古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十九 「大老」宇喜多秀家

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※前回のエントリーです。↓

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 前回の続きです。

 

1.「大老宇喜多秀家の求められた役割

 

五大老の官位・年齢(秀吉が死去した慶長三(1598)年当時)・石高を比較してみますと、以下のようになります。

 

徳川家康  従二位内大臣  56歳 武蔵江戸255万石

前田利家  従二位権大納言 60歳 加賀金沢83万石

毛利輝元  従三位中納言 46歳 安芸広島120万5千石

上杉景勝  従三位中納言 43歳 陸奥会津120万石

宇喜多秀家 従三位中納言 27歳 備前岡山57万4千石 

(大西泰正氏は、宇喜多家の石高は、実際には50万石弱だったのではないかと指摘しています。)(*1)

 

 上記を見ても、秀家は五大老の中で唯一、二十代であり、二番目に若い景勝よりも16歳下、石高も一番少ないです。秀吉自筆の遺言では、秀家は五大老の中では最後尾の扱いとなっていますが、これは致し方ありません。

 むしろ、他の四人の大大名の中に、あえて二十代の若輩者であり石高も他の大老に比べて低い秀家を大老として入れた事に、秀吉の秀家に対する並みならぬ期待がうかがえます。

 

 五大老の中における、宇喜多秀家に期待された役割について見てみます。秀家の大老としての役割は、大きく分けて二つあったかと思われます。

 

 一つ目は、浅野家に伝わる秀吉の遺言覚書による宇喜多秀家の役割です。

 

「一つ、備前中納言宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。」

 ※下記のエントリーから、抜粋・引用しています。↓

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 つまり、宇喜多秀家は、五大老の一人として、実際の政治の実務を行う五人の年寄(奉行)(前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家)との調整を行い、政務を万端行ってほしいという意味ですね。

 五大老は政務のうち、公議として大きな政治判断(例えば、唐入りの撤兵や、大名のお家騒動(内乱)の仲裁、大名同士の争いの裁定等)を行う協議に参画し、五奉行は実際の行政を行う。そして、宇喜多秀家は他大老と奉行の間に入って調整を行う、というのが秀吉の想定した秀家の位置づけでしょう。

 

 この役割を、実際秀家が果たせたかというと、秀吉死後、すぐに私婚違約事件が起こって、家康とそれ以外の四大老五奉行との対立が始まり、その後、前田利家の死、七将襲撃事件による石田三成の失脚が起こり、その後は、大老家康一人が大老・奉行の中で絶大な権力を握るようになりますので、実際にそのような役割を果たすのは困難だったといえるでしょう。

 しかし、秀家は、秀吉の遺言を守り、秀頼の守護のために大老の役割を果たそうと尽力し続けました。

 

 二つ目は岳父である大老前田利家の補佐です。前田利家は、秀吉の遺言で、

「一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。」 

とあるように、利家は、秀頼の御守役に付けられたので、大坂城で秀頼を守護するのが主な役割となります。宇喜多秀家は、岳父の前田利家の補佐として、大坂城で共に秀頼を守護するのが役割となります。

 

2.秀吉死後の「大老宇喜多秀家の動き

 

 秀吉死後の宇喜多秀家の動きを以下に見ていきます。

 

慶長三(1598)年

 秀吉の死去の前の「8月9日、伏見城の秀吉は、家康・利家・輝元、そして秀家らを招いて、ここでもさまざまな指図をおこなった。たとえば、自らの死後の国内体制について、東西は家康・輝元、北国は利家、五機内は、「大老」(史料上は「奉行」)五人、という担当を割り振っている。新領知会津福島県会津若松市)に帰国途中の上杉景勝はともかく、秀家個人はこの分担にも与(あずか)れていない(「東西は家・輝両人、北国は前田、五機内は五人の奉行」(『萩藩閥閲録遺漏』)。(*2)

 

 また、8月1日、8月9日に秀家の娘と毛利輝元の長男秀就との縁組が指示されます。秀家に対して、西国大名として毛利輝元の補佐を行い、西国の統治を協力して行うことを期待したものといえます。

 

 前田利家の補佐といい、毛利輝元の補佐といい、結局若き宇喜多秀家は、「五大老」といっても、他の大老の補佐的ポジションとして秀吉は指名していたということです。他の四大老と比べれば秀家は年齢、経験、石高どれも遠く及びませんので、まあ当然の位置づけといえます。

 

 しかし、結局、秀家の娘と毛利輝元の長男秀就との縁組は実現せず、また秀家が輝元と協力して西国の統治にあたった形跡もありません。(というより、毛利輝元自身が西国の統治に目立った動きがないのですが。)

