石田三成、徳川家康に秀吉の死去を知らせる。(『戸田左門覚書』について)
☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
徳川家康家臣、戸田氏鉄の覚書である『戸田左門覚書』に、慶長三(1598)年八月十九日(豊臣秀吉死去の翌日)に石田三成が家臣を通じて秀吉の死去を徳川家康に知らせたことが書いてあります。以下引用します。
「内府公、太閤為伺御機嫌、御登城の処、石田治部少方ゟ(ヨリ)使者八十島を以て、太閤御他界の事告申。御登城可被差止の旨なり。依之路次より御帰宅、内府公思召すは、治部少日来さして御入魂もなきに、今度の事申越懇志との被仰、浅野弾正ハ年比無二の御懇意にて有処不申越、常々の思召と相違にて候と、御遺恨なり(後略)」(*1)
その後の『戸田左門覚書』の文章ですが、十日程たって浅野長政が家康の態度が疎遠になったことを不審に思っているところ、家康の内意を聞いた本多正信が、浅野長政の宿所に向かい事情をつぶさに述べます。浅野長政は、「太閤殿下の死去を(秘密として)知らせてはいけないとする起請文を書いた以上、家康公にもお知らせできなかった。石田三成も同じ誓詞を書いているにも関わらずこれはどうしたことか」と述べ、正信が家康に、長政が述べた委細を申し上げたところ、家康の誤解も解け、正信より長政に使者を遣わしたので、長政は家康の元へ罷り越し対面しました。家康は長政に毛頭隔心のないことを伝え、これを聞いた長政は畏まって落涙した、という内容になっています。
この「覚書」なのですが、戸田氏鉄視点の記憶では、特に嘘を書いているつもりはないのでしょうけど、当時の記憶を思い出して後年書かれた「覚書」だけあって、なんとも「平和ボケ」した「覚書」となっています。
秀吉死去後の遺言体制である秀吉死去後の五大老・五奉行体制は、秀吉の死とともにすぐに発足する必要がありました。これは、当時豊臣政権は朝鮮へ出兵中であり、秀吉が死去した場合は、諸将を朝鮮から撤兵させることは既に内定事項となっていましたが、朝鮮在陣の諸将をいかに無事に撤兵させるのが緊急の課題となっていたためです。
浅野長政は『戸田左門覚書』において、起請文で秀吉の死を秘密にせよという起請文を書いたとしており、実際に朝鮮在陣諸将の撤退が無事終了するまで、秀吉の死は「秘密(秀吉はまだ生きている)」とされていましたが、その「秘密にして漏らすべきでない」人物の中に、秀吉死後の豊臣体制を運営していく五大老・五奉行が入っているとは常識的に考えられません。徳川家康も五大老の筆頭メンバーであり、家康に秀吉の死去を知らせないで、いかにして五大老・五奉行で朝鮮撤兵を協議していくのか全く不明になります。このため、石田三成は五大老の筆頭である徳川家康に、秀吉の死去を早急に伝える必要がありました。
実際に、八月二十五日付の五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)連署状をもって徳永寿昌・宮木豊盛の二名が朝鮮へ派遣され、八月二十八日には上方にいない上杉景勝を除く四大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元)連署状により、朝鮮撤兵を支えるための毛利秀元・浅野長政・石田三成の派遣が決定されています。
これらの朝鮮撤兵のための諸決定は、上方にいない上杉景勝を除く四大老・五奉行は、当然豊臣秀吉の死去を皆既に知っている前提で下されています。起請文における太閤死去という秘密を知らせてはいけない対象に、(徳川家康も含む)五大老・五奉行が入っているとは考えられず、石田三成が徳川家康に秀吉の死を知らせたとしても何の問題もないことになります。
「戸田左門覚書」によれば、秀吉の死去十日程たっても、家康は浅野長政のことを不審に思っていたようです。八月十八日の十日後とは、徳川家康自身も連署している四大老連署状により、毛利秀元・浅野長政・石田三成が派遣することが決定されたその日です。(「戸田左門覚書」の「十日程」の起算日が微妙にわかりにくいので、もっと後の日にちのことを言っているのかもしれませんが。)
こうした、秀吉が死去したため、緊急に大老・奉行で(もちろん秀吉の死去を知らせた上で)共同で対処・決定しなければいけない事態が山積しているこの時期に、「家康に秀吉の死去を伝えたのが、浅野長政ではなかった」ことを遺恨に思って家康が長政を疎遠に扱っている行動をしているというのは、(『戸田左門覚書』のとおりの行動を、実際に家康がしているとすれば)正直狭量だなという印象を抱きます。(個人的感想です。)
注
(*1)藤井治左衛門 1979年、p62
参考文献
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/publishing/bulletin/contents/pdf/00116161.pdf