古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十八 秀吉に最も期待をかけられた大名、宇喜多秀家

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 宇喜多秀家は、秀吉の養女豪姫(実父は前田利家)の婿であり、秀吉の死後に若くして(秀吉死去時に二十七歳)秀頼を補佐する五大老の中に選ばれた人物です。

 

1.秀家の父、宇喜多秀家について

 

 宇喜多秀家の父直家は、没落した宇喜多家を一代で再興し、備前・美作の支配者にのし上がった戦国大名でした。

 

従来、直家は主君であった浦上宗景を裏切り、滅ぼして、戦国大名にのし上がった「梟雄」とされましたが、宇喜多家もまた備前の小領主であり、浦上家とは(力関係から)従属関係にはありましたが家臣とはいえないといえ、この従来の「梟雄」との見方については見直しが進んでいます。

 

 天正五(1577)年十月二十三日から始まった、織田信長から派遣された羽柴秀吉軍の中国地方攻略に対しては、当初直家は、毛利方につき秀吉と戦いますが、やがて織田方に接近し秀吉に帰順します。この時、帰順工作にあたったのが、当時秀吉の家臣であった花房秀成(後に秀家の家臣になります)と宇喜多家臣の小西行長(後に秀吉の家臣になります)でした。(*1)

 

 天正七(1579)年九月四日、羽柴秀吉安土城に上り、信長に直家の投降を願い出ましたが、直家の調略は秀吉の独断であったらしく、信長の承認を得るまでひと月余りを要しています。しかし、やがてこの投降は信長に認められます。(*2)

 

 備前・美作の支配者である直家は、毛利攻略を進める秀吉にとって貴重な味方となります。

 しかし、毛利との戦いが続く中、直家は天正九(1581)年二月十四日(『浦上宇喜多両家記』)(または天正十(1582)年正月二十一日『信長公記』)、直家は病死します。(*3)享年53歳、または54歳。

 幼い八郎(のちの秀家)(当時10歳、または11歳)が宇喜多家の家督を継ぐことになります。

 

2.宇喜多家当主、宇喜多秀家

 

 その後、秀吉の備中高松城攻め、本能寺の変中国大返し、については省略します。

 

 本能寺の変の際に、秀吉と毛利家は和睦を結びますが、これで国分けが確定した訳ではなく、なおも交渉のゴタゴタが続きます。この間、宇喜多・毛利間の戦闘も継続しました。(*4)

「中国国分」が確定したのは、天正十三(1585)年二月になります。(*5)これにより、宇喜多・毛利両氏の関係は好転に向かい、天正十六(1588)年十月、秀家の同母姉容光院と吉川広家吉川元春の子、毛利輝元の従兄弟)との婚姻が結ばれます。

 しかし、容光院は若くして病に倒れ、天正十八(1590)年七月十九日に二十一歳で死去します。

吉川広家夫人の早世がなければ、秀吉の死から関ヶ原での敗戦へ続く秀家の悲劇は、まったく違った様相を見せたと考えるのは筆者だけであろうか。」(*6)と大西泰正氏は述べています。

 

 秀家の初陣は天正十三(1585)年三月の根来・雑賀平定戦(十四歳)、その後、同年六~七月には四国攻めに参加、続いて天正十五(1587)年(十六歳)の九州攻めでは先陣を務めます。天正十八(1590)年(十八歳)には北条攻めに参加しています。(*7)

 このように、若くして秀家は戦に何度も参陣し戦っています。秀吉の秀家に対する期待の高さがうかがえます。

 

 また、秀家と、秀吉の寵愛する養女豪姫(実父は前田利家)との婚儀が行われています。(時期については、桑田忠親氏・藤島秀隆氏によると天正十(1582)年(十歳)には二人の婚約が結ばれ(*8)、その後イエズス会の宣教師フロイスの報告書から天正十六(1588)年(十六歳)正月以前に婚姻が結ばれたと考えておく、と大西氏はしてます。(*9)

 

 また、官位についても天正十(1582)年(11歳)従五位下・侍従に任官され、その後、天正十五(1587)年(16歳)には従四位下・参議、文禄三(1594)年(23歳)には従三位・権中納言に叙位・任官されます(*10)

 

 これは異例の出世といえ、秀吉が秀家を養女豪姫の婿として、豊臣(羽柴)家に準ずる「一門」として厚遇し、また若き秀家に対して、豊臣家を補佐する存在として秀吉は大きく期待をかけたといえます。

 

 天正二十(1592)年(21歳)、文禄の役が始まり、秀家もまた出陣し、朝鮮へ渡海します。当初予定されていた秀吉の渡海がなくなり、明・朝鮮方の反撃によって戦局が悪化すると、漢城守備の秀家が日本軍の惣大将に就くことが文禄二(1593)年二月十八日付で発せられ、戦線の立て直しが図られることになります。(*11)

