古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十二(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相③~戦線縮小(案)はなぜ、秀吉から激怒されたか

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※前回のエントリーです。↓

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 さて、なぜ慶長の役において、朝鮮在陣十三将による「戦線縮小(案)」は、秀吉から事後的に承認されることはなく、蜂須賀家政黒田長政が処分されることになったかについて、以下に検討します。

 

7.戦線縮小(案)はなぜ、秀吉から激怒されたか

 

 前回のエントリーでは、秀吉政権においては、秀吉以外には誰も軍事指揮権の代行は認められていないため、軍事指揮命令は原則として秀吉の命令に従わなければいけず、命令違反行為を行えば、当然罰せられるという「建前」の話と、そんなことを言ったところで、現実に異国で秀吉軍は戦争しているのであり、名護屋であろうと、伏見であろうと、日本にいる秀吉にお伺いを立てて、その秀吉の軍事命令をいちいち待って行動することなど現実には不可能だという「本音」の話をしました。

 

 これを調整するためには、現地の秀吉の代理人(奉行・軍監・外交官・現地総大将等)が、秀吉の意向を「忖度」して、現地で独断決定・実行を行い、事後報告を行い、秀吉の事後承認を得るという歪んだ意思決定プロセスを経る必要がありました。

 

 その代理人の「忖度」による意思決定が、秀吉の意向の許容範囲であればいいのですが、それが秀吉の許容範囲から外れてしまうと、それは秀吉の「命令違反」ということになってしまい、処分・更迭の対象となるという、あぶない綱渡りを秀吉の代理人はしなければいけないことになります。

 

 上記で言いたいことは、現地で秀吉の命令を待たずに、総大将宇喜多秀家毛利秀元が「戦線縮小」という判断を現地で独断決定・実行したことは、それが直ちに「秀吉の命令違反」として処分の対象となるとは限らず、「戦線縮小(案)」(実行してしまっているので、もう案ではないのですが)が秀吉の意向の許容範囲内であれば、許容され、事後的に秀吉に承認されるということであり、十三将の連署状もまた、秀吉の事後承認を期待したものであったということです。

 

 しかし、十三将の独断決定による「戦線縮小」は、秀吉の意向の許容範囲内ではなく、十三将を代表して、(NO.1、2の責任は問えないため)NO.3である蜂須賀家政が「秀吉の命令違反」の責任を負って処分されることになります(黒田長政は家政の縁戚連座が実態)。

 

 なぜ、十三将の独断決定による「戦線縮小」は、秀吉の意向の許容範囲内として事後承認されることはなく、「命令違反」として処分されることになったのでしょう。

 

 秀吉は実際には、原理原則を振りかざすような「机上の名将」ではなく、現実主義者であり、百戦錬磨の軍事専門家です。

 異国の戦地で諸将が熟慮の上で、独断決行し、事後承認を求めたとしても、それが「やむを得ない」決定・行動であると秀吉が考えるならば、秀吉はその決定・行動は事後的に承認します。

 秀吉は、小西・三奉行のかなりの妥協的な対明講和交渉すら、最終的に許容している人間なのです。(イエズス会等を前にして(いるのか伝聞なのか分かりませんが)「欺かれた」と秀吉は怒りを示しているようです(*1)が、それは「ポーズ」です。本当に秀吉が怒っている場合は、彼はその武将を「処分」します。)

 

 さて、十三将の独断決定が、秀吉の意向の許容範囲内として事後承認されることはなく「処分」された理由は、朝鮮在陣諸将と秀吉政権の書状のやりとりを時系列に見ていくしかありません。

 

 以下、慶長三年の朝鮮在陣諸将と秀吉政権(秀吉・前田玄以長束正家ら)のやり取りをまとめます。(下記の時系列表の参考文献としては、笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦』及び中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』を参照しました。)

(〇は朝鮮在陣諸将→秀吉政権書状、■は秀吉政権→朝鮮在陣諸将書状)

 

