古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!?

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※前回のエントリーです。↓

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 豊臣秀吉の死後、豊臣傘下の大名は大きく分けて3つの派閥に分かれることになります。

 この3つの派閥が一時的には協力し合い、また一時的には反発し合う複雑な過程をたどり、関ヶ原の戦いに至ります。また、この派閥からの離脱・鞍替えも起こっており、最終的には寝返り・不戦が西軍の派閥から発生し、東軍の勝利・西軍の敗北に終わることになります。

 

1.秀吉死後の「3派閥」とは何か?

 

 秀吉死後にあった「3派閥」とは、つぎの3つを指します。

A.徳川派(東軍)

B.奉行派(西軍)

C.北政所派(リーダーは前田利家宇喜多秀家)(西軍)

 

 以下、順にみていきましょう。(主な大名ですので、すいません。)

 

2.A.「徳川派」とは?

 まず、徳川派です。これが当然関ヶ原の戦いにおける東軍の中核となります。

 

A.徳川派(東軍)

① 徳川家康・徳川一族・譜代大名

② (秀吉の生前からの)徳川縁戚:池田輝政・蒲生氏行・真田信幸・石田三成(※)(→西軍)

③ (秀吉の死後の)徳川縁戚:伊達政宗福島正則蜂須賀家政(私婚違約事件の

 当事者)、黒田長政加藤清正北政所(前田)派→東軍)

④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎浅野幸長北政所派→東軍)

⑤ 徳川支持派:(加増を受けた者):森忠政・細川忠興北政所(前田)派→

 東軍)

 

  下線を引いた大名は、途中で派閥が変わった大名です。

 

※後述しますが、石田三成は、徳川派であり、奉行衆派であり、北政所派です。

 

 以下、順に見ていきます。

 

① 徳川家康・徳川一族・譜代大名

 徳川家康とその一族、譜代大名です。(数が多いので名前は割愛します。)関ヶ原の戦いで、徳川一族・譜代大名から東軍からの裏切り・離脱は発生していません。そんなの当たり前ではないかと思う方もいるかもしれませんが、対する豊臣一門・譜代大名、毛利一族大名内のグダグダっぷりの結果を見てしまえば、これは西軍厳しいな、としか言いようがありません。

 

② (秀吉の生前からの)徳川縁戚

 秀吉死後の私婚違約事件がクローズアップを受けていますが、秀吉生前にも家康と大名の縁組はありました。(もちろん、秀吉の許可を受けてのことです。)

主な大名は以下の通りです。

 ・池田輝政(正室は家康の次女・督姫)

 ・蒲生秀行(正室は家康の三女・振姫)

 ・真田信幸(正室は家康の養女(本多忠勝の実娘)小松姫

 

 そして、実は石田三成も、秀吉の生前から、徳川家の縁戚(少し縁が遠いのですが)となっているのです。

 

3.石田三成は、しばらくの間、徳川派だった!?

 

(以下の、三成と家康との縁戚関係については、白川亨氏の『石田三成とその子孫』、『真説 石田三成の生涯』を参照しています。)

 

 三成と家康が縁戚になったのは偶然の可能性が高いです。

 三成の長女は、山田隼人正勝重に嫁ぎます。山田勝重は、石田正継(三成の父)の家臣山田上野介の息子です。

 この山田勝重は家康の側室の茶阿局の甥であり、家康と茶阿局の間に生まれた子忠輝の従兄弟になります。白川亨氏は茶阿局が家康の側室となったのは、天正十九(1591)年頃ではないかと指摘しています。三成長女が山田勝重に嫁したのは、文禄元~二年(1592~3)年頃と考えられるとのことです。 茶阿局が辰千代(後の忠輝)を生んだのは天正二十(1592)年一月四日とされます。

 これにより、三成と家康は縁戚の関係となります。

 三成は、この縁戚関係を少なくとも秀吉の死後の私婚違約事件の頃には知っていたことが考えられます。(*1)

 

 また、秀吉の生前、秀吉は三成と家康が「公的に」仲が深まらないように阻んだふしがうかがえます。これは、豊臣傘下最大の大名である家康と、既に上杉・佐竹・毛利・島津等といった大大名の取次を任せている(毛利の取次は慶長年間以降ですが)三成が結び付けば、三成の権力が肥大化しすぎると秀吉が判断したためでしょう。秀吉は、三成や家康も含め、本質的に誰のことも信用していません。

