古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

村上春樹作品における「悪」について-第2章 ユング心理学における「悪=普遍的な影」と『ねじまき鳥クロニクル』について

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第1章 はじめに  に戻る

 

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』のネタバレを含む言及があります。ご注意願います。)

 

 以前にも書きましたが『ねじまき鳥クロニクル』の世界観は、ユング心理学の影響を多大に受けている作品です。(といっても、村上春樹はインタビューで「僕は、ユングの著作ってほぼ読んでない。ただ僕が物語という言葉を出したときに、それをいちばん正確に受けとめてくれるのは、やっぱり河合(隼雄)先生かなという気はするんですよ。」(*1)と言っているように、村上春樹ユング心理学理解は、主に河合隼雄を通じてのものだと考えられます。ただ、「ユングの著作ってほぼ読んでいない。」というのは、「本当?」て気がします。こっそり読んでいるんじゃないかな(笑)。)

 

 では、ユング心理学では「悪」をどのようにとらえているのか、河合隼雄『影の現象学』より引用します。

 

「影の問題でもうひとつ大切なことに、普遍的影の存在がある。普遍的影とはまさに悪そのものである。人類が共通にその影とするものである。」(*2)

 

 つまり、ユング心理学における「悪そのもの」は、「普遍的影」をさします。

 ちなみに、ユング心理学における「影」とは、「その主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも常に、直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと――たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向――を人格化したもの」(*3)を指します。

 

 つまり、ユング心理学における「影」とは、その個人について、自分自身が認めたくない自らの内面です。「普遍的影」とは、集団(団体、民族、国民等)が、自ら認めたくない自らの内面です。すなわち、ユング心理学では「悪」は自分の内面に潜んでいるものです。「個人」では、「影(悪)」は「無意識」の中に潜み、「集団」では、「集合的(普遍的)無意識」の中に潜みます。

 

 そして、個人あるいは集団は、自らの無意識に潜む「影」を他者に「投影」することがあります。「投影」とは、「自分の影を他人に投げかける」ことです。

 

 つまり、「自ら認めたくない自らの内面」を、誰か他人がそうであると相手にぶつけることです。人が他人を批判・非難して攻撃するとき、その行いは自分の影(自ら認めたくない自らの内面)を他人に投影してぶつけているだけなのかもしれないのです。

 これが、ある集団(団体、民族、国民等)が自分達の「普遍的影」を他集団(団体、民族、国民等)に投影すると、他集団(団体、民族、国民等)の弾圧・迫害・虐殺等が発生することになります。

 

 上記のユング心理学の概念をふまえて、ナチスドイツのユダヤ人迫害・虐殺の原因に対するユングの見解について、河合隼雄の説明を引用します。

 

「集団の影の肩代わり現象として、いわゆる、いけにえの羊(scapegoat)の問題が生じてくる。ナチスドイツのユダヤ人に対する仕打ちはあまりにも有名である。すべてはユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団の凝集性を高め、集団内の攻撃を少なくしてしまう。つまり、集団の影をすべていけにえの羊に押しつけてしまい、自分たちはあくまでも正しい人間として行動するのである。家族の中で、学級の中で、会社の中で、いけにえの羊はよく発生する。それは多数のものが、誰かの犠牲の上にたって安易に幸福を手に入れる方法であるからである。(中略)

 ナチスの例に典型的に見られるように、為政者が自分たちに向けられる攻撃を避けようとして、外部のどこかに影の肩代わりをさせることがよくある。ここでもすでに述べたような普遍的な影の投影が始まり、ある国民や、ある文化が悪そのものであるかのような錯覚を抱くようなことになってくる。」(*4)

 

 また、ユングナチス観について、林道義『人と思想 59 ユング』より引用します。

 

「それでは、ユングナチスをどのように「診断」したのであろうか。彼はヒットラーをヒステリー患者であると見る。ヒステリーの特徴は、自分自身の現実の姿を直視できないで、自分をナルシシズム的に美化したがり、自分の劣等性を他人に投影し、他人を責めることによって自分の劣等感をごまかしている。嘘による現実の歪曲、見栄っぱりや、はったりやいかさまによって自分自身をごまかす、つまり自分の嘘を自分で信じこむ。狂気に近い誇大なうぬぼれ、権力妄想、これらすべては臨床的にはヒステリー患者と診断するほかないとユングは述べている。

 そしてこのような人物にドイツ人のほとんど大部分の人がまんまとひっかかったということは、ドイツ人も全体として同じヒステリーに、つまり集団ヒステリーの状態になっていたと考えざるをえないであろう。ドイツ人の劣等感については、自国人であるゲーテ、ハイネ、ニーチェが何度も指摘してきたことであるが、ドイツ人はその裏返しとして「支配民族」にあこがれ、「世界征服」という非現実的な目標を懐いた。この現実感覚の欠如こそヒステリーの特徴である。要するにナチズムは集団精神異常にほかならなかったとユングは診断する。そしてこの集団心理の中で、意識性や道徳性が低下し、そこに集合的無意識が現れ、人々が元型に憑かれ、完全に理性を失い、ファナティックな狂気に支配されてしまったというのである。」(*5)