慶長三(1598)年

 

a.〇1月1日(→1月11日披見)注進状 朝鮮諸将(毛利秀元ら12将?)→秀吉政権

 蔚山城が攻撃を受け、そのための救援軍が集結していることの報告。

 

b.〇1月4日(→1月17日披見)注進状 太田一正・加藤清正・浅野長慶→秀吉政権

 蔚山救援戦の勝利、大戦果の報告

 

c.〇1月5日(→1月22日披見)書状 朝鮮諸将(毛利秀元ら)→秀吉政権

 1月5日の朝鮮諸将の今後の善後策の談合結果報告(内容不明)

 

d.〇1月9日(→1月21日披見)書状 毛利秀元→秀吉政権

 朝鮮諸将が、蔚山・順天城の放棄検討。秀元は不同意。

 

e.■1月11日朱印状 秀吉政権→朝鮮諸将(毛利秀元ら)

 a.(1月1日)の戦況報告を受けて、毛利輝元増田長盛らの救援派遣を意向。

 

f.■1月17日朱印状 秀吉政権→太田・加藤・浅野

 b.(1月4日)の返状。

 大戦果の確認。援軍派遣の取りやめ。蔚山城他在番体制の強化。

 在番体制強化後の太田・浅野の帰国許可。

 

g.■1月21日朱印状? 秀吉政権→毛利秀元

 d.(1月9日)の返状。蔚山・順天城の放棄は「臆病」。秀元の不同意はもっとも。

 

h.■1月22日朱印状 秀吉政権→朝鮮諸将(毛利秀元ら18将)

 c.(1月5日)の返状。

 ① 蔚山城救援・追撃戦で多大な戦果を上げたのは聞いたが、兵糧・人数が

  整わず、相手を壊滅させられなかったのは残念。

 ② 城々の手明き次第、帰朝できるところを在陣させて、戦わせたことは「辛労」

  であった。

 ③ 慶長へ追撃を検討したが、鍋島・黒田が自分の居城が心配で戻ってしまった

  ことについては、仕方のないことであり、今後このような事は言上しなくて

  よい。

 ④ 蔚山には加藤清正、西生浦には毛利吉成、釜山浦には寺沢正成を置き、

  (帰朝予定の)毛利秀元小早川秀秋が残していく将兵を加勢させる。

 ⑤ 蔚山をはじめとする城々の普請・兵糧・弾薬の補給等守備を固めれば、

 「各々は帰朝すべく候」(*2)

 

i.〇1月26日注進状 宇喜多秀家ら13将→秀吉政権

 問題の13将による注進状

 ① 蔚山城、梁山城、順天城、南海島の放棄。

  これを秀吉の指示を待たず決行する。(事後報告)

 ② 順天城・南海島の放棄については、在番の小西・宗が反対しているので、

   御諚(秀吉の決定)に委ねたい。(*3)

 ※「現地からの報告にした秀吉は激怒し、三ヵ所城の放棄を「曲事」として受け入れようとしなかった」(*4)とありますが、いつの日付かは不明です。

 

j.■3月13日朱印状 秀吉政権→立花宗茂

 ① 蔚山城、梁山城、順天城の放棄は曲事であり、認めない。

   ただし、梁山城の放棄だけは認める。   

 ② 立花宗茂らは固城に在番、毛利高成は西生浦に在番

 ③ 先年明の遊撃将軍(沈惟敬)が詫び言を言ってきた時に、在番諸将の手に余る

  であろうから、朝鮮の日本拠点を10か所以上破棄した。しかし、二年、三年に

  一度ずつ軍勢を差し向け、遼東(明国境)まで侵攻する予定だ。

 ④ 各々の判断(上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され

  候処)で敵が弱いと判断し、城をとりひろげたところ、その(各々の判断で

  新しく築城した)蔚山城の普請を整えず、兵糧・弾薬を未だ入れ置かなかった

  時に明・朝鮮の大軍の襲撃を受け、相手が撤退したところに追撃を徹底せずに

  相手を壊滅させることができなかったのを(残念に思っている所へ)、あまつ

  さえその蔚山を、御諚を得ずに放棄するとは、曲事である。

 ⑤ 兵糧の廻漕は京都から容易なので、城々の兵糧・弾薬の備蓄をすること。

   敵が攻めても堅固な状態になれば、立花らには一札出して帰朝させる。

   ただし、不測の事態が発生すれば、そのときは別途伝える。

 ⑥ 来年は、軍勢を派遣して漢城を責める予定である。

   その意を得て、兵糧・弾薬の備蓄を怠らず、在番するように。(*5)