 

 これは以下をご覧ください。↓

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 しかし、一方で秀吉の生前から、三成と家康との交流がうかがえる史料もまたあるのです。

 石田三成は真田家の取次であり、また縁戚でもありました。

 そして、石田三成と真田信幸とは特に親交があり、また、石田三成の真田信幸宛書状から石田三成-真田信幸-本多忠勝徳川家康という連絡ルートがあったことがうかがえるのです。(こんなまわりくどい連絡ルートを構築しなければいけないことが、秀吉から三成が徳川家との「公的な」交流を阻まれており、直接のチャンネルを持っていなかったことが分かります。)

詳細については、以下をご覧ください。↓ 

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 上記のエントリーを書いた時点では、三成と家康がこの連絡ルートを使って何を相談していたのか不明でした。

 しかし、石田三成徳川家康双方の行動を見ていくと、これは、おそらく「蒲生騒動」の対処の相談をしていたのではないかと推測されます。秀吉の生前において、三成と家康が相談して共同で問題を対処しようとしていたケースが他に見当たらないからです。 

「蒲生騒動」とは何か?「蒲生騒動」は複数回ありますが、ここでは、慶長三(1597)年に、会津の大名蒲生秀行の寵臣で仕置奉行の亘利(綿利)八右衛門を蒲生四郎兵衛が斬った事件があり、それに反発した蒲生左門が蒲生源左衛門等とともに、秀吉に訴えて蒲生四郎兵衛を追放する事件に端を発する蒲生家のお家騒動の事を指します。 

 石田三成は、蒲生秀行の岳父である徳川家康と相談・協力の上、なんとかこの騒動が大事にならないように事態の収拾を図ろうとします。しかし、秀吉は、慶長三(1597)年一月に秀行の家中取締不始末を理由として、会津九十二万石を没収して、宇都宮十八万石へ減転封させました。 

 この秀吉の判断には、会津のような枢要の地を、若年であり家中もまとめられない秀行に任せる訳にはいかない、という秀吉なりの考えがあったと思われます。 

 三成は、自ら会津に向かい、この転封処理の差配を行います。また、減転封で家臣の多くをリストラせざるを得なくなった蒲生家家臣の一部を自身の家臣に引き取り、上杉家他への仕官の斡旋も行います。三成家臣となった蒲生郷舎をはじめとする彼ら蒲生家旧臣は、関ヶ原の戦いで三成のために奮戦しました。 

 この時の三成の処置に感謝した秀行は、関ヶ原の戦い後に、三成次女の婿岡重政を家臣として招き、重用することになります。(元々岡重政は蒲生家の旧臣で、この減転封の際に上杉家へ仕官し、関ヶ原の戦いの後に蒲生家に戻る形になります。)

 こちらの詳細については、以下をご覧ください。↓

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 このように、三成と家康は、秀吉の生前から既に縁戚関係にあり、また徳川・石田双方の縁戚である真田家を通じて、蒲生騒動等の問題を相談する仲であったといえます。

 

4.私婚違約事件時の三成の動き

 

 慶長三(1598)年八月十八日の秀吉の死後、いわゆる私婚違約事件が発生します。

 私婚違約事件とは、徳川家と伊達家・福島家・蜂須賀家との婚儀を、家康が「御掟」に背いて、他の九人の衆にはかることなく勝手に進めた事件を指します。

 そのうちで、徳川家の伊達家の縁組とは、家康の六男・忠輝と伊達政宗の娘(五郎八(いろは)姫)の縁組を指します。 

 この3つの縁組を巡って、徳川家康と、四大老五奉行が対立します。

 従来の説やドラマでは、三成がこの私婚違約事件における家康糾弾の急先鋒のように描写されることが多いのですが、実際には石田三成は、この私婚違約事件糾弾の急先鋒でもなんでもありません。

 問題となっている「縁辺の儀」について、特に徳川・伊達家の婚姻が認められると、忠輝の血縁を通じて、徳川家・伊達家・石田家の三家が縁戚として結ばれることになり、これは石田家にとっても悪いことではまったくないのです。 

 しかし、奉行衆の立場上、「御掟」の違反は咎めなくてはいけません。他の四大老・四奉行も掟違反を糾弾しているのですから、なおのことです。

 

