古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「内府ちがひの条々」について

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 慶長五(1600)年七月十七日に前田玄以増田長盛長束正家の三奉行(年寄)により全国の大名へ発出された「内府ちがひの条々」について、中野等氏の『石田三成伝』より引用します。

(現代語訳のみ引用します。)

 

「◇確実を期して申し入れます。このたびの上杉景勝討伐の件は、家康(内府)公が上巻の誓紙ならびに秀吉(太閤様)の御置目に違背し、秀頼様を見捨てられての出馬です。そこでおのおので相談し、家康を追討することとなりました、「内府公御違之条々」については、別紙にまとめております。これらの廉々を尤もと考え、秀吉(太閤)様の御恩賞をお忘れではないなら、秀頼様への御忠節を果たされるべきです。」(*1)

徳川家康の行動を厳しく非難する「内府ちがいの条々」は全一三箇条に及び、概要をまとめると次のようになる。

一、五人の「御奉行(筆者注:通称「五大老」の徳川家康前田利家前田利長毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家のこと)」と五人の「年寄(筆者注:通称「五奉行」の前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家のこと)」で上巻の誓紙を取り交わしたのに、いくばくも経たないうちに、「年寄」に二人を逼塞に追い込んだこと。

一、五人の「御奉行」のうち、前田利長肥前守)は潔白を示して誓紙まで指し出し、事が決着しているにもかかわらず、上杉征伐を実行に移すため、あえて人質を取り、追い込んだこと。

一、上杉景勝は何の咎もないのに、秀吉の遺命に背いて、今回討伐しようとすること。

一、知行宛行の権限を独占し、秀吉の遺命に反して、忠節も果たしていない者どもに領知を宛行ったこと(細川忠興森忠政らを指す)

一、伏見城から、秀吉の定めていた城番を追い出し、徳川家の兵を入れたこと。

(筆者注:家康が伏見城二の丸に入城し、秀吉の定めていた城番を追い出して徳川家の兵を入れ私物化したのは「七将襲撃事件」以後であり、「七将襲撃事件」の始末により家康が反徳川派を屈服させたことによる、徳川派勝利の成果のひとつといえます。

 鳥居元忠と徳川の兵が伏見城に居座っている事自体が、家康の逆意の証拠と「内府ちがひの条々」で糾弾された訳ですね。このため伏見城奪還が内府ちがひの条々を発出した後の西軍の最初の行動のひとつとなります。(7月21日から伏見城攻めは始まります)これを見ても「七将襲撃事件」とは徳川派VS反徳川派の前哨戦であったことがよく分かります。)

一、五人の「御奉行」と五人の「年寄」のほかには誓紙交換を認められていないのに、勝手に多くの誓紙をやりとりしていること。

一、北政所のお住まいに居住していること(大坂城西ノ丸に入ったことを非難している)。

一、大坂城西ノ丸に、本丸と同様の天守閣を建てたこと。

一、諸大名の妻子は人質であるはずなのに、贔屓を行って勝手に国許に帰したこと。

一、私の婚姻は秀吉の遺命に背くものであるにもかかわらず、数多くの婚姻を進めたこと。

一、「御奉行」五人で政務を処理すべきところを、家康一人で専断を行ったこと。

一、内縁の関係に拠って、石清水八幡宮の検地を免除したこと。」(*2)

 

コメント:

 この内府ちがひの条々は三奉行(年寄)から全国の諸大名から発せられました。秀吉死去後の家康の行動に非を鳴らし糾弾し、諸大名に家康追討を呼びかけるものでしたが、上杉征伐で家康に従軍した大名のうち、真田昌幸田丸直昌を除いて西軍につく大名はいませんでした。

 結局のところ、諸大名にとって豊臣政権の行く末や、家康の行動が非難に値することなのかはあまり関心のないことであり、誰が自分の家を守ってくれるのか、あるいはどちらにつけば自家の利益になるかという視点で行動していたのではないかと思われます。

 そういった意味では、関ヶ原の戦いの勝利は秀吉死去後の家康の多数派工作が実を結んだ結果といえます。その多数派工作の多くが秀吉の置目・遺言・誓紙違反であり、多数派工作をすることにより豊臣政権を凌ぐ大名が出ては、後の史実が示すとおり豊臣政権の危機となり滅亡に繋がるが故に、置目・遺言・誓紙で禁じられていたわけです。

 秀吉死去後の、置目・遺言・誓紙違反の家康の多数派工作を止めることができなかったのが、関ヶ原の戦いの敗因であり、西軍決起をせざるを得なくなる前の段階で家康の暴走を止めることが必要だったといえるでしょう。関ヶ原の戦いは、秀吉の死の直後から既に始まっていたといえます。

 

 注

(*1)中野等 p418

(*2)中野等 p418~419

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年