(③、④は同一項に入っているのですが、便宜上2つに分けました。)

 

 以下、検討していきます。

 

 a.で、朝鮮諸将から、正月一日に戦況報告(蔚山城が攻撃を受け、そのための救援軍を集結させていることの諸将の報告)が秀吉にもたらされます。この注進状を秀吉は正月十一日に披見し、即日返状であるe.「正月十一日付書状」で秀吉は、毛利輝元増田長盛らの救援派遣をする心づもりをしていると伝えています。(*6)

 その後、正月四日には、蔚山城救援・追撃戦は行われ、蔚山城は解放されていますが、この時点(正月十一日)では、秀吉はその事は知らず救援派遣の心づもりを述べています。

 

 次にb.の正月四日付(蔚山救援・追撃戦が行われた日です。戦の直後に書かれた書状でしょう。)で、太田一吉・加藤清正・浅野長慶(幸長)(彼らは蔚山城で籠城していた守将です。)の注進状が長束正家前田玄以宛てに送られます。(秀吉の披露を前提とした書状です。)

 

 この書状には、籠城戦の自分たちの奮闘及び、その後の救援戦において、味方の救援軍とともに多大な戦果(「手おい・死人その数を知らず」「今度の動きにをいては、あわれ御目にかけ候て仕りたきと存じ奉り候」)(*7)を上げたと述べるものになっています。

 籠城戦で兵糧がなく、城兵が飢えに苦しんだことについては書いていません。まあ、自らの功績を示す注進状には書かれないものなのかもしれませんが。

 

 このb.正月四日の注進状は、正月十七日に秀吉の元に到来・披見し、その日のうちに秀吉に朱印状を発します。これがf.です。その内容は、以下の内容です。

①(蔚山城救援戦)で大戦果を上げたことを認める。

②(朝鮮在陣諸将が)大戦果を上げて、敵勢を撃退したため、派遣する意向だった

 毛利輝元増田長盛らの援軍はその必要がなくなった(ので取りやめる)

③ 蔚山城を始め、在番諸城を堅固に守衛すること。

④ 蔚山城在番体制が固まったのち、浅野長慶・太田一吉の日本の帰還は許す

(*8)

 中野等氏は、「兵糧や水の不足から地獄のようなさまを呈した籠城戦の悲惨さ、戦いの緊迫感などに、秀吉はさほどの関心を示してはいないようである」(*9)と述べていますが、これは、b.正月四日付の太田・加藤・浅野の注進状への返書なのであり、彼らの注進状自体が自らの多大な戦果を誇るものであり、自らの籠城戦の悲惨さには触れていませんので、返書としては当然そうした内容になります。(他の諸将の注進状・秀吉の朱印状の内容は分かりませんので、そちらは何とも言えません。)

 

 蔚山籠城救援・追撃戦(慶長三(1598)年正月四日)後、朝鮮半島在陣諸将の間では、戦線縮小・撤退案が出ることになります。ただし、c.の正月五日の朝鮮諸将の今後の善後策の談合結果報告の内容は、不明です。(h.の朱印状で存在が確認されるだけです。現存していないのか、参考文献に載っていないだけなのかは分かりません。)

 

 その後、正月九日に蔚山・順天両城を放棄する案が諸将において協議され、毛利秀元はこれに対して不同意(同心仕らざる由)である旨の書状d.が、秀元から秀吉宛てに出されます。

 これに対して、正月二十一日に伏見で披見した秀吉は、返状g.を秀元に送り、秀元の不同意はもっともであり、諸将は「臆病」であると指弾しています。(*10)