 さて、その禁じられている「御掟」とは何でしょう。以下引用・抜粋します。

 

 「一、諸大名縁辺の儀、御意を得、その上をもって申し定むべき事、」(*2)

 

 これは文禄四(1595)年八月三日付文書で小早川隆景毛利輝元前田利家宇喜多秀家徳川家康連署による掟書です。(これに「御掟追加」には連署している上杉景勝を加えた六名が、「五大老」の原型とされます。(小早川隆景は秀吉の生前に死去しています。))

 

 上記の「御掟」ですが、諸大名同士の婚儀を「禁止」するものではありません。

 事前に御意(秀吉の許可)を得よ、と言っているだけです。(逆に言うと「御意」なしには認められません。)これは当時の婚姻とは、すなわち大名同士の「(かなり強固な)同盟」だからです。勝手に諸大名家が婚姻しあえば、大名同士の派閥争いになることが目に見え、内乱の原因になることが明らかです。このため、勝手に諸大名が婚姻を結ぶことは認めず、御意(秀吉)を得なければいけないと、したわけです。

 

 秀吉の死後、この「御意」を与えるのは誰でしょうか?秀吉の子、秀頼ということになりますが、秀頼はまだ幼く成人するまで政治は行えません。このため、秀頼に代わって十人の衆(五大老五奉行)が「御意」を代行することになる訳です。

 十人の衆ならば、勝手に婚姻して良いという訳ではありません。そもそも五大老はいずれも大大名なのですから、めいめい勝手に婚姻政策を進めることができてしまうならば、あっという間に日本に複数の派閥が乱立し、それこそ内乱の原因になってしまいます。

 それではこの「御掟」の趣旨がまったく果たせないことになります。

 

 しかし、「御意」を得れば、縁辺は認められるのです。つまり、十人の衆が協議の上、この縁辺の儀を「諾」とすれば、この縁辺は認められることになります。

 今回の問題は、家康が他の九人の衆に事前に協議することなく、勝手に独自に縁談を進めようとしたことでした。他の九人の衆として、これを看過する訳にはいきません。

 ここで咎めなければ、家康が他の九人の衆を無視して、たとえ「御掟」を破ろうが勝手に行動することができることを認めることになります。秀吉が亡くなって、すぐに一大老が独断で暴走しようとする。これでは、豊臣公議は崩壊してしまいます。

 

 九人の衆としては、危機感をもってこの問題に対処しているのです。

 

 一方で、こうした問題が発生した以上、なんとか事態の収拾は図られないといけません。家康としても、この縁談を持ち出した以上、認められなければ引っ込みがつかないでしょう。双方が衝突していて一切引くことがないならば、最終的には家康が怒って豊臣公議から離脱し、豊臣公議に反逆しかねません。この時期においては、奉行衆としてもなんとか豊臣公議の分裂を阻止したいのが本心です。落としどころが必要なのです。

 

 この時期、三成が考えていたのは、家康のフライングはフライングとして、改めてこの件について五大老五奉行が協議して、この縁辺の儀を許可する方向で話をまとめることができないかということでしょう。それが以下の行動でわかります。

 

慶長四(1599)年二月九日、石田三成は大坂屋敷で茶会を開きます。その時の茶会の客は、宇喜多秀家伊達政宗小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、途中から三成の兄・正澄も参加し、和気藹々の雰囲気で話が弾み、皆夜遅く帰っています。(*3)このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出したということです。

 

 この件については、以下でも書きました。↓ 

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 上記の中に五大老の一人、宇喜多秀家と、私婚違約事件の当事者伊達政宗が入っていることが重要です。上記の茶会で、この縁辺の儀が改めて四大老五奉行によって許可されるように出来ないかと三成が動いていたのではないかという事が推測されます。

 

『当代記』に、この時期に石田三成徳川家康の暗殺をはかろうとしていたという物言(噂話)があったという記述がありますが、上記の経緯を見れば誤りであることが明らかです。『当代記』は、寛永年間(1624~1644)頃に成立したとされる史書で、編纂者は姫路藩主の松平忠明徳川家康の外孫)とされますが、複数の手が加わっているようで、不詳とのことです。

 

