古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について⑥-泗川の戦い、五万石の加増

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※ 前回のエントリーの続きです。↓

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 慶長三(1598)年十月一日、島津軍は泗川新城の戦で明軍を打ち破り、討ちとった数三万八千七百十七人という大勝利を得ます。(*1)

 十月八日、五大老から派遣された日本からの使者徳永寿昌、宮木豊盛が泗川新城に到着、諸将に和議を結んで撤兵することを伝えます。これは慶長三(1598)年、八月十八日に豊臣秀吉が死去したことを受けてのものでしたが、この事実はしばらくの間諸将には伏せられました。

 島津義弘・忠恒親子も日本へ退却します。十一月十七日、露梁津(ノリヤンジン)の海戦で明・朝鮮水軍と激闘がありました。このとき戦いで朝鮮水軍の名将李舜臣が銃弾を受けて戦死します。

 この後、南海島にとりのこされた島津の500の兵を救出し、十二月十七日筑前博多港に帰陣します。日本軍の撤退支援のために博多に派遣されていた、毛利秀元浅野長政石田三成の三名は、朝鮮における数年の軍労を称えます。翌日、石田三成は、筑前名島の陣屋において義弘に秀吉の死を告げました。(*2)

 翌年正月九日、「五名の「大老」が連署し、島津忠恒(又八郎)に少将への任官と領地加増が行われる。ついで同日付で三成ら奉行衆五名が連署し、具体的な加増地を示した打渡状を発する。一連の措置は朝鮮半島泗川(サチョン)の戦に対する論功行賞であり、加増される領知は五万石にも及ぶ。加増地には、文録四年(一五九五)の検地で薩摩・大隅に設定された秀吉の蔵入地や石田三成細川幽斎領、さらには薩摩出水(いずみ)郡の唐津寺沢家領(約二万石)と対馬の宗家領(約一万石)が充てられた。この代替地として唐津寺沢家には筑前怡土(いと)郡の西部が、対馬宗家には肥前の基肆(きい)・養父(やぶ)郡が与えられた。別の言い方をすれば、このことによって、秀吉政権が島津領に対してとった、蔵入り地を「くさび」のようなかたちで討ちこむという領知構造は、大きく清算されたことにな」(*3)ります。

 この島津氏への5万石加増について、中野等氏は「ところで、島津氏は五万石加増からほどなく「政権中枢」から「知行割付之事」として領知再編の具体的な指示をうけている。現状ではこの具体的な指示者が石田三成に擬せられるので、五万石加増の実質的推進者も三成と考えて大過なかろう。結果論的ないい方になるが、この五万石加増とそれを踏まえた領知再編は豊臣政権、より具体的には石田三成らによる最後の政治干渉に位置付けられるものである。」(*4)としています。

 

(平成30年11月18日 追記)

 桐野作人氏が、島津氏への5万石加増について、「この加増の決定には徳川家康の意向が働いたかは諸説ある。ここはやはり、三成が太閤遺命(秀頼が十五歳になるまで知行の沙汰はしない)を盾に反対したのを、家康が「前代未聞の軍忠」だとして押し切ったという、島津側の「御当家御厚恩記」の記事が興味深い。家康関与説が妥当かもしれない。(西本誠司・一九九七)。」(桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研M文庫、2013年、p32)

としていますが、前述したようにこの加増は五大老連署によるものですし、同日五奉行連署による打渡状を発したものですので、誰の突出した意向というものではなく、五大老五奉行の統一した意向といえます。誰もが認める大勝利であり、例外的に加増を認めなければいけない程の大軍功であったということです。 

 石田三成は、豊臣公議の取次であり、取次先大名の権力が高まれば高まる程、豊臣公議内としての権力・発言力が高まることになります。このため、むしろ島津家に加増させることによって島津家に恩を売り、島津家の権力を高まらせる方が、取次・三成としては好都合でした。

 ただし、秀吉死後間もないこの時点で、ここで誰か突出したスタンドプレーをして、加増を押し切って島津家に私恩を売りつけようとする振る舞いは厳に戒められます。三成から取次先である島津家の加増をゴリ押ししようというのは、いかにも身贔屓の振る舞いになってしまいますので、三成がこの加増の案件で突出した振る舞いをした(できた)とも考えられません。