 

 h.正月二十二日朱印状に、正月五日の朝鮮諸将の今後の善後策の談合結果報告に対する秀吉政権から、朝鮮諸将(毛利秀元ら18将)への返答が出されます。

 内容は、上記時系列表の通りです。再掲します。

① 蔚山城救援・追撃戦で多大な戦果を上げたのは聞いたが、兵糧・人数が

  整わず、相手を壊滅させられなかったのは残念。

② 城々の手明き次第、帰朝できるところを在陣させて、戦わせたことは「辛労」

  であった。

③ 慶長へ追撃を検討したが、鍋島・黒田が自分の居城が心配で戻ってしまった

  ことについては、仕方のないことであり、今後このような事は言上しなくて

  よい。

④ 蔚山には加藤清正、西生浦には毛利吉成、釜山浦には寺沢正成を置き、

  (帰朝予定の)毛利秀元小早川秀秋が残していく将兵を加勢させる。

⑤ 蔚山をはじめとする城々の普請・兵糧・弾薬の補給等守備を固めれば、

 「各々は帰朝すべく候」(*2)

 

 h.の書状で、まず④で蔚山在番は当然の前提とされていることが分かります。また、注目すべきなのは⑤で、城々の在番体制を固めれば、在番のための朝鮮駐留の継続を命じられた以外の朝鮮諸将は帰朝することが、予定されていたということです。

 

 これは、疲弊した第一軍の一部を帰朝させ、交代に派遣する第二軍に朝鮮半島南部の侵攻作戦を委ねる作戦でしょう。(慶長四年に福島正則増田長盛石田三成の派遣が予定されています(*11)が、ちょっと時期が離れていますので、これを秀吉が1月の時点から第二軍と予定していたのかは、不明です。

 

 加藤清正には、別の朱印状が与えられ、蔚山籠城戦の働きを「神妙の働き」と誉め、兵糧都合一万石を支給するので、引き続き蔚山城の守備にあたるように記しています。(元々の在番であった西生浦城の守備は、毛利吉成に引き継ぐように指示しています。)(*12)

 

 しかし、この間更にこの件については諸将の間で話合われ、正月二十六日付で、前述した十三将による戦線縮小案が、石田三成長束正家増田長盛前田玄以の奉行衆に宛てた秀吉への披露状において提示されます。この連署状には、d.の書状(*10)では不同意だったはずの毛利秀元も名を連ね、秀元も戦線縮小案に対して同意に転じたことが分かります。(*13)

 

 なお、以前のエントリーで触れたように、石田三成は正月十日の数日後には、会津転封作業のため、会津へ向かっていますので、この書状を見ていません。(*14)

 

 十三将の戦線縮小案の主な内容は以下の通りです。

① 蔚山城の処置については、先日秀吉からの返書の指令次第に決定しようと申し上げたが、蔚山城は地理的に突出しすぎており、これを放棄して、西生浦城まで撤退するように決定したこと。

② 順天城・南海島の処置についても、道が難所であり、いざという時に救援が困難なため、同城を放棄するように在番武将である小西行長宗義智に申し渡したが、彼らはこの決定に不同意であったため、御諚(秀吉の決定)に委ねたいこと。

③ 梁山城もまた、援軍の派遣が難しい箇所にあり、放棄・撤退すること。

(*15)

 

 これは在陣諸将の秀吉への「提案」ではなくて、秀吉の命令を待たずに既に十三将の合意だけで、意思決定を行い、撤退を実施しているということは前述しました。(*16)

 

 ただし、正月十一日・十七・二十一・二十二日に発給された秀吉の朱印状・返書(e.~h.)が朝鮮に到達した可能性があるのは、伏見→朝鮮間の書状が約10~17日かかっていることが想定されるのであれば、一月二十六日の時点で、かろうじて朝鮮在陣の諸将に届いた書状は、e.の書状くらいでしょう。e.の書状は、一月一日の戦況報告(一月四日の蔚山救援戦より前です)を受けて、毛利輝元増田長盛らの救援派遣を意向するという内容であり、蔚山城解放後の方針を検討するための判断材料にはなりません。また、f.(十七日付書状)で、援軍の派遣は取りやめになっていますが、それもおそらく朝鮮在陣諸将にはまだ届いてはいません。)

 

 f.(g.)h.の書状を見れば、蔚山城維持・在番は当然の前提であるという、秀吉の意思決定・公式命令であることは明白であり、諸将が独断決定・実行して事後承認を得る余地はありません。 

 

 しかし、このf.g.h.の書状は、一月二十六日の段階では朝鮮在陣諸将には届いていません。このため、諸将の行ったことは「意図的・故意的な、明白なる秀吉の命令無視・違反」ではありませんが、少し待てばこの秀吉の朱印状が届く訳であり、秀吉の明確な意思決定・公式命令が分かる訳ですので、やはり、秀吉・秀吉公議にとっては「命令違反」となります。

