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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

関ヶ原の戦いについての素朴な疑問

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 よく、「石田三成ら西軍が関ヶ原の戦い起こしたせいで、豊臣家が滅亡した(or豊臣家の滅亡が早まった)」と言う人がいます。 

石田三成ら西軍が関ヶ原の戦い負けたので、豊臣家が滅亡した(or豊臣家の滅亡が早まった)」というのならば分からなくもない(おそらくその通り)なのですが、「起こしたせいで滅亡した、滅亡が早まった」というのはちょっと意味が分かりません。

 

 なぜなら、未来に生きる我々からは、 

1.徳川家康が豊臣家に臣従する意思はなく、徳川幕府を開き、秀吉の次の天下人となり、徳川家が天下を支配する構造を作ろうとしたこと。  

2.家康は豊臣家を滅ぼす意思だったこと。 

(そうはいっても、家康としてはなるべくならば「義孫殺し」の汚名を被りたくもない訳で、

「豊臣家が徳川家に臣従し、大坂城を明け渡して退去し、反乱を起こしたくても起こせないほどの小さな石高の大名(あるいは旗本?)に転封されることを受け入れ、秀頼と母淀殿江戸城下に常時留められ、諸大名との交流も厳しく制限され、常に行動は徳川の監視下におかれる」

といった屈辱的な環境を秀頼と淀殿が受け入れるのならば滅ぼす気はなかったでしょうが、未来に生きる我々は、そのような屈辱的な条件を秀頼と淀殿が受け入れるはずもなく、結局徳川家によって豊臣家は滅ぼされたことを知っている訳です。) 

 

というのが、家康の最終的な目的(ゴール)である事を知っているからです。関ヶ原の戦いが起ころうが起こるまいが、家康の目的は秀吉の死後から定まっている訳で、秀吉の死後から実際にその目的に向かってまっしぐらに家康は行動しています。

 

 つまり、関ヶ原の戦いが起ころうと起こるまいと、家康は豊臣家を滅ぼす目的だったわけで、逆にいうと関ヶ原の戦いが起こらなくても、かなりの高い確率で豊臣家は滅んでいたのです。

 

「西軍が関ヶ原の戦いを起こしたせいで滅亡した、or滅亡が早まった」

という人は、関ヶ原の戦いが起こらないことによって、「徳川家によって豊臣家が滅ぼされなかった、or滅亡が遅くなった」というifのシチュエーションが存在することを提示しなければいけません。しかし、果たして提示できるでしょうか?

 

 まず、関ヶ原の戦いが起ころうと起こるまいと、家康の目標が上記1.と2.であった以上、徳川家の目的を阻むためには、徳川家を打倒する、あるいは、徳川家が目的の達成を諦めるようなレベルに徳川勢力対反徳川勢力が均衡状態になるように持っていく以外方法はありません。

 

 西軍勢力が慶長五年(1600)年七月の時点で決起せず、九月に関ヶ原の戦いを起こさなかったとして、それ以降で徳川打倒あるいはせめて均衡状態に持って行けるタイミングはあったでしょうか?

 

 秀吉の死以降、一応豊臣政権は五大老五奉行の十者による集団指導体制に移行します。これに対して、他の四大老五奉行前田利家毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家の四大老浅野長政前田玄以増田長盛石田三成長束正家五奉行)を排除あるいは屈服させることによって、徳川独裁体制を確立しようというのが、秀吉死後の家康の方針となります。

 

 具体的に秀吉死後の家康の行動は以下のようになります。

 

1.他大名との縁組を勝手に進める等、秀吉遺言の掟をあえて破る行動を取り、誰が味方になるか観測気球を上げる。

                   ↓

2.上記の1.をきっかけに前田利家及び奉行衆と徳川勢力の対立が深まる。徳川派vs前田派の対立構図(敵勢力のあぶり出し)。

                   ↓

3.前田利家徳川家康和解する。その後、前田利家病死

                   ↓

4.七武将による石田三成襲撃事件。その後石田三成蟄居。(石田三成排除

                   ↓

5.前田利長(利家の子)、浅野長政らが徳川家康暗殺計画の嫌疑をかけられ詰問される。

                   ↓

6.前田利長は母まつを人質に出し、恭順。浅野長政武蔵国府中に謹慎。(前田利長、浅野長政排除

                    ↓

7.上杉景勝に謀反の疑いで詰問。景勝は上洛して申し開きをすることを拒否して、上杉討伐へ。(上杉景勝排除へ

 

 と、このようにして関ヶ原の戦いの直前まで、二大老(利家は病死ですが)・二奉行が排除の対象になっています。このまま、上杉討伐が滞りなく行われれば、次の排除対象になるのは、残る二大老毛利輝元宇喜多秀家)になることは普通に分かるでしょう。(残る三奉行(前田・増田・長束)は日和見で強者に刃向う気骨もありませんので、家康はあえて排除するほどもない雑魚と見て相手にしていなかったと思われます。) 

 このまま、西軍が決起せず上杉景勝が討伐により排除された場合、その後も個別に反徳川大名が排除されていっただけでしょう。反徳川大名が個別に排除されればされるほど、徳川勢力は強化され、親豊臣大名の勢力は弱体化し、家康のもくろみ通り豊臣家は滅亡への道へ向かっていくことになります。 

 残る親豊臣大名である二大老毛利輝元宇喜多秀家)と石田三成が上杉討伐に危機感を持って立ち上がったのは当然の話で、このタイミングを逃して後ろにずらせばずらすほど状況は悪化します。結局親豊臣大名が立ち上がるには、これが最適なタイミングだったのです。関ヶ原の戦いが起こらないことによって、「徳川家によって豊臣家が滅ぼされなかった、or滅亡が遅くなった」というifのシチュエーションなど存在しません。

 

 よく、家康が上杉討伐を行ったのは家康が東国に行くことによって、西国で反徳川大名らが決起することを誘っていたのだ。その罠に石田三成らは引っ掛かっただけなのだ、さすがは家康公の神算だ、みたいなことを言う人がいますが、これは半分も合っていません。 

 別に上杉討伐で反徳川大名が決起しないならしないで家康としては構わないのです。上杉を排除した後に、ゆっくりと個別に叩き潰せばいいだけです。その方が家康も楽ですので、家康としては願ったりかなったりでしょう。 

 ただ、上杉討伐中に反徳川大名が西で決起する可能性も有り得るとは考えていたとは思います。しかし、実際に立ち上がったとしても(可能性は半々くらい?)石田三成宇喜多秀家くらいで他の大名から相手にされず簡単に潰せるだろうと思っていたのだろうとうかがわれます。(大谷義継は、当時徳川派として動いていましたので、まさか石田三成に同心するとは思ってなかったでしょう。)

 特に、毛利輝元石田三成に賛同して決起したのは家康としては完全に予想外で、大大名である毛利輝元が西軍の総大将になることによって天下の半分の大名が西軍につくことになり、家康は窮地に追い込まれます。

 

 今までの策謀で、家康は反徳川勢力を分断し個別に排除する事に成功しており、この個別撃破方針で家康は天下を狙うつもりだったのです。家康が当時の最大の実力者でしたから、これは一番安全確実な方針です。もっとも家康が恐れていた事態は、反徳川勢力が一つに結集して家康に刃向うことでした。慶長五年(1600)年七月の西軍決起・結集はまさに一番家康が恐れていた事態で、これを「さすがは家康公の神算だ」というのは痛烈な皮肉となってしまい、その実家康を暗に馬鹿にしていることになってしまうのではないでしょうか。