 いずれにしても、『当代記』が執筆されたのは、関ヶ原の戦いから20~40年以上経った寛永年間の作であり、執筆者にとっては、三成が「関ヶ原の戦いの西軍首謀者」として、家康に刃向かったというストーリーは自明なことだったのです。(その(誤りである)ストーリーを作ったのは徳川サイドなのですが、この時期になると自分達が作ったストーリーを自分達自身が信じ込むという状態になっています。)

 

 さて、『当代記』の該当する具体的な記述を見ていきます。

 

慶長四己亥正月自中旬、於伏見各有物言、是亡家康公を度との企、専石田治部少輔執行①折節内府公衆歴々自関東上伏見②叉大谷刑部少内府公□荷擔之間、彼組之衆多以同之③然而二月無爲内府家康公與羽柴筑前北國主和平④、」(下線、番号は筆者)(*4)

 

以下意訳・解説します。

 

① 慶長四年の正月中旬、伏見で物言(噂話)があり、それは石田三成が家康を暗殺するという企みの噂だった。

 上記で述べた通り、この時期は、石田三成は両派(徳川家康派VS前田利家(を中心とする家康糾弾派)の間に立って、事態の収拾を図ろうとしていた、と考えた方がよいです。

 しかし、関ヶ原合戦以後20~40年以上経った頃に『当代記』を書いた、徳川時代の執筆者にとっては、「石田三成が家康打倒派の首謀者である」というストーリーが自明でしたので、この時期に(反家康派による)家康暗殺計画なる噂があるならば、それは三成が首謀者に決まっている、と執筆者自身が勘違いしている訳です。

 

② 折節、家康公の衆(配下の将兵)が続々と関東から伏見へ上った。

 これは因果関係が間違っています。(いや、江戸時代には「折節」に別の意味があるのかもしれませんが。)徳川サイドは、この私婚違約事件での対立をよい機会ととらえ、おそらく自ら「家康打倒派による家康暗殺計画」という噂を流すことによって、そのような風聞があるのならば、家康を防護しないといけないという口実の元に、関東にいる家康配下の将兵を伏見に上がらせたのです。この口実により堂々と家康は兵を伏見に集め、自らの軍事力を誇示することができると考えたのでしょう。(といっても、「護衛」のためですから、大軍ではないでしょうが。) 

 つまり、「家康打倒派による家康暗殺計画」という物言(噂)は、徳川サイドが将兵を伏見に集めるために、自ら流した自作自演の狂言である可能性が高いです。が、これは当時においては分からないことです。(現在においても確定できませんが。)

 また、実際には「四大老五奉行」の問責使が家康の元へ向かったのは正月十九日で、その翌日の二十日には、早くも和解の風聞が流れて(『言経卿記』)いますので、この関東の将兵が伏見に到着する前に、すでに両者は和解に向けて動いています。

 

 ③ 大谷吉継と彼の組衆が与同し、家康に荷担(家康の屋敷を護衛したということでしょう)した。

 また、『校舎雑記』には、真田昌幸・信幸・信繁、石川光元・一宗らが徳川屋敷の護衛に駆けつけたことが伝えられています。(*5)

 つまり、上記の「彼組之衆多」とは、大谷吉継の縁戚である真田・石川一族であるということです。真田家が徳川家の縁戚でもあることを考えるならば、特にこれは不思議なことではありません。

 

 以前にも書きましたが、真田・石川いずれも石田家の縁戚であり、大谷吉継も真田・石川家の縁戚であり、この縁をもって石田・大谷家も二重の縁戚関係となっています。そして、石田・大谷・真田・石川の一族は婚姻関係より、ひとつの拡大ファミリーを形成しています。

 詳細については下記をご覧ください。↓

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 大河ドラマ真田丸』では、上記の『当代記』『校舎雑記』の記述等を元に「石田三成が本当に暗殺計画を立てて、兵を集めるも、盟友の(『真田丸』では石田・真田・大谷・石川の縁戚関係はほとんど一切書かれていません。吉継娘と信繁の婚姻のみは描かれていますが。)大谷吉継や真田一族にすら家康についてしまい、三成はほとんどの人から見捨てられる」という、滅茶苦茶な出鱈目ストーリーを書いていましたが、これは完全な間違いです。

 

 上記で書いたとおり、この時期の石田三成は両派の間に入って事態の収拾に動いているとみられます。しかし、五奉行の一人として「御掟」の違反は咎めなければいけませんので、彼自身が表立って徳川の擁護に回る訳にはいきません。(それでは両派の「調整役」はできません。) 