 

 秀吉はf.(g.)h.の公式命令で明白に蔚山城維持・在番を明記して指示していますので、この公式文書として朱印状を発した公式命令が事後的に覆ることは、秀吉自身にすらできず、この「命令違反」をしてしまったら、この明白な「違反」に対しては、少なくとも誰かは責任者として「処分」されなくてはいけないのです。(g.の書状には別の問題がありますので、以下に検討します。)

 

 逆に言うと、蔚山城以外の順天城・梁山城については明記されていません。

順天城については、毛利秀元宛て書状g.の「蔚山・順天両城儀指し捨て(中略)各々臆病」(*17)の表現をどう見るかの話になりますので、これを持って秀吉が公式に順天城維持を命令としたかが、問題となります。(ただし、結局小西行長の判断で結果的に順天城は維持されているので、これ以上この問題には立ち入りません。)

 

 梁山城については、f.g.h.には明記されていませんので、実際には明白な在番・維持命令は出ていません。このため、朝鮮在陣諸将にも独断決定する裁量の余地があり、梁山城放棄については、秀吉も事後承認しました。(おそらく、戦略的な意味でも放棄して構わないと、後日秀吉に判断されたのだと思われます。)

 

 f.g.h.の書状を見ると、秀吉が蔚山城の維持に固執したことが分かります。なぜ、秀吉は蔚山城の維持に固執したのでしょうか。これは、三月十三日付の立花宗茂ら宛て秀吉朱印状j.で分かります。内容は上記の時系列表をご覧ください。再掲します。

j.■3月13日朱印状 秀吉政権→立花宗茂

 ① 蔚山城、梁山城、順天城の放棄は曲事であり、認めない。

   ただし、梁山城の放棄だけは認める。   

 ② 立花宗茂らは固城に在番、毛利高成は西生浦に在番

 ③ 先年明の遊撃将軍(沈惟敬)が詫び言を言ってきた時に、在番諸将の手に余る

  であろうから、朝鮮の日本拠点を10か所以上破棄した。しかし、二年、三年に

  一度ずつ軍勢を差し向け、遼東(明国境)まで侵攻する予定だ。

 ④ 各々の判断(上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され

  候処)で敵が弱いと判断し、城をとりひろげたところ、その(各々の判断で

  新しく築城した)蔚山城の普請を整えず、兵糧・弾薬を未だ入れ置かなかった

  時に明・朝鮮の大軍の襲撃を受け、相手が撤退したところに追撃を徹底せずに

  相手を壊滅させることができなかったのを(残念に思っている所へ)、あまつ

  さえその蔚山を、御諚を得ずに放棄するとは、曲事である。

 ⑤ 兵糧の廻漕は京都から容易なので、城々の兵糧・弾薬の備蓄をすること。

   敵が攻めても堅固な状態になれば、立花らには一札出して帰朝させる。

   ただし、不測の事態が発生すれば、そのときは別途伝える。

 ⑥ 来年は、軍勢を派遣して漢城を責める予定である。

   その意を得て、兵糧・弾薬の備蓄を怠らず、在番するように。(*5)

(③、④は同一項に入っているのですが、便宜上2つに分けました。)

 

上記の内容のうち、特に重要なのは、④です。

 蔚山籠城・救援・追撃戦及びその後の諸将の蔚山城独断放棄に対する諸将への評価は④につきます。④のみ抜粋します。

 

④ 各々の判断(上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され候処)で敵が弱いと判断し、城をとりひろげたところ、その(各々の判断で新しく築城した)蔚山城の普請を整えず、兵糧・弾薬を未だ入れ置かなかった時に明・朝鮮の大軍の襲撃を受け、(救援戦に勝利し)相手が撤退したところに、追撃を徹底せずに相手を壊滅させることができなかったのを(残念に思っている所へ)、あまつさえその蔚山城を、御諚を得ずに放棄するとは、曲事である。

 

