考察・関ヶ原の合戦 其の十三 (3)関ヶ原の戦いで西軍はなぜ、東軍に負けたのか?①~西軍の組織構造は?
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関ヶ原の戦いで西軍はなぜ、東軍に負けたのか?
これについての「大原因」は、やはり西軍総大将の毛利輝元の立てた戦略が大元から間違っており、そして、その戦略が失敗したことが判明したら、(関ヶ原の戦いの前日に)南雲山の毛利軍が味方を見殺しにして、さっさと自分たちだけ降伏してしまったからです。
(この「降伏」が吉川広家の単独判断なのか、輝元の許可があったものか現代でも不明ですが、広家の単独講和であっても(白峰旬氏の参考文献(章末参照)を見ますと、この広家の講和は、吉川広家のみの単独講和(毛利軍ではない)というのが白峰氏の見解のようです。)、そうした勝手な行動を放置して、最終的にはその広家の判断を輝元は受け入れた訳ですから、結局敗戦の責任は輝元になります。)
これについては、下記で考察しました。↓
しかし、いかに毛利輝元がたよりなき総大将であり、その戦略方針が間違っていたとしても、石田三成はこれを覆すべく、彼は彼で独自の戦略を練っていました。しかし、この戦略提案は、結果的には輝元には受け入れられず、その後、窮地に陥った際の起死回生の策(関ヶ原の戦い)も結局は不発に終わり、輝元の戦略の失敗を覆すにはいたりませんでした。
以下では、石田三成は、この一連の「天下分け目の戦い」の戦いで、どのような具体的な戦略・作戦を考え、それはなぜ失敗したのかを検討してみましょう。
その前に、まず慶長四(1600)年七月十七日の「内府違いの条々」から九月十五日の「関ヶ原の戦い」に至る天下分け目の戦いにおける「西軍」の構造を考えるとともに、その西軍の構造の中で三成はどのような役割だったのかを考えてみる必要があります。
1.改めて「石田三成は西軍の総大将ではなく、毛利輝元が総大将」、及び西軍の構造とは?
以下に、天下分け目の戦いにおける東軍・西軍のうち、いわゆる「西軍」の構造を示します。
そもそも「西軍」とは何か?
西軍とは、豊臣公議大老であった徳川家康を弾劾・追放し、自分たちこそが「豊臣公議」である、と主張する(及びその主張に賛同する)者たちの連合軍です。
前田利家の死去及び七将襲撃事件以降、徳川家康は五大老筆頭家老として、他の四大老・四奉行(石田三成は七将襲撃事件で失脚)の権力を凌ぎ、豊臣公議の執政・公議の代行者として絶大な権力を握り、天下の執政を行います。
その家康の政治・行動は自らの権力を拡大し、他の大老・奉行達の権力を失わせようとする意図があまりに露骨であり、特に上杉征伐の強引な挙行により、その野心が明らかになったと他の大老・奉行衆から判断されたため、家康の暴挙を咎め阻止するために、二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)、三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)、及び石田三成・大谷吉継らが立ち上がりました。これが、いわゆる後に関ヶ原の戦いを含む「天下分け目の戦い」で「西軍」と呼ばれる集団となります。
彼らは、自らこそが「豊臣公議」であるとの認識のもとに、家康を弾劾・豊臣公議からの追放を宣言し、家康率いる「東軍」と対峙することになります。
彼ら西軍は、「暫定『豊臣公議』」です。なぜ、「暫定」がつくかといえば、豊臣公議筆頭家老・豊臣公議の代行者であった徳川家康に対して、戦によって勝利か、あるいは彼ら西軍にとって有利な和睦を行い、家康が豊臣公議から完全に追放されたことを確定しない事には、彼らの「豊臣公議」としての正当性もまた確定しないためだからです。
では、具体的に「西軍」の構造・組織図を見ていきます。(彼らの戦争中の行動を見ると、彼らがこの「西軍」という組織で、どのような役割だったかが分かります。)
① 西軍総指令官・・・毛利輝元
② 豊臣公議政務・財政担当・・・増田長盛
③ 豊臣公議朝廷・寺社担当・・・前田玄以
④ 西軍副指令官・・・・宇喜多秀家
⑤ 作戦参謀、調略・取次、部将・・・石田三成(・長束正家?)