 

 慶長三(1598)年八月十八日、秀吉死去。秀吉死後に、「唐入り」の中止、朝鮮からの撤兵が始まります。

 

慶長四(1599)年 

「慶長四(1599)年正月十日、秀頼は秀吉の遺言に従い、前田利家らに供奉されて

伏見城から大坂城大阪市中央区)に移った。このとき秀家もおそらく大坂に移動し、備前島(大阪市都島区)の邸宅に入ったと考えられる。」(*3)

 

「同月、伏見に残留した徳川家康に伊達・福島・蜂須賀三氏との私婚問題が発生した。正月十九日、家康は例の法度(「御掟」)に背いたとして、他の「大老」・「奉行」の追及をうける。両者が起請文を交わしてこの騒動に一応の決着を見たのは二月五日であった。」(*4)

 大老として秀家もまた、家康を追及します。

 

二月二十九日 伏見の家康邸を前田利家が訪ねます。

 

「三月十八日には秀家が、家康と前田利長が協力して秀頼を補佐するならば(「貴殿(家康)・利長仰せ談ぜられ、秀頼様へ御粗略なき上は」)、自らも秀頼をもり立てるとの起請文を家康に対して作成している(『島津家文書』)。この誓紙によって秀家は、秀吉の死去直前(八月八日~十七日)に権中納言に昇ったばかりの義兄利長を支え、さらに前田・徳川両者の融和をも図る姿勢を明確にしたのである(大西二〇一七)。しかし後世から見れば、利家や秀家の尽力は報われることがなかったといえる。」(*5)

 

三月十一日  家康が大坂の利家邸を訪れて病気を見舞います。

 

閏三月三日 前田利家死去。

閏三月四日、七将襲撃事件(奉行石田三成が、加藤清正ら七将に襲撃される事件)が起こります。

「三成は一時、前田(利長)邸に隣接する(筆者注:石田三成は、病の前田利家を見舞う(利家は亡くなる訳ですが)ため、前田利家邸にいました)秀家邸に身を隠し、次いで佐竹義宣邸へ難を避けたといい、最終的には伏見城内の自邸に逃れている。この事件により、三成は近江佐和山城滋賀県彦根市)に引退し、同月十三日、伏見城に入った家康が「天下殿」(『多門院日記』)と称される事態に至った。」(*6)

 

八月、大老前田利家の息子である利長が大坂から国許(加賀金沢)へ帰り、上杉景勝もまた伏見から国許(陸奥会津)に帰ります。

 

九月七日、徳川家康伏見城を出立して大坂に向かい、空き屋敷となっていた石田三成の屋敷に入ります。九月九日に大坂城で開かれる重陽節句に出席するためでした。ところが、七日の夜、奉行増田長盛が、前田利長を首謀者とする、大野治長浅野長政(嫡男幸長の正室は前田利家娘)、土方雄久(利長の従兄弟)と謀り、大坂城内で家康が暗殺しようとしているという計画があることを告げます。(*7)

 

 家康は、伏見から兵を集め、九月九日、供の数を倍にして登城しました。そのためか、暗殺計画は実行されず、家康は無事に賀儀を無事に終えることができたのでした。(*8)

 

 これより前に、家康が「太閤様御置目」を根拠に、「堅」く秀家の大坂から伏見への異動を要求していました。これに対して、宇喜多秀家は「〔なくなられた〕大(太)閤には、肥前守(筆者注:前田利長)と私の二人で共に秀頼〔公〕を戴き、大坂を守れ、と遺言されました。そのお声がまだ耳に残っています。どうしても命令は聞けませぬ」(『看羊録』)(*9)と言って抵抗しましたが、結局、九月十一日から十三日の間に、やむを得ず秀家は伏見へ異動することになりました。(*10)

 

 東国衆は在大坂、西国衆は在伏見と、確かに「太閤様御置目」に定められていましたが、東国衆である家康は、秀吉の遺言により、伏見に在住することになっていました。また、秀家の言によると、秀家もまた秀吉の遺言により、大坂在住が定められています。

 この「置目」が、秀吉の遺言を受けている「五大老」にも当てはまるかは、かなり疑問です。

 また、前に「御掟」違反である私婚違約事件を起こし、この後に家康は秀吉の伏見在住の遺言を破って、大坂城に居座ることになりますので、そもそも家康に秀吉の遺言・掟・置目など守る気などないのでは明らかであり、秀家に伏見からの異動を要求したのは、単純に家康にとって大坂にいる秀家の存在が邪魔であり、難癖をつけて、無理矢理大坂から伏見に追い出したいからだ、とみるべきでしょう。

