われます。

 

 上記のテーマに基づくと『海辺のカフカ』の主人公は(心の中で)「父を殺した」責任が問われる事になりますし、つくるは(夢の中で)「シロを犯した」責任が問われることになります。もちろん、物理的にも法律的にも現実に主公人は罪を犯していませんが、「夢・想像の中から責任が発生する」という立場ならば、罪・責任が発生するのです。(ここでいう「責任」とは法律的な意味ではなく、倫理的な意味です。)

 

 正直、このテーマは私的には関心がない(個人的には心の中で思っただけのことに対して、いかなる責任も問われないし、問うべきではないと思います。)のですが、作者的には重要なテーマなのだと思われますので、いくつかの作品で繰り返し問われているのだと考えます。

 

 まとめますと『・・・多崎つくる・・・』においては、主人公としては「父殺し」「母・姉を犯す」というのはテーマではないということです。ただ私の仮説では、他の登場人物(沙羅)にとって「父殺し」「父と交わる」というのが隠された重要なテーマになっているのではないかと思います。