古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について⑨-なぜ、島津義弘は西軍についたのか?

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

※ 前回のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 島津義弘をはじめとする島津家が西軍参加に積極的だったか否かは、そもそも島津家は豊臣公議内の家康派VS反家康派とのせめぎ合いに無関心・無知だったので、積極的か非積極的だったかという次元ではなく、「無関心派」だったというのが正しいでしょう。

 たとえば、慶長五(1600)年四月八日付の島津忠恒宛義弘書状には、「「伏見へは西国衆御番たるべき由御諚仰せ出され候処に、何ほどの儀候哉、諸大名悉く大坂へ家居引っ越され候、我等事とかく承らず候間、伏見へ御番務し候」とあり、多くの大名が前年に伏見から大坂に移動した家康に倣って大坂に移ったのに対し、義弘は伏見に残っており、家康に媚びる姿勢は見せていない。」(*1)とありますが、これは御錠(秀吉の命令)を愚直に忠実に義弘は守っているだけで、家康に媚びる行動をしないことが「反家康行動」になるという理解をそもそもしていない訳です。秀吉死後の家康の動きは自分の味方になるかならないかの判断で動いていますので、すべてが諸大名への親家康派か反家康派かの問いかけになっています。ここで「空気が読めずに」大坂に行った家康を追いかけず伏見に留まり続けた義弘は、それだけで「反家康派」だとみなされてもおかしくない状態だったわけですが、義弘はこれに気が付きません。

 そして、前エントリーの伏見城在番拒否です。義弘としては、伏見城入城を拒否したのは鳥井元忠であり、自分としては在番したいつもりだったのかもしれませんが、家康方としては要請している軍役を満たす努力をまったくしておらず、実際兵数を揃えられなかった島津家の方が「軍役を拒否している」という解釈になります。軍役拒否とみなされれば、家康から上杉征伐後、なんらかの処分を下されても仕方ありません。

 つまりは、七月の時点でこれまでの島津家の行いから、家康サイドから島津家は「反徳川派・非家康協力派」のレッテルを貼られ、伏見城入城も拒否されていますので名誉挽回のチャンスすらなく、上杉征伐後は処分を受ける危険すらある状態になっています。

 鳥井元忠らから、「反家康派」認定されて、伏見在番を拒否されている以上、島津義弘が東軍に加入しようがありません。このような状態で、七月のいつの時点かは不明ですが、西軍決起の陰謀への加入を呼びかけられたのですから、義弘としても家康派から拒否され反家康派認定されている以上、西軍につく以外の選択肢はありませんでした。

 慶長三~五年は豊臣公議内の「家康派」対「反家康派」との政治闘争であり、この時期の家康の指示・要請というのは、自派(徳川派)につくか否かのふるい落とし・テストであるということが理解できなかった、島津義久・義弘の政治感覚の鈍さが、ぎりぎりのどうしようもない時点で、東軍(家康派)か西軍(反家康派)を選ばざるをえない状況にに追い込まれることになった理由といえます。既にそれより以前から家康派vs反家康派の派閥闘争は始まっており、もっと早い時点でどちらの派閥につくか去就を決めなければならなかったのです。その決断には、当時における最大の貢献を示す「軍役の兵数」をもって目に見える形で示さねばなりません。そして、この時点で島津家は家康派への貢献をしておらず、東軍(家康派)から拒絶されていますので、義弘は西軍につくより選択肢はなかった訳です。

 つまりは、島津家が伏見城の留守番を果たす兵数を集められなかったことが、家康方の島津家への不信・否定的評価を生み、そのことにより島津家は伏見城在番から外されてしまい、公議への奉公もまともに果たさない家として家康方に扱われたため、義弘としては家康方に付くすべはなく(また、これまでの「空気の読めない」対応から見て、積極的に家康方につきたい意思は義弘にはまったく見られません。)西軍の誘いに乗るより他無かったといえます。

 他に義弘が、西軍についた理由としては、桐野作人氏が指摘するとおり、伏見にいる亀寿(義久の娘、忠恒の婿)の身の安全(*2)というのも当然重要な理由ですが、それとともに現在失脚している大老・奉行を除く、現役の二大老毛利輝元宇喜多秀家)、三奉行(前田玄井・増田長盛長束正家)が西軍として立ち上がっているため、この決起による軍は正当な「豊臣公議」として認められると判断したためというのも重要でしょう。これが石田三成大谷吉継のみの暴挙であるならば、ほとんど勝ち目がありませんので、いくら三成と義弘が親しかったとしても、このような負けの分かっている戦に義弘が参加するほどの理由はさすがにありません。

 

※ 参考エントリー↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

※ 次回のエントリーです。↓koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 注

(*1)光成準治 2018年、p331

(*2)桐野行人 2013年、p83~89

 

 参考文献

桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研M文庫、2013年(2010年初出)

光成準治関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』角川ソフィア文庫、2018年(2009年初出)