 一月二十二日付朱印状h.の秀吉の意図の意味も含めて大分意訳しました。原文の方も引用します。

「(前略)然れば、今度仕置きの城々の儀、見計らい申し付け候由、言上候問、上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され候処、敵弱く候へば、何方までも、其の分と存じ、城をとりひろげ候、しかる処、蔚山城普請以下相調えず、兵糧・玉薬未だ入れ置かず候刻、大明・朝鮮一揆同前の者共罷り出で、城を攻めそこなひ、敗軍仕り候間、追い付き候て、悉く討ち果たすべしと思し食(め)し候処、其の段はのがし遣わし、あまつさえ蔚山の儀、御諚を得ず、引き払うべきの由、申し遣わし候儀、曲事の由申し遣わされ候事、」(*18)

 

 つまりは、朝鮮在陣諸将の判断で、(敵が弱いと考え)自ら城を取り広げたにも関わらず、(敵の来襲を予測も警戒もせず)、城の普請・兵糧・弾薬の備蓄が整っていない状況で城攻めを受けてしまい、(敵を撃退したのはよかったが、これまた兵糧・兵士の整備を怠っていたがために)追撃戦で敵を殲滅できる絶好の機会を失った。

 あまつさえ、(自分たちの判断で戦略上必要だから築城が必要と考え、取り広げたはずの蔚山城、彼らが救援戦で獅子奮迅の働きをしたことにより死守したはずの)蔚山城を自ら放棄、しかも自分(秀吉)の命令すら待たずに勝手に放棄するとは、曲事(言語道断)である、ということです。

 秀吉の目には、朝鮮諸将の行動・意向はことごとく無能に見えたでしょう。

 

 また、せっかく死守したはずの城をやすやすと放棄するとは、これでは命がけでこの城を守った守将、太田一吉・加藤清正・浅野長慶(幸長)の面目は丸つぶれです。秀吉は彼ら守将の面目のためにも激怒しているのです。(十三将の中に、太田・加藤・浅野が入っていないのは当然です。大勢が放棄に賛同している以上、彼らは表だって反対していませんが、「ではなぜ、我らは命をかけてこの城を守らねばならなかったのだ」と内心相当に不満だったでしょう。)

 間違えて、加藤清正も秀吉の叱責の対象としている方がいますが、当然、加藤清正は叱責・処分の対象には全くなっていません。

 

 一月二十二日付朱印状h.で、秀吉が何を「残念」に思っていたかを前提としないと、この書状は分かりにくいです。一月二十二日の段階では、追撃戦で兵糧・人数が整わず、敵を殲滅できなかったことは、その時点では「残念(残り多く思し召され候)」レベルに過ぎなかったのですが、諸将の蔚山城の勝手な放棄で、(一連の行動トータルとして)「曲事」レベルまで、怒りが増幅したのです。

 

 一月二十二日付朱印状については、以前のエントリーでも検討しました。↓

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 一方、黒田長政は梁山城の守将であり、梁山城については、蔚山城のような事情はありません。長政は十三将の連署状に入っていませんでしたが、守将の同意は当然得たうえでの連署状でしょうから、こちらについては、長政は梁山城の放棄に(消極的ではなく)同意していたとみなされています。しかし、これが蜂須賀家政だけでなく、(十三将ではないのに)黒田長政連座した要因となります。梁山城の戦略的価値は秀吉もあまり重視していなかったようで、事後的に放棄を承認していたものの、秀吉に断りなく城を放棄したこと自体が長政に秀吉が激怒した理由になります。

 実は、守城放棄の同意をして実際に城を放棄してしまったのは黒田長政だけだったのです。

 蔚山城を守る加藤清正は十三将の連署状に名を連ねておらず、また城の放棄に同意したとも、放棄に反対したとも書かれていません。しかし、実際には史実上清正は蔚山城を放棄していないのです。この点から、明確な意思を示してはいないが、実質的に清正は(秀吉の明確な意思がない限り)蔚山城の放棄に賛同しなかったという事が分かります。

 順天城を守る小西行長は、前述したように城の放棄に不同意です。このため、実際に十三将の指示に従って梁山城を放棄したのは黒田長政のみです。それ故、秀吉の怒りは長政にも向けられたという事になります。

 

 

 今回、処分を受けたのは、十三将のうちでは、蜂須賀家政のみ、そして黒田長政、また、軍目付でありながら、戦線縮小案に賛同した早川長政・竹中重隆・毛利高政の計五名です。