⑦ 総軍司令官(輝元)派遣軍・・・
e.大友義統(九州・対黒田)
f.宍戸景世(伊予・対加藤忠明)
g.毛利元康(付:立花宗茂等)(大津・対京極)(九月八日~)
以下、検討します。
① 西軍総指令官・・・毛利輝元
①の「西軍総司令官」が毛利輝元であり、そして彼は総司令官として「作戦本部」の大坂城で西軍全体の指揮をとることになります。
ところで、ここで問題が2つ生じます。
第一に、「総大将」、総司令官といいつつ、実際には輝元は、すべての西軍の指揮権を掌握している訳ではないのです。彼が掌握しているのは、実は⑦の総司令官派遣軍及び大坂城の自軍のみ(それでも西軍の大部分と言えますが)であり、③の副司令官宇喜多秀家は、独立した指揮権を持っていますし、また従三位権中納言クラスの大名である⑥上杉景勝・小早川秀秋・織田秀信は毛利輝元の軍事指揮権下に入っておらず、独立した軍事指揮権を持っていたと考えられます。毛利輝元自身が従三位権中納言であり、彼らと同格なので、これは考えてみれば当然のことです。
(特に上杉景勝は大老ですし、遠く離れた会津にいる訳ですので、指揮権の及びようがありません。)
彼ら(宇喜多秀家・上杉景勝・小早川秀秋・織田秀信)は、総司令官毛利輝元からは独立した存在であり、西軍とは毛利・宇喜多連合軍に西軍「同盟軍」(上杉・小早川・織田)が加わった構図なのだと考えた方がわかりやすいです。
第二に、秀吉の遺言で五大老・五奉行制が作られ、そして毛利輝元は五大老ではありますが、直接秀吉から遺言で政務の委任を受けたのは徳川家康、秀頼の守役を受けたのは前田利家であり、遺言では五大老の中でもこの二人の権限が突出する形になっています。
他の三大老(輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)は上記の二大老のサブ的存在であり、家康は七月十七日の「内府違いの条々」クーデターで大老の地位を失権した(というのが三奉行、西軍「豊臣公議」の認識・主張です)とはいえ、これによって家康に代わって大老輝元が天下の政務・軍事を見るという正当性を示すのは実は微妙です。(これが、利家の息子である利長であれば、まだ理屈が成り立つわけですが。)この正当性を保証するとともに実際の実務を行うのが、三奉行、特に大坂城にいる増田長盛の役割です。
② 豊臣公議政務・財政(実務)担当・・・増田長盛
輝元が家康に代わって、天下の政務・軍事を担うといっても、実際には政務の実務を行うのは三奉行であり、また「豊臣家中」の臣である三奉行が実質的には「豊臣公議」を代表します。白峰旬氏の参考文献を参照しても、世間では三奉行を「豊臣公議」と認識しているようです。
「豊臣公議」を代表する三奉行の保証があって、はじめて輝元は「天下殿(秀頼)の代行人」「西軍総大将」の地位が対外的に認められるわけです。
しかし、三奉行のうち、前田玄以は後述するように病気で動けなくなり、関ヶ原の戦いにはほとんど何の力も発揮することなく終戦を迎えます。
そして、長束正家は基本的には伏見(八月一日陥落)→伊勢→南雲山と戦場を転戦して、大坂城には基本的にはいませんので、公議代表としての政務の実務を行えません。
七月十七日の「内府違いの条々」以降、石田三成も奉行衆に復帰したようですが、佐和山→伏見→大坂→佐和山→美濃→大垣→佐和山→大垣→美濃→大垣→関ヶ原と転戦していますので、こちらも正家と同じく大阪城で政務は行えません。
長盛ひとりが大坂城で政務を行うことになります。
豊臣家の財政管理も奉行衆の仕事であり、増田長盛が行いましたが、この関ヶ原の戦いで豊臣家の家計からの支出はなかったようです。これは長盛の判断だと思われます。また、細川ガラシャ事件以降、結局西軍につかなかった東軍諸将をみせしめのために殺さなかったのも長盛の判断だったようです。(誤解されている方もいるかもしれませんが、細川ガラシャ事件以降も人質作戦は継続しています。また、事件の時に三成は佐和山におり、大坂にはいませんので、細川ガラシャ事件と三成は無関係です。)
※関連エントリー↓
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これらの行為は、いわば西軍が負ける可能性あることも予測し、負けた後に豊臣本家が泥をかぶらないようにと考えての行動な訳です。
豊臣家の家計から軍資金を出さないのは、負けた後に「あれは私戦で、豊臣家は関係ありません」と言い訳をするためです。三奉行連署による「内府違いの条々」を発出した時点で、この戦いは、本来は「公戦」であり、そのような言い訳は成り立たないのですが、戦後の処理で家康はこの言い訳を受け入れています。東軍にも「豊臣恩顧の大名」が多いための、家康の配慮による処理ということになります。