 

 若く血気逸る秀家は漢城の守備に飽き足らず(これは惣大将につく前の話ですが)、前年六月十三日付の秀吉朱印状に「都(漢城)に相残る儀、迷惑に候」(『豊公遺文』所収文書)と秀家の不満が記されています。(*12)

 

 ただ、戦国大名というものは、戦に勝利せねば恩賞も加増もないのですから、戦の機会が少なくなる城の守備に不満を漏らすのは、ある意味当然ともいえます。(軍役・兵糧にかかる費用は、その大名の自腹です。)

 戦国大名としては、戦で勝利して恩賞・加増を受けなければ、軍役に係る費用はすべて自分たちの持ち出しになり、赤字になってしまいます。秀家の若さ故の短慮というより、こうした感覚は唐入りに出陣したすべての戦国大名が持っていたとみるべきでしょう。

 

 これに対して文禄二(1593)年三月十日、秀吉は次のような注意を与えます。「すなわち、秀家は若いから、前野長康・加藤光泰・生駒親正石田三成の四人は、常に同所に陣取って「卒爾」=軽率な働きがないよう「異見」を加えること、「異見」を聞かない場合は有体に秀吉に報告するように、との指令である(『浅野家文書』)。」(*13)

 

 その後も、慢性的な兵糧不足、朝鮮各地の義兵決起、明援軍の南下等により戦局は好転せず、文録二(1593)年四月十八(または十九)日、秀家以下の日本軍は漢城を放棄して南へ向かい、同年十月秀家は帰国します。(*14)

 

3.「五大老」、宇喜多秀家

 

 文禄四(1595)年七月十五日、秀次切腹事件が起こります。八月二日に秀次妻子の処刑が行われ、翌日この事件を受けて「御掟」「御掟追加」が交付されますが、この「御掟」「御掟追加」に署名した六人(徳川家康宇喜多秀家上杉景勝前田利家毛利輝元小早川隆景)(*15)(「御掟」からは上杉景勝が省かれていますが)が、のちの五大老の原型となったとされます。(小早川隆景は、秀吉生前の慶長二(1597)年六月十二日に死去します。)

 

 慶長二(1597)年二月、秀吉により、第二次朝鮮出兵慶長の役)の陣立てが通達されます。同年七月以降に秀家も出陣・渡海します。(*16)

 第二次朝鮮出兵は、朝鮮半島南部の攻防に終始し、秀家は目立った戦果も挙げられぬまま、慶長三(1598)年三月十三日に帰国を許可され(「鍋島家文書」)、四月以降に宇喜多秀家は帰国します。しかし、衰弱著しい秀吉には死期が迫っていました。(*17)

 

七月十五日、秀吉は諸大名へ形見分けを行った上、彼らに起請文を提出させ、死後に備えました。「秀家はこのとき秀吉の「御遺物」として「初花の小壺」(初花肩衝(かたつき)。口絵参照)を拝領している(「西笑和尚文案」)。東山御物の一つ初花肩衝は、もとは信長の所持品であった。秀吉はこの名物茶器を所持し、茶会で諸大名に披露することによって、信長の後継者たることを誇示した。秀吉は初花肩衝を譲ることで、秀家に豊臣政権の行く末を託したのかもしれない(大西②)。)」(*18)と、大西氏は述べています。

 

 慶長三(1598)年、八月十八日秀吉死去。これより「五大老」秀家の苦闘の日々が始まります。

 次のエントリーでは、秀吉死後に「五大老」として行った宇喜多秀家の行動について検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

 

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 注

(*1)大西康正 2017年、p22

(*2)大西康正 2017年、p22

(*3)大西康正 2017年、p24

(*4)大西康正 2017年、p29

(*5)大西康正 2017年、p29~30

(*6)大西康正 2017年、p32

(*7)大西康正 2017年、p34

(*8)大西康正 2012年、p65

(*9)大西康正 2017年、p36

(*10)渡邊大門 2011年、p176、181

(*11)大西康正 2017年、p40

(*12)大西康正 2017年、p40

(*13)大西康正 2017年、p40

(*14)大西康正 2017年、p44~45

(*15)大西康正 2017年、p55

(*16)大西康正 2017年、p56

(*17)大西康正 2017年、p60

(*18)大西康正 2017年、p60~61

 

 参考文献

大西泰正『「大老宇喜多秀家とその家臣団 続豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家岩田書院、2012年

大西泰正『シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家』戎光祥出版、2017年

渡邊大門『ミネルヴァ日本評伝選 宇喜多直家・秀家-西国進発の魁とならん-』ミネルヴァ書房、2011年