 

 ナチスユダヤ人虐殺をユング心理学的にまとめると以下のようになります。

 

 ユング心理学における「悪そのもの」とは「普遍的な影」です。ヒットラーが、ドイツ人の「集合的無意識」にはたらきかけてユダヤ人を「普遍的な影」として投影をさせ、ユダヤ人が「悪そのもの」であるかのような錯覚をドイツ人に抱かせることによってユダヤ人の迫害が起こり、その行きつく結果として、ナチスによる「ホロコースト」が起こされた、ということになります。

 ここで、誤解してはいけないのは、「ユダヤ人」は、「ドイツ人」によって「普遍的な影」を投影された「スケープゴート」であって「普遍的な影」自体ではないということです。 では、「普遍的な影」はどこにあるのか。それは、このケースではドイツ人自身の「集合的(普遍的)無意識」の中にあります。

 

「集合的(普遍的)無意識」は、その集団(あるいは民族、国民、人類)の「集団としての無意識の記憶」です。その無意識の(集団)記憶は永い歴史を通じて先祖から子孫に受け継がれ、その根源は古代の闇、始原まで遡ります。その根源的な(集団)記憶には、善の記憶もありますが、悪の記憶もあります。すなわち、全ての人間の無意識に「普遍的な影=悪」は潜んでいるのです。

 

 しかし、その「悪」が発現した時、彼ら(=ドイツ人)は自分自身を「悪」だとは思いません。彼らが「悪」とみなしているのは、自分が投影した「スケープゴート」である「ユダヤ人」だからです。

 彼らの主観では、自らの影の投影によって「悪」と認定した「ユダヤ人」を攻撃する自分達は「正義・善」なのです。こうして、自らを「正義・善」として「悪行」をするという集団的倒錯が発生します。

(*上記で「ドイツ人」と書くのは、本来は不適当で「ナチスを支持したドイツ人」と書くべきかもしれません。しかし、ホロコーストのような「国家的犯罪」の場合、全ての国民に「罪」がのしかかってきます。「積極的にナチスを支持した者、消極的に支持した者、政治に無関心でナチスの迫害を傍観した者、ナチスには積極的に反対したがナチスの反ユダヤ政策には関心がなかった者」等、さまざまな人間がいて、そのさまざまな人間に応じて「ナチスの悪を食い止められなかった(あるいはむしろ、積極的に支持した)」「罪」と「責任」が発生します。その「罪」と「責任」は人によってそれぞれ軽さ、重さがありグラデーションがありますが、国民全体としての「罪」と「責任」は出てきます。)

 

 しかし、「根源的な悪」というものを考えたときに、「普遍的な影」というだけでは「悪」の全ての説明になりません。「根源的な悪」である「誰か」が、集団の「集合的無意識」にはたらきかけて、「普遍的な影」の投影をさせ、悪をなさせたのです。「ホロコースト」では、その「誰か」はヒットラーです。

 では、そのヒットラーを「悪」に突き動かしたその根源は?集団の「集合的無意識」に働きかけ、「悪」をなさせるその能力の源は?という問いが出てきます。ユングの「ヒットラーはヒステリー患者である」という説明だけで、納得できる人間は少ないでしょう。

 

ねじまき鳥クロニクル』は「悪とは何か?」に対する問いの答えとして、ワタヤノボルという「悪」を配置しました。(正確にはワタヤノボルに取り憑いている「悪」ですが。)この「悪」は、「根源的な記憶」として歴史的に人間の普遍的な記憶に脈々と継承され、そして人間の「集合的無意識」にはたらきかけて、人間のねじを緩めて暴走させる「根源的な悪」です。その、「根源的な悪=ねじ緩め鳥」と「ねじまき鳥」である主人公達との対決の年代記(クロニクル)を描いたのが、『ねじまき鳥クロニクル』といえます。

 

 最後に筆者の「ねじまき鳥クロニクル」の書評で書いた、「ねじまき鳥クロニクル」の世界観についての説明について再掲します。

 

*                 *                  *

 

(前略)もう1つのテーマが「『根源的な悪』との対決」です。「『根源的な悪』との対決」は「後期村上春樹作品」の重要なテーマですが、このテーマを明確に打ち出したのはこの小説が最初と言ってよいでしょう。これより前の作品にも「根源的な悪」は出てきますが、はっきりとこれと「対決」し、暴力的な手段を使って倒すという描写が出た作品ははじめてかと思います。