 このため、自身は四大老五奉行の一員として「御掟」違背の弾劾をする立場に立ちつつ、自らの縁戚である大谷・真田・石川一族は家康の屋敷の警護に向かってもらうことで、自分には家康に対しての敵意はないことを示しているのです。

 また、噂話が本当で家康が襲撃されるようなことがあっては一大事です。(暗殺されても、未遂であっても、戦争となり天下大乱になることは必定です。)このためにも、大谷吉継らに護衛を依頼する必要があったのです。

 

④ 無為に時は過ぎて、二月に徳川家康前田利家の和平が結ばれた。

 上記の記述で、家康糾弾派の中心人物が前田利家であり、江戸時代の認識でもそうだったことが明らかにされています。

 

 この和平、徳川派と徳川糾弾派のどちらが有利になったかという話ですが、特に一次史料では内容がよく分かっていません。

 後に七将襲撃事件が起こったことを考えると、この和平は決して、徳川派に有利なものではなく、徳川派が譲歩したもの(つまり、この縁辺は一旦白紙に戻して、協議を一からやり直す)だったのではないかと思われます。(七将襲撃事件には、この縁辺問題の(強制的)解決という側面もあったと考えられます。)

 この一応の和平後、石田三成は改めて協議を図ろうとしたとみられます(それが二月九日の茶会な訳ですが)が、整わないうちに、大老前田利家の病が重くなり死去、その直後に七将襲撃事件が起こります。

 

 以下、私婚違約事件を時系列的に示します。(堀越祐一『豊臣政権の権力構造』、白川亨『真説 石田三成の生涯』、藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』を参考としました。)

 

慶長四(1599)年

初頭 徳川家と福島・伊達・蜂須賀家が勝手に婚姻を進めようとした事実が発覚。

正月十九日 これを咎める「四大老五奉行」の問責使が家康の元へ向かう。

正月二十日 早くも和解の風聞が流れる。(『言経卿記』)

二月五日  双方が起請文を提出して一応の和解が成立。(『武家事記』)

二月九日  石田三成、大坂屋敷で宇喜多秀家伊達政宗小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、石田正澄(三成の兄、途中から)と茶会を開く。(『宗湛日記』)

二月二十九日 伏見の家康邸を前田利家が訪ねる。

三月十一日  家康が大坂の利家邸を訪れて病気を見舞う。

閏三月三日 前田利家死去

閏三月四日 七将襲撃事件

 

(*「この時系列を見ると、正月中は、石田三成徳川家康の暗殺計画に動いていたが諦めて、二月五日の一応の和解以降は、縁談が許可されるように動いていた、という可能性もありうるのではないか」という意見をされる方は、いないと思いますが念のため。

 正月には家康の暗殺を企てた人間が、二月にはころっと変わって縁談が許可されるように動くような、そういった支離滅裂な判断・行動を人間はしません。(秀吉の生前から石田家と徳川家は縁戚であり、三成と家康の交流もあったことは既述しました。)

 人間は基本的には一貫とした考えと行動を取り、(あくまで本人の主観にとってはですが)合理的な判断・行動をするものです。

 そうでなければ歴史上の人物の考察・分析など不可能です。

(信用性の低い二次史料も混ぜて)史料のみを追っていき、考察・分析をせずに、機械的に繋ぎわせると、支離滅裂な人間を創作してしまう危険性がありますので、注意する必要があります。)

 

 次回は七将襲撃事件について検討する前に、七将襲撃事件の原因となった二大要因である「私婚違約事件」及び「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処分事件」のうち、「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処分事件」が、結局どのような始末となったのか、改めて検討します。

 

 注

(*1)白川亨 2009年、p124

(*2)矢部健太郎 2014年、p100~101

(*3)白川亨 2009年、p120、元史料は『宗湛日記』

(*4)「当代記」 p71、コマ番号は42

(*5)黒田基樹 2016年、p40

 

 参考文献

黒田基樹『シリーズ 実像に迫る001 真田信繁』戎光祥出版、2016年

国書刊行会編、国立国会図書館デジタルコレクション「当代記」『史籍雑纂. 第二』 国書刊行会国書刊行会刊行書〉、1912年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/7

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

矢部健太郎『敗者の日本史12 関ヶ原合戦石田三成吉川弘文館、2014年