古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

小早川秀秋の九州入国に気配りをする石田三成

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 石田三成小早川秀秋の仲については、関ヶ原の戦いで秀秋が西軍を裏切ったことから、仲が悪いのが当然のように考えられていましたが、調べてみても、実のところ三成と秀秋の接点というのは薄いだけで、仲が良いとか悪いとかいう事はないのではないかと思われます。

 その中で、三成と秀秋に関係するものとして、また中野等氏の『石田三成伝』からになってしまいますが、興味深い書状がありましたので以下に紹介します。 

 

 以下は、小早川隆景の養子となった、小早川秀秋が初めて領国である九州筑前に入国した文禄四(1595)年の小早川隆景島津義弘宛書状です。

 

「先度者委細之御懇報、畏入候、仍中納言殿御供申、一両日以前致下著候、遠路乍御造作、御一人被差出、御入国之御祝儀被仰上候て可然存候、何篇御心安可申談之通、治少内証候間、得御意候、来月中旬ニハ中納言殿も先以可為御上洛候、山口玄番(蕃)頭御供候、為御心得候、恐煌謹言、

            小左衛 

 (文禄四年)九月十八日  隆景(花押) 

       嶋兵様 人々御中

 

◇先般は御懇ろなご返事を畏れ入ります。小早川秀秋中納言)殿の御供をして、一両日以前、筑前に下着しました。遠路ご迷惑をおかけしますが、御家中から御一人お出でいただき、初入国の御祝儀を仰っていただければ幸いです。あれこれと心安く相談するようにと石田三成(治少)から内意を得ておりますので、このように連絡しています。山口宗永(玄蕃頭)が御供をされます。御心積りのため、お知らせします。

 

 小早川隆景島津義弘(兵庫頭)に対して、秀秋初入国の祝いを開催するにあたって、島津家中の列席を依頼している。おそらく他の大名家に対しても同様な依頼がなされたと考えられるが、注目されるのはこうした措置が「治少内証」すなわち三成の内々の配慮によっていることであろう。」(*1)

 

 小早川秀秋の入国の祝いを開催する際に、近辺大名が列席するように三成が内々の配慮をしており、大名間の顔つなぎも行っているという話です。こうした大名間の渉外に対して内々の気配りをするのも、奉行としての三成の重要な役割だったことがうかがえます。

 

(参考)(平成30年2月17日追記)

 小早川秀秋の九州入国の際に、石田三成と親しい博多商人衆(島井宗室、神屋宗湛等)は秀秋を博多に迎えるために種々奔走があり、これには奉行衆の増田長盛石田三成の内意があったという記述が、田中健夫氏の『島井宗室』にあります。

 以下引用します。

 

「『宗湛日記』によると、宗室をはじめ宗湛・日高宗暦等の博多年寄衆は、隆景の所領三原で挙行された秀秋と隆景の一族の息女の結婚を賀するために十月二十六日博多を発し、十一月十四日には三原に参着した、と記している。

 翌文禄四年、宗室は秀秋を博多に迎えるために種々奔走するところがあった。隆景は八月十四日付で宗室と宗湛に書状をおくり、秀秋の下国に対する準備を依頼した。すなわち『島井文書』によると、「今度中納言殿(秀秋)が十日滞在の予定で其地(博多)に下向する由を昨日鵜飼新右衛門尉元辰(もととき)と粟屋四郎兵衛からいってきた。そちらで祝儀について準備してもらいたい、松原茶のことも肝要である。増田長盛石田三成の内意もあることだから、専心奔走してもらいたい。」と記している。

 『宗湛日記』によると、八月十七日隆景の一行は名島に着いて振舞、二十三日には「松原御茶屋之事、博多二被仰付候二依テ」宗湛が肝煎りし、九月二十日と二十五日には隆景のほかに秀秋をも加えてこの茶屋で茶会がひらかれている。また二十六日には、秀秋は宗湛の孫に対し金吾中納言(筆者注:金吾は秀秋の通称)の金十郎と名乗らせている。その後宗湛は折にふれ珍物を献じたり、博多の松ばやしを覧せたり、領主の養子に対して実にこまかい心づかいをしている。」(*2)とあります。

 

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 注

(*1)中野等 2017年、p265~266

(*2)田中健夫 1961年、p174~175

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館 2017年

田中健夫『島井宗室』吉川弘文館 1961年