 

 他の十二将は、処分を受けていません。藤堂高虎脇坂安治に至っては、加増すら受けています。(*19)

 

 秀吉にとっては、朝鮮在陣諸将の無能、命令違反は許しがたいところですが、連署状のNO1、2は、義理の息子(秀吉の養女婿)でもあり、自らの手足ともいえる総大将宇喜多秀家及び毛利秀元(ちなみに毛利秀元は輝元の甥で、一時期養嗣子となっており、正室大善院は秀吉の養女(豊臣秀長の実娘)です。)を処分する訳にもいかず、NO.3の蜂須賀家政に全責任を押し付けたというのが実態でしょう。

 

 ただし、秀吉自身は蜂須賀家政に対して「責任を押し付けた」とはこれっぽっちも思っていません。

 

 秀家・秀元のような「貴人」を、はっきりいってしまうと、「この程度の件」で処分などできません。しかし、「この程度の件」であっても、「明白な命令違反(公式命令である朱印状に、明記された蔚山城維持・在番命令に対する命令違反・無視、としての蔚山城放棄)」であり、これは秀吉自身であっても無視ができない違反となります。誰かが責任を負わねばならず、負うのであれば、秀家・秀元を除いた次の責任者、連署状のNO.3の家政ということに当然なります。

 

 連署状の署名の書き順は適当に書いているのではありません。前の方が偉い場合もありますし、後ろの方が偉い場合もありますが、(今回は前者)とにかく責任の重い順に書いてあります。実質御一門の貴人秀家(当時二十六歳)・秀元(当時二十歳)を罰せれられない以上、NO.3である家政(当時四十一歳)は、彼らの補佐役として、年が若く未熟な彼らのサポートをして、今回のような「明白な命令違反事件」をさせないようにフォローしなければなりません。そのサポートができなかった以上、家政の処分は免れ得ません。もっと下(NO.4以下の十将)の責任を問わなかったのは、秀吉としての温情です。

 このため、秀吉としては「家政に責任を押し付けた」のではなく、「補佐役・NO3としての家政本人の責任」として彼を処分したのです。

 

 黒田長政が処分された本当の理由は、家政の縁戚であることによる連座と梁山城放棄の同意ですが、梁山城放棄は秀吉も事後的に認めていますので、こちらはあまり重要ではないのでしょう。(追記:後日の書状を見ると、秀吉の同意なき、長政の梁山城放棄もやはり問題視されたようです。梁山城放棄を秀吉も事後的に認めているのは、「放棄してしまったものは、もはやどうしようもない」、という認識からでしょう。

 処罰の理由は、これに加えて)表面上の理由は、前に書いた通り、「先手当番を怠った」ということです。この処分理由は、以前には問題とされていませんので、理由としては後付けであり疑問が残ります。)本当、とばっちりお疲れ様です。

 

8.軍目付(早川長政・竹中重隆・毛利高政)3名はなぜ、処分されたのか

 

 さて、この2名以外に軍目付3名(早川長政・竹中重隆・毛利高政)も処分された理由はなんでしょうか。

 実は、この軍目付の3名の処分の理由は明らかです。彼らは、文禄の役の三軍目付(増田長盛石田三成大谷吉継)とは格が全然違います。長盛・三成・吉継は、元々奉行衆として豊臣公議の中核であり、その彼らが奉行兼軍目付として派遣されているが故に、幅広い裁量が結果として認められているのです。(もちろん、前のエントリーで書いたように秀吉の許容する範囲を超えると処分・粛清されてしまう危険性はあります。) 

 これに対して、慶長の役の軍目付は、文字通りの軍目付のみの権限に過ぎず、秀吉は彼らに裁量は与えていません。裁量を与えられていない早川長政・竹中重隆・毛利高政が僭越にも、十三将の独断決定を賛同・保証することなんてできません。これは、縮小案に反対した軍目付の福原長堯・垣見一直・熊谷直盛も同じことで、彼らが十三将の独断決定に賛同していれば、同じく処分されていただけです。(十三将の報告が、たまたま秀吉に認められる可能性もありましたが、それはたまたまの幸運であり、いずれにせよ、彼ら(早川・竹中・毛利)の(裁量権のない)軍目付の職分からは外れていることに変わりはありません。)