 

 また、当時、毛利輝元毛利秀元に宛てた書状に、秀家が大坂にいて、伏見にいないことに不満を漏らす内容の書状があり(「長府毛利家文書」)(*11)この時期の輝元は、秀家が大坂にいることに不満だったことが、興味深いです。

 

 秀家は、前述したように前田利家の実娘豪姫の婿であり、秀家が伏見への異動を余儀なくされたのも、この前田利長による家康暗殺計画事件の余波による圧力とみえないこともなくはありません。

 

 九月十二日、家康は三成の兄正澄の屋敷に移ります。(『関ヶ原合戦公式読本』では、正澄も三成と共に蟄居させれていたように書いていますが(*12)、水野伍貴氏の「石田正澄と三成」を読む限りでは、正澄は蟄居しておらず、秀頼に伺候できる衆の一人として大坂にいたようです。)屋敷を家康に提供した後、正澄は堺に移りました。(*13)

 

「このあと家康は、この石田邸で執政を執ることにした。しかし、それから二週間後の九月二十六日、秀吉の正室であった北政所大坂城の西の丸から京都に移ることになり、代わって家康が西の丸に入ることになる。形としては、北政所が西の丸の明け渡しを提案したことになっているが、実際には、家康が北政所に退去を要請した可能性が高い。

翌九月二十七日、家康は大坂城の西の丸に入った。こののち、家康は西の丸にも天守を建てるなど、秀頼と並び立つ存在であることを誇示するようになる。」(*14)と小和田泰経氏は述べています。

 

 北政所は浅野家の養女であり、浅野長政北政所の義姉妹の婿養子、秀吉とは相婿です。親戚筋である浅野長政が、家康暗殺計画事件の容疑者となることで、北政所の立場は苦しくなり、この事が、北政所大坂城から退去する大きな要因となった事が考えられます。

 

 宇喜多秀家は、北政所の養女豪姫の婿であり、互いが互いの後盾でした。宇喜多秀家が伏見に強制的に伏見に異動される事によって、北政所の立場は弱まり、北政所が大坂から京都へ退去することにより、宇喜多秀家の立場は更に弱まることになります。

 

 その後、十月二日に浅野長政甲斐府中→武蔵府中に蟄居)、大野治長(下総結城に流罪)、土方雄久(常陸水戸へ流罪)の処分を下し、翌十月三日、前田利長追討の意思を固めます。疑いは、前田利長の縁戚にあたる細川家にも及び、細川忠興は、三男の忠利を江戸に人質に送ります。

 こうした中、利長も重臣の横山長知を大坂の家康の元に派遣して弁明に努めますが、実母の芳春院を江戸に人質として差し出すことで、赦免されることになります。(*15)

 

 こうした中、慶長四(1599)年末、宇喜多家では御家騒動といえる「宇喜多騒動」が発生します。この騒動により、宇喜多軍は弱体化し、西軍主力軍のひとつである宇喜多軍の弱体化は、関ヶ原の戦いの敗因のひとつとなります。

 

 次回のエントリーでは、宇喜多騒動について検討する前に、宇喜多騒動の原因となったと考えられる(太閤)検地について検討します。。

 

  注

(*1)大西康正 2017年、p30

(*2)大西康正 2017年、p62

(*3)大西康正 2017年、p64~65

(*4)大西康正 2017年、p65

(*5)大西康正 2017年、p65~66

(*6)大西康正 2017年、p66

(*7)小和田泰経 2014年、p28

(*8)小和田泰経 2014年、p29

(*9)姜沆 2008年、p173~174

(*10)大西泰正 2010年、p122~123

(*11)渡邊大門 2011年、p255

(*12)小和田泰経 2014年、p29

(*13)水野伍貴 2011年、p96~97

(*14)小和田泰経 2014年、p29

(*15)小和田泰経 2014年、p30~31

 

参考文献

・大西泰正『豊臣期の宇喜多家と宇喜多秀家岩田書院、2010年

・大西泰正『シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家』戎光祥出版、2017年

・小和田泰経著、小和田哲男監修『関ヶ原公式合戦本』Gakken、2014年

・姜沆著、朴鐘鳴訳注『ワイド版東洋文庫440 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』平凡社、2008年

・水野伍貴「石田正継と石田三成」(『歴史読本 2011年12月号』新人物往来社、2011年所収)

・渡邊大門『ミネルヴァ日本評伝選 宇喜多直家・秀家-西国進発の魁とならん-』ミネルヴァ書房、2011年