 この作品の基本的な世界観について説明します。この作品の世界観は基本的にユング心理学を下敷きにしていると思われます。といっても、私はユング心理学の研究者ではありませんし、作家の世界観がどこまでユング心理学の考えに忠実なのかもわかりません。多分正しい理解からはちょっとずれていると思いますので、「お前のユング心理学理解は間違っている!」というツッコミはなしでお願いします。

 まず、この作品に限らず村上春樹作品にはよく「井戸」が出てきます。これは、精神分析の用語の「エスラテン語でイド)」の比喩です。「人には、体の内部から駆り立てられる力、本能的なもの、すなわち欲動がある。精神分析では、これを無意識的なものとして、「エス」と呼ぶ」(大場登・森さち子「精神分析ユング心理学」(NHK出版)より引用)とされています。

 村上春樹は、「個人的無意識」の比喩として「井戸」という言葉を使っているものと思われます。ところで、ユング心理学には「集合的無意識(普遍的無意識)」という概念があります。「集合的無意識」とは、「個人的無意識」より深い無意識、個々人が体験するより以前に、すでに生まれたときに持っている無意識であり、人類的に普遍的に誰の心の中にも、だいたい同じように存在している「無意識」のことです。この人類に普遍的に存在している「無意識」の型をユング心理学では「原型(=元型)」と呼んでいます。(参考文献:林道義ユング 人と思想59」清水書院

 つまり、我々の無意識は個々人でバラバラのように見えて、「個人的無意識(井戸)」の底には「集合的無意識(地下水脈)」があり、この地下水脈を通じて我々は繋がっています。 地下水脈を通じて我々は互いに共感したり、深く理解し合えたりすることができます。「物語」は、この人々の「集合的無意識」にはたらきかけることによって、共感や感動を生むものだと作家は考えていると思われます。この小説における「『井戸』の底に下りる」という行為は、無意識世界に潜り、地下水脈を探すことによって他者を本当に深く理解しようとする行為のことです。

 しかし、本来人々が共感し理解するための重要な要素である「集合的無意識」を悪用しようとする人達も現れます。彼らは、この人々の共感する「集合的無意識」に働きかけて、暴力、悪意、憎悪や敵意の負のイメージを人々に共有させようと働きかけます。憎悪と悪意の先には、戦争、テロや民族浄化の「巨大な悪」があります。こうして起こったのが20世紀の悪夢であるファシズムであり、ビックブラザー(独裁者)であり、ホロコーストであり、第二次世界大戦でした。

 我々は、こうした「根源的な悪」に「集合的無意識」の地下水脈を汚されないように注意し続けなればいけません。

 

 次章では、『スプートニクの恋人』について触れます。

 

第3章 『スプートニクの恋人』~「悪」は主要なテーマではない  に進む

 

  注

(*1)村上春樹 2012年、p116

(*2)河合隼雄 1987年、p47

(*3)河合隼雄 1987年、p35

(*4)河合隼雄 1987年、p56~57

(*5)林道義 1980年、p182~183

 

参考文献

A・サミュエルズ、B・ショーター、F・プラウト(山中康裕監修、濱野清志・垂谷茂弘訳)『ユング心理学辞典』創元社、1993年

大場登・森さち子『精神分析ユング心理学』NHK出版、2011年

河合隼雄『影の現象学講談社学術文庫、1987年

河合隼雄村上春樹村上春樹河合隼雄に会いにいく』岩波書店、1996年

小山花子「美学観察者としてのハンナ・アーレント:『イェルサレムアイヒマン』を中心に」(『一橋論叢 134(2)、2005年』)

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15543/1/ronso1340200890.pdf

ジョージ・オーウェル高橋和久訳)『一九八四年[新訳版]』ハヤカワepi文庫、2009年

ドストエフスキー江川卓訳)『悪霊』(上・下)新潮文庫、1971年

ハナ・アーレント(大久保和郎・大島かおり共訳)『全体主義の起源 3 全体主義みすず書房、1974年

林道義『人と思想 59 ユング清水書院、1980年

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』(第1部・第2部)新潮社、1994年

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』(第3部)新潮社、1995年

村上春樹スプートニクの恋人講談社、1999年

村上春樹海辺のカフカ』(上・下)新潮社、2002年

村上春樹村上春樹編集長 少年カフカ』新潮社、2003年

村上春樹アフターダーク講談社、2004年

村上春樹1Q84』(BOOK1、BOOK2)新潮社、2009年

村上春樹1Q84』(BOOK3)新潮社、2010年

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』文春文庫、2012年

村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年文藝春秋、2013年

村上春樹『女のいない男たち』文藝春秋、2014年

森川精一「『全体主義の起源について』――五○年代のアーレント政治思想の展開と転回」(『政治思想研究』2008年5月/第8号)

矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年

リチャード・J.バーンスタイン(阿部ふく子・後藤正英・齋藤直樹・菅原潤・田口茂訳)『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』法政大学出版局、2013年