大坂城の奉行衆は総司令本部の作戦参謀としての意味もあるはずなのですが、長盛は何か輝元に進言していたのか、あるいは何も進言していなかったのかどうかは不明です(書状として残っていないかと思われます)ので役割からは外しました。
③ 豊臣公議朝廷・寺社担当・・・前田玄以
前田玄以は、豊臣公議の朝廷・寺社担当です。ですので、今回の戦では朝廷工作等の働きを積極的にしていてもよかったのではないかと思われますが、少なくとも慶長五(1600)年七月二十三日には玄以は病であったことが確認されており(*1)、これは戦が終わるまでそうだったようです。このため、目立った働きのないまま終戦を迎えます。(もっとも、公家等の日記を見ると「西軍」は明らかに「豊臣公議」と認識されていますので、それ以上の朝廷工作は不要だったかもしれません。)
④ 西軍副指令官・・・・宇喜多秀家
宇喜多秀家が西軍の副将となったのは、ただの副指令官以上の意味がありました。
秀吉の兄弟・養子が相次いで亡くなった豊臣本家で、秀頼を支える「豊臣家御一門」に連なる存在と呼べるのは、秀吉養女の婿である宇喜多秀家(正室は、秀吉養女(実父は前田利家)豪姫)、毛利秀元((正室は、秀吉養女(実父は豊臣秀長)大善院)、及び秀吉の元養子であり北政所の甥の小早川秀秋(北政所の甥は他にもいますが、秀吉の元養子であり、従三位権中納言の地位にあるのは秀秋のみです)の三名くらいになります。
この三名が西軍についたということは、西軍が豊臣家一門の支持を受けている存在であり、西軍=豊臣家=豊臣公議と世間に知らしめるものとなる根拠になる訳です。(このため、関ヶ原の戦いで毛利秀元が不戦であり、また小早川秀秋が裏切ったことにより西軍が敗戦すると、一挙に西軍は崩壊することになる訳です。)
この三名の中で、五大老は宇喜多秀家のみであり、このため西軍副指令官としての地位を得るわけです。
石田三成には軍事指揮権はなく、大きな作戦行動については、基本的には作戦本部である大坂城の総司令官毛利輝元及び増田長盛へ注進し、本部の指示を受けてしか行動できない訳です。しかし、後に西軍副指令官宇喜多秀家の幕下で同行することにより、大坂城からの指示ではなく、独自の作戦を直接秀家に進言して、宇喜多副司令官指揮下の軍の作戦を展開することが可能になりました。
⑤ 作戦参謀、調略・取次、部将・・・石田三成(・長束正家?)
さて、この戦いにおける石田三成の役割とはなんであったのでしょうか?
第一には、作戦参謀です。作戦参謀というと、総司令本部に籠って作戦を立案・提案しそうですが、この時代通信技術は発達していませんので、みずから前線へ行って敵情を視察し、状況を分析して、作戦を進言するしかありません。(あるいは、総大将軍が自ら前線に行ってその幕下で進言のパターンかです。)
慶長の役の軍令を見た限りでは、豊臣軍においては総司令本部と前線が離れている場合、敵情を偵察した参謀が、注進状を書いて敵情を報告し、その敵情に基づく作戦を提案し本部へ送付、これを披見した本部が注進の諾否を判断し、また報告の状況分析を受けて新たな命令を発した返状を前線に送付するという流れになっています。(戦場で緊急に対応しなければならない事態が発生した場合は、独断専行するより他なく、これが逸脱しすぎると「軍令違反」が問われる危険が出てくるという事も関連エントリーで触れました。)
※関連エントリー↓
しかし、実際にはこの三成⇔大阪城間の書状(注進状・返状)がないに等しいのですね。(私が知らないだけかもしれませんが。)(大阪城開城前に機密情報のため、破棄された可能性が高いです。)
例外的にあるのは、九月十二日付増田長盛宛石田三成書状ですが、以前のエントリーでも触れましたが、これは偽文書の可能性が高いです。
(これについては、以下のエントリーを参照願います。↓)
だから、実際には三成がどのような作戦を立案・提案し、大坂城(毛利・増田)はその提案に対してどのような反応をしたのかよく分かっていないのです。
しかし、真田昌幸(には、同盟軍上杉景勝との連携・連絡役が求められていましたので、情報を知らせないといけません)宛の一連の石田三成書状を見ていくと、三成がこの戦いでどのような作戦を立案・提案していたのか、そしてその提案は大坂城サイドには、ほとんど受け入れられていなかったことがうかがえます。これは後のエントリーで見ていきます。
第二に調略・取次です。
調略については、三成は、信濃上田の真田昌幸、岐阜の織田秀信の調略(西軍につけること)に成功しています。(元々、昌幸は三成の縁戚・取次なのですが、昌幸が嫡男信幸の縁で徳川方に付く可能性もありました。)
