古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次切腹事件の真相について⑧~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(中)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

※前回のエントリーです。↓

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 今回は、豊臣秀次切腹後における石田三成の動向を見ていきます。

 

(1)文禄4(1595)年7月20日付血判起請文の作成

 

 7月15日に豊臣秀次切腹した後、7月20日に豊臣政権内ではじめて大きな動きがみられます。

 

 第一に、諸大名の血判起請文が、7月20日付で複数作成されたことです。特に、織田信雄以下二十七名連署による血判起請文が20日付で作成されています。

 この起請文は七月十二日付の石田三成増田長盛の起請文とは大きく異なり、起請文の作成方針が「個別」から「集団」へと変化しています。

 矢部健太郎氏は、「こうした変化を理解するためには、七月十二日からこの日までの間に、当初の予定を変化させるような「何か」が発生した、とするのが自然である。その間に起こった最大の事件が「秀次切腹」であることは衆目の一致するところだろう。」(*1)としています。

 

 つまり、「秀次切腹」という想定外の事件を受けて、急遽諸大名から一斉に起請文を集め、動揺した豊臣政権の引き締めを図る必要があったということです。

 この時に在国していた大名もいましたので、必ずしも7月20日にすべての諸大名が起請文を血判した訳ではありません。たとえば、徳川家康は7月20日にはまだ遠江におり、上杉景勝が秀吉と対面したのは8月4日でした。いずれにせよ、「秀次切腹」という急変事態に対処するために、諸大名に急遽上洛が秀吉によって指示されることになりました。(*2) 

 

(2)文禄4(1595)年7月20日付秀次遺領配分案

 

 第二に、秀次の遺領配分案が出されたことです。

 この遺領配分案(『佐竹家旧記』)で特徴的なのは、この7月20日付秀次遺領配分案では、秀次遺領で最も多い尾張清洲21万石が石田三成の所領に予定されていたことです。しかし、実際には三成は清州に移らず、佐和山に留まり、10万石から19万4千石に加増されます。清州21万石は、福島正則に与えられることになります。

 矢部健太郎氏は、「このことをみると、①当初の遺領配分案作成に三成は関与していなかったこと、②三成が承服しなかったために当初案が変更されたこと、以上の二点が明らかになる。」としています。

 そして、三成が尾張清洲の拝領を拒んだ理由としては、尾張清洲二十一万石の配分は、当初案の冒頭に掲げられた最大の領域であった。それはすなわち、この地を与えられた者こそが「秀次事件」最大の功労者である、という世上の評判につながってこよう。しかし「秀次事件」は、秀吉政権の、そして三成の意図とは大きく異なる展開を見せてしまった。三成が尾張清洲の拝領を拒んだ理由としては、佐和山へのこだわりとして語られることが一般的であったけれども、実は「秀次事件」最大の功労者は自分ではなく正則である、との三成の批判的な主張も含まれていたように思うのである。」(*3)と述べます。

 

「三使」のうち、福原長堯は1万石の加増、福島正則尾張清洲21万石へ加増、池田秀雄は伊予に加増を受けます。

 

 秀吉政権の命令に反して、秀次に切腹をさせてしまった三使は功労どころか「大失態」でしかないのですが、秀次の「無実の訴え」を認めるわけにはいかない秀吉及び秀吉政権は、後付けで「秀次の切腹」を「謀反の罪による秀吉の切腹命令」による切腹として世上に公表することにします。このため、三使は「切腹の検分役」という役割ということになり、事件の始末をした「功労者」として、加増を受けることになります。

 

(3)文禄4(1595)年7月25日付針生盛信宛石田三成書状

 

 伊達政宗家臣の針生盛信から三成に秀次事件の詳細を問い合わせる書状が出され、これに対する三成の返信の書状が7月25日付で出されました。

 

 この書状は、

伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り 

で紹介しました。以下に再掲します。

 

「預飛札本望二存候、今度関白殿御逆意顕形二付而、御腹被召、一味之面々悉相果、毛頭無異議相済候迚、可為御上洛間、期面談不能詳候、

                  石田少

                    三成(花押)

     七月廿五日

        針(針生)民部太輔殿

                 御返報

                   (大日本古文書『伊達家文書』六六四号)

◇急便を嬉しく思う。この度関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた。すべて問題なく片付いたことをうけ、御上洛されるとのことなので、面談の時を期して詳しい事を述べない。」(*4)

 

 上記の書状で分かることは、

 

① 伊達政宗石田三成とは、この頃から親交があり、政宗は三成に秀次事件の情報や対処方法を尋ねており、秀吉政権の中では三成を頼りにしていたこと、

② この時点(7月25日)での、秀吉と秀吉政権の秀次事件に対する公式見解は「関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた」であったということです。

 

(4)文禄4(1595)年7月25日 菊亭晴季越後配流奏上

 

 秀吉の使者として奉行衆の前田玄以石田三成が禁中へ派遣され、秀次の義父(秀次の正室一の台の実父)である菊亭晴季越後国へ流すことが報告されます。

 この時までに三成が天皇への「御使」として朝廷に派遣された事例は一つもありませんでした。これは、従五位下治部少補の三成は「地下人」であり、参内しても紫宸殿や清涼殿などの殿舎に上がることが許されないためでもあります。

 その三成が禁中に派遣されたことは異例であり、その訳について矢部健太郎氏は「考えられるのは、やはり三成の中にあった危機感だろう。それは「想定外」の「秀次切腹」に関わった福島正則への警戒心といってよい。」(*5)とします。しかし、三成がこの事態に危機感を持っていたのは確かと思われるものの、三成が警戒心を向けたのが「福島正則」であるというのは疑問です。