 

 軍目付として彼らが本来やるべき事は、「自分たちの出した注進状に対して、秀吉の朱印状が返信されるのは間違いないのだから、それを待たずに独断決定・実行してしまった後で、明らかにその独断決定に反する公式命令が来てしまったらどうしようもないことになる。自分たちが出した注進状の返書くらい待ちなさい」と止めることでしょう。

 

 しかし、結局彼らの独断決定に(やむを得ず)賛同してしまったら、彼らに残された手段は、ただひとつで「確かに諸将は独断決定をして、しかも後から来た公式命令にも違反しているが、これはやむにやまれず緊急に現場で判断しなければいけない事態があり、対処しなければいけなかったのだ。これを責めるのは、非現実的だ」と弁護・弁解することぐらいでしょう。

 

 ところが、死守して確保したはずの蔚山城を、やがて注進状の返信として来るであろう秀吉の命令(朱印状)を待たずに緊急に放棄しなければいけない理由は、実際にはどこにもありませんでした。少なくとも今ある史料からは全くうかがえません。彼らが、仮にそのように弁護・弁解したとしても、彼らのその弁護・弁解は成り立たず、やはり彼らは処分を免れえないのです。

 

(令和2年10月9日 追記)

 三鬼清一郎氏の『豊臣政権の法と朝鮮出兵』青史出版、2012年、p334に以下の記述があります。

「(筆者注:蔚山城救援・追撃戦後)明・朝鮮の大軍が撤退したのち、正月五日には、後続の支援軍や主だった武将が早朝から集まり、退却する明・朝鮮軍を慶州まで追撃するべきか否かについての軍議が行われている。これの内容には触れられていないが、長期にわたる苦しい籠城戦を経験した諸将は、蔚山城からの撤退も視野にいれた戦線縮小を秀吉に提言している。しかし秀吉は、蔚山城を足がかりとして、首都の漢城府を奪回し、さらに北進する希望を抱いていた。秀吉は蔚山城を、軍勢の通過点に武具・兵粮を確保しておく「繋ぎの城」ではなく、拠点強化をはかるための恒久的な「仕置の城」と位置づけていた。このような在陣諸将との現実認識の相違は、諸将の間に深刻な亀裂を生じさせた事実が知られており、関ヶ原の戦いへ連なる要因となった。」(下線部筆者)

 

在陣諸将との(筆者注:秀吉との)現実認識の相違」とありますが、前述したように、在陣諸将からの注進状は、自らの大戦果を誇るもので、「長期にわたる苦しい籠城戦」については記載していません(これは兵粮の備蓄を怠り籠城中飢えで苦しんだというのは、武将にとっては「失敗」の部類に属し、不名誉だったため自らの注進状には書かなかったからでしょう)ので、これでは彼ら在陣諸将の「現実認識」が秀吉に伝わる訳がありません。

 秀吉と在陣諸将の相違を起こさせ、諸将の間に深刻な亀裂を生じさせた原因は、彼ら「現場」にいる在陣諸将自身が秀吉に送った「不正確な」注進状自体にあったといえるでしょう。

(令和2年10月9日追記 おわり)

 

 

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 注

(*1)跡部信 2016年、p374

(*2)中野等 2006年、p335~337

(*3)中野等 2006年、p339~342

(*4)中野等 2006年、p342

(*5)中野等 2006年、p342~344

(*6)中野等 2006年、p330~332

(*7)中野等 2006年、p332~333

(*8)中野等 2006年、p333~334

(*9)中野等 2006年、p334

(*10)笠谷和比古 2000年、p135

(*11)中野等 2017年、p359

(*12)中野等 2006年、p337~338

(*13)笠谷和比古 2000年、p135

(*14)中野等 2011年、p304

(*15)笠谷和比古 2000年、p135~137、

     中野等 2006年、p339~341

(*16)笠谷和比古 2000年、p137

(*17)笠谷和比古 2000年、p135

(*18)中野等 2006年、p343

(*19)山内譲 2016年、p221 

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)

中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

山内譲『豊臣水軍興亡史』吉川弘文館、2016年