しかし、昌幸の嫡男信幸は、徳川家康養女(本多忠勝実娘)を正室としていましたので東軍につき、これが大きく西軍の作戦に支障をきたすことになります。
(※石田三成と真田信幸との親交は、以下に書きましたが、家康・忠勝との縁戚関係を重視したこと及び、真田家を東西に分けることによってどちらが勝っても真田家を生き残らせるために、信幸もこの時ばかりは非情の決断を行うことになりました。)
※関連エントリー↓
取次については、西軍にとっては、特に会津の上杉景勝との連絡・連携が最重要事項でした。これは、会津の上杉軍と、大坂の毛利・宇喜多連合軍が、東西から徳川軍を挟み撃ちにする構図にあり、これが西軍連合軍の強みであり、かつ弱み(東の上杉軍と西の毛利・宇喜多軍は分断されている訳ですので挟み撃ちといっても連携は困難です)でもありました。
このため、三成は、石田三成⇔真田昌幸(信濃・上田)⇔真田信幸(上野・沼田)⇔上杉景勝(会津)の連絡ルートを構築し、上杉軍との連携・協力を図ろうとしますが、真田信幸が東軍に付いたことで、この連絡ルートは遮断されてしまい、三成と景勝の連絡は非常に困難なものとなりました。この事により、景勝は上方の情勢を把握することが困難になり、これが、景勝が関東乱入を判断しなかった要因となったことが考えられます。
第三に、一軍の将としての役割です。三成は自領の四千の兵に加え、秀頼麾下の兵二千を加え計六千の兵を率いて戦に参加しています。
奉行衆である長束正家にも同様の役割が課せられたはずですが、こちらは大坂⇔正家間の書状がない(知る限りですが)ので、長束正家が作戦参謀等として、どのような役割をしていたかは、よく分かりません。
前述したように、上杉景勝、小早川秀秋、織田秀信は従三位権中納言クラスの大名であり、同格である毛利輝元・宇喜多秀家の指揮下に入っていません。このため、それぞれ独自の思惑・判断で動くことになります。他の西軍諸将ができることは、彼らを同盟軍として扱い、協力を呼び掛けることとなります。
彼らの軍の行動を西軍の指揮下に入っていると誤解してしまうと、よく分からないことになります。
⑦ 総軍司令官(輝元)派遣軍
総大将毛利輝元が各地へ送った派遣軍です。見ての通り、分散させ過ぎですね。
これ以外にも阿波占領のために毛利軍を派遣しています。
輝元の関心は、家康軍(東軍)の打倒よりも、この機会に西国に残存する東軍(東軍の大部分の大名は上杉征伐で家康とともに東下していますので、多くは留守居の城代か隠居です)を撃破し、その事によって自領及び毛利の影響圏を拡大したいという意欲の方が高く、このため西軍の兵力は各地へ分散してしまうことになり、これも西軍が敗北する大きな原因となります。
(ちなみに、従来の研究書を見ると、石田三成がこの派遣軍の指令をしていたかのように誤って記述している書籍もたまにありますが、総司令官である輝元が当然派遣軍の指令を行っていたのであり、石田三成に、総司令官輝元や副司令官秀家を凌いで派遣軍の指令をできるような権限など、はじめからありませんし、指令などそもそもできません。)
次回のエントリーでは、石田三成の真田昌幸宛書状を参考に、三成がどのような戦略を立てていたのかを検討する予定でしたが、その前に関ヶ原の戦いを巡る3つの派閥について及び、石田三成がしばらく「徳川派」だった可能性について検討しました。よろしくお願いします。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)白峰旬 2016年、p85
参考文献
小和田哲男監修・小和田泰経著『関ヶ原合戦公式本』Gakken、2014年
白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) -時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)-」(『史学論叢第 46 号(2016 年3月)所収』
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04607.pdf?file_id=8233
光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』NHKブックス、2009年
矢部健太郎『敗者の日本史12 関ヶ原合戦と石田三成』吉川弘文館、2014年
中野等「石田三成の居所と行動」(『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年所収)