 

 なぜならば、この禁中へ報告で三成が同行しなければ、ただ単に前田玄以が禁中に報告に行っていただけだからです。(これまでも朝廷との交渉は、奉行衆の中では前田玄以が担っていました。)これが、仮にこれまた異例にも正則が玄以に同行するといったという経緯があれば、三成が警戒する理由も出てきますが、そういう訳ではありません。

 前田玄以が一人で、菊亭晴季配流の件を禁中へ報告に行くことを三成は警戒しました。つまり、三成が警戒心を向けたのは福島正則ではなく、前田玄以だったのです。

 

 なぜ、同じ奉行衆である玄以を三成が警戒しなくてはいけないのでしょうか?そもそも、この晴季の処分にしても、秀吉と(三成と玄以も含む)奉行衆が合議して秀吉政権として決定した処分だったと考えられます。秀吉政権として決定したはずの処分を、土壇場でひっくり返される可能性を三成は警戒したのだと思われます。

 こうしたいったん決まった「秀吉政権」の決定をひっくり返せる人物とは誰か?それは、秀吉その人に他なりません。

 秀吉が、秀吉政権として合議して決定した処分を、後から急に思い直して、更に過酷な処分を玄以ひとりに密かに命令して、朝廷に通告させる可能性があると三成は考え、その可能性を消すために玄以に同行したのです。

 

 秀吉も含めて合議して決めたはずの「秀吉政権」の決定を、その直後に秀吉自身が覆すなど、「普通では考えられない」ことですが、まさに、秀吉政権として決定されたものが、土壇場で覆されたのが「秀次切腹事件」でした。三成は二使の「秀次切腹」放置(黙認?)に秀吉の裏の真意があるのではないかと疑念を持ったのだと思われます。

 

 なぜ、三使の中で急に今まで秀次の処遇に関わりのなかった福島正則が(秀吉によって)指名されたのか?なぜ、秀次切腹の当日に三使のうち三成に近い福原長堯は高野山から遠ざけられたのか?なぜ、秀吉政権の命令に反する「秀次切腹」という事態を阻止できなかったという「大失態」をおかしたのに、三使には何の咎めもないのか?

 こうした疑問点を突き詰めていくと、「結局『秀次切腹』が秀吉の真意であり、「秀吉政権」の決定を覆して、秀吉は正則に密かに「秀次切腹」を命じたのではないか?」と三成が秀吉に疑念を抱くのは無理ありません。

 

 しかし、この「疑念」に確証がある訳でもありません。また、この「疑念」を秀吉自身に問いただす訳にもいけません。秀吉の「表の意志」は秀吉政権の決定であり、これに反する「裏の意志」が仮にあったとしたら、それは明かされてはいけないが故に「裏の意志」なのです。このような「裏の意志」を主君秀吉に問いただすような力は、三成を含め秀吉家臣には誰もありません。

 

 このため、「疑念」は「疑念」としてとどめたまま、起こり得る最悪の可能性を排除するために、今まで前例のない中、三成は禁中への報告に同行し、玄以が「秀吉政権」の決定以外の処分を朝廷に「報告」することが無いように牽制したのだと考えられます。

 

(現代的・客観的な視点から見れば、秀吉が秀吉政権として「秀次の謹慎」命令を出しつつ、同時に正則に「秀次切腹」の密命を出した可能性は極めて低いのですが、三成が置かれた立場からの視点では、そのような可能性に疑念を抱くのは無理はないという事です。)

 

 なお、菊亭晴季の配流処分は重い処分とされますが、配流先が三成の取次先で親交のある上杉景勝の領国である越後国、そして翌年文禄5(1596)年5月には春季の赦免が決定され帰洛したこと(*6)を考えると、三成ら奉行衆はなるべく晴季の処分が軽くなるように尽力していたと考えられます。

 

 また、白川亨氏は、石田家の親族(石田為親)が菊亭家の家司を勤めていたことを指摘しています。そして、秀次と正室一の台(晴季娘)との間に生まれた娘(隆生院)を、三成が真田家(真田家と石田家は縁戚です)に依頼し、密かに保護したとしています。

 隆生院はその後、真田信繁の側室となり、一女(於田)を生んでいます。その於田は寛永三(1626)年、多賀谷宣家(佐竹義宣の弟)に嫁いでいます。(佐竹義宣は三成の取次先であり、盟友でもあります。)(*7)

 

 石田家と菊亭家の関係については、今後の検討課題となると思われます。

 

5)文禄4(1595)年8月2日 秀次妻子の公開処刑が行われ、翌8月3日付で徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元小早川隆景上杉景勝連署により「御掟」「御掟追加」が発出されます。

 

 この豊臣政権下の唯一の体系的成文法ともいわれる「御掟」「御掟追加」により、「秀次切腹」後に変容を余儀なくされた豊臣政権の枠組が位置づけ直されることになりました。(*8)

 

 次回は、秀次家臣の保護に奔走する三成の動きについて検討します。

※次回のエントリーです。↓

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 注 

(*1)矢部健太郎 2016年、p101~102

(*2)矢部健太郎 2016年、p229~234

(*3)矢部健太郎 2016年、p241~244

(*4)中野等 2017年、p259~260

(*5)矢部健太郎 2016年、p244~246

(*6)中野等 2017年、p274~275

(*7)白川亨 2009年、p230~231

(*8)中野等 2017年、p264~265

 

 参考文献 

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年