 いずれにしても、五大老五奉行の全ての同意は当然必要となります。しかし、実際に加増地の割り振りの具体的な実務を取り仕切ったのは石田三成です。ここから見ても、三成が加増に反対していたというのは、ちょっと考えられないことです。同じく、この時期の家康が他の四大老五奉行の反対する中、スタンドプレーで加増を押し切ろうとしたならば、それはいち早く私婚違約事件のような騒動になっていたと考えられ、そのような騒動は実際には起こっていない事から、家康が反対のある中、加増を押し切ったというのも考えられないことです。

 上記の「御当家御厚恩記」とは、リンク先(鹿児島県HP)(鹿児島県/御厚恩記(草案))の「御厚恩記」のことだと思われます。リンク先の記事によると、

寛永18(1641)年10月,島津家の系図や文書を幕府に提出せよという幕府の指示に対して,島津氏が提出した「御厚恩記」の草案である。島津氏一族の日置島津家の久慶(18代家久,19代光久の家老)が,徳川家の御恩を17ヶ条にわたって列挙したものである。

 この文書は,幕藩体制確立当時の徳川氏と島津氏の関係を示すとともに,幕政執行の一側面が窺える重要な資料である。」ということです。このような書物であれば、家康に逆らった三成を悪く書いて、家康からの「御厚恩」を強調するのは、(それが嘘であっても)ある意味当然の記述といえます。

 当時の島津家としては、「自分達(島津家)は家康公に御恩があり、関ヶ原も当然東軍につこうと考えたのだが、伏見城の鳥井元忠に入城を断られて、周りは皆西軍なのでやむをえず嫌々西軍についたのであり、家康公に叛意は全くなかった」という言い訳で押し通していますので、当然、書物の記述も、その言い訳ストーリーに合わせたものになる訳です。(追記おわり)

 

 一方、石田三成らの留守中に、徳川家康は大名家への訪問を始めます。具体的には、十月十四日に池田知正、二十四日に京極高次、十一月二三日に織田信包、二五日に増田長盛、二六日に長宗我部(盛親?)、十二月五日に島津義久、九日に細川幽斎、十日に本願寺隠居(教如?)、十七日に有馬則頼を訪ねます。(*5)

 十二月二四日に島津忠恒らを伴って石田三成は大坂に到着しました。(*6)、この間、義久が家康の訪問を受け、また家康の私宅を訪問したことについて、三成は咎めたため(家康が徒党を組み、多数派工作を仕掛けたとみなしたため)、義久は別心のないことを記した誓詞を義弘・忠恒に与えます。(*7)

 

 この時期の石田三成の行動を見ると、五大老五奉行制の枠組みを維持しようとする動きをしていた事がわかります。この時期から、家康が五大老五奉行制を破壊し家康独裁体制を目指していたのかについて、家康の内心をうかがうことは(当時の諸大名も含め、他人の内心を察知することはできませんので)不可能なため分かりませんが、この時期の家康の行動を見れば、「三成の視点からは」それが危惧される状況であったため、三成は牽制したということになります。

 この頃の三成の行動を「反家康的行動」と呼ぶかは、立場によって違いますので何とも言えません。しかし、この時期から実際に家康が自らの独裁あるいは豊臣家乗っ取りの野心を持っていたとするならば、その場合は「家康(派)の視点からすれば」、三成の行動はその家康の野心を妨げようとする「反家康的行動」ととらえられたということになります。 

 以前に以下のエントリーを挙げ、石田三成は家康を敵視していたわけではないことを示しましたが、この時期の三成の目的は、秀吉の遺言どおり「五大老五奉行制(集団統治体制)の枠組みの維持」にあり、これが守られる限りにおいては家康を敵視する理由はありませんでした。

 ※ 参考エントリー↓

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 この時期の三成の行動は「五大老五奉行制の枠組みの維持」が目的であり(この体制の維持のためには調整・妥協もありうる)、「家康の打倒」が目的であった訳ではなかったことに注意が必要です。

 

 次回は、庄内の乱について、検討します。

※ 次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)山本博文 2001年、p211

(*2)山本博文 2001年、p214~222

(*3)中野等  2017年、p393

(*4)中野等  1996年、p408

(*5)相田文三 2011年、p115~116

(*6)中野等 2011年、p306

(*7)藤井治左衛門 1979年、p69~70

 

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等『豊臣政権の対外侵略と太閤検地校倉書房、1996年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1979年

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

相田文三徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」、中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年