☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」の第3回目のエントリーです。
第1回目はこちらです。↓
細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」①
第2回目はこちらです。↓
細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」②
ここでは、『霜女覚書』の続きの文章について検討します。
「②一、しようさい、石見申され候は、かの方より右の様子申きたり候はゝ、人しちに出し候はん人御座なく候、与一郎(忠隆)様、おな(同)しく与五郎(興秋)様は、ひかしへ御立ちなされ候、内記(忠利)様は江戸に人しちに御座候、たゝ今こゝもと(爰元)にて人しちに出し候はん人、一人も御座なく候間、出し申事なるましきと可申候、せひ(是非)共に人しちとり候はんと申候はゝ、丹後へ申遺シ、 幽斎様御上りなされ候出候物か、其外何とそ御さしつ(指図)可有候まゝそれまて待候へと返し(事)いたすへきよし申上られ候へは、一段しかるへきよし御意に候事、
③ 一、ちやうごんと申びくに(比丘尼)日比御上様へ御出入仕候を、彼方より此人をたのみ、内せう(証)にて右之様子申こし、 人しちに御出候やうにと度々長ごん申候へ共、三斎様御ために候まゝ、人しちに出申候事は、いかやう(如何様)の事候共、中々御どうしん(同心)なきよし被仰候、又其後まいり申され候は、左様に候はゝ、うきた(宇喜田)の八郎(筆者注:宇喜多秀家)殿は与一郎様をくさま(奥様)につゝ(続)き候て、御一門中に而御座候間、八郎殿まて御出候へ、其分に而御人しちには出候とは、世間には申ましく候まゝ、左様に被遊候へと申参候事、
④一、御上様御意なされ候ハ、うきたの八郎殿は尤御一門中に而候へとも、これも治部少と一味のやうに被聞召(きこしめされ)候間、それまて御出候ても同前に候間、これも中々御同心なく候故、内せうに而のふんに而はらち(埒)明不申(あきもうさず)候事、
⑤ 一、同十六日に、彼方よりおもてむき(表向)のつかひ(使)参候而、せひ/\御上様を人しちに御出シ候へ、左なく候はゝ、おしこみ(押込)候て取候はんよし申こし(越)候、昌斎・石見申され候は、あまり申度まゝの使にて候まゝ、 此上我等是に而切腹仕候共、出申ましき由申遺シ候、それより御屋敷中の者共覚悟致罷有候事、
⑥一、御上様御意には、まことおし入候時は、御じがひ(自害)可被遊候まゝ、其時はしやうざいをく(奥)へ参候而、御かいしやく(介錯)いたし候様にと被仰候、与一郎様 御上様をも人しちには御出し有間敷(あるまじく)候まゝ、是ももろ共に御じがいなされへきよし、内々御約束御さ候事、
⑦一、しようさい・石見・いなどみ(稲富)両人たんかう(談合)ありて、いなとみにはおもてにててき(敵)をふせ(防)き候へ、其ひまに 御上様御さいこ(最期)候様に可仕由たん合御座候故、則いなとみはおもての門へ居申候、則其日の初夜の比、てき御もん(門)までよ(寄)せ申候、いなとみは其とき(時)心かわ(変)りを仕、かたき(敵)と一所になり申候、其やうす(様子)を昌斎きき、もはやなるましきとおもひ、長刀をもち、 御上様御座所へ参、唯今か御さいこにて候よし被申候、内々仰合候事に而御座候故、与一郎様をくさまをよひ、一所にて御はて候はんとて、御へや(部屋)へ人を被遣候へ共、もはや何方(いずかた)御の(退)き候哉らん、無御座(ござなく)候故、御力なく御はてなされ候、長刀に而御かいしやくいたし被申候事、
⑧一、三齋様・与一郎様へ御書置被成、私に御渡シ被成、被仰候は、をくと申女房と私と両人にはをちの(落退)き候て、御書置を相届、御さいこの様子三齋様へ申上候様にと御意候故、此御さいこを見捨候而はをち申ましく候間、御とも可致之由申候へ共、二人はをち候へ、左なく候ては、此やうす御存候事なるましく候まゝ、ひらにと被仰候故、御さいこを見届けしまひ候て罷出申候、内記様御ち人にハ内記様御ちのかたには内記さまへの御かたみ(形見)を被遣候、
⑨ 一、私共御門へ出候時は、もはや御やかた(屋形)へ火かゝり申候、御門の外には人大勢みへ申候を、後に承候へは、敵に而はこれなきよしに候、火事故あつまりたる人に而御座候と申候、敵参候(まいり)も一定に而候へとも、いなどみを引つれ、御さいこ以前に引たるよし、是も後に承候、則御屋にてはら(腹)をきり候人は、昌斎・石見、いわみをい(甥)六右衛門、同子一人、此分をは覚申候、其外も二三人もはてられ候よしに候へ共、是はしかと覚不申候、こま/\しき事は書付られす候間、あら/\は大かたは如此候、以上、
正保五年二月十九日 しも(黒印)」(*1)
(*三斎=細川忠興(ガラシャの夫)、忠隆(与一郎)=細川忠興の長男・嫡男、興秋=次男、忠利=三男、正保五年=西暦1648年)
金子拓氏の前掲書の要約を見ていきます。
「②ふたり(筆者注:小笠原少斎、河北石見守一成)は、細川家から人質を出す人間がいないため拒否すべきだが、是が非でもということになったら、丹後にいる幽斎に京へ出てきて(人質になって)もらうほかないので、その時間的な猶予がほしいと返事するのがよかろうとし、玉子も了承した。
③三成は、日ごろ玉子のもとに出入りしている「ちょうごん」という尼を開始、玉子に人質に出るよう何度も申しれたが、玉子は拒否した。これに対し三成は、忠興嫡男忠隆の室は宇喜多秀家と姻戚(秀家室と忠隆室はともに前田利家の娘)であるため、宇喜多邸へ入ってもらえばいいからと譲歩した。」(*2)
上記で、気が付いたことを述べます。
1.「彼方」の「記憶の塗り替え」
上記の要約での原文は「かの方」「彼方」としか書かれていませんが、金子拓氏は「三成」としています。金子拓氏に限らず、他の細川ガラシャ関係の研究書を見る限り、ほとんどの研究者の方は「彼方」を「石田三成」と解釈していると思われます。
これが事実としては間違いであること(霜女の執筆時の主観としては正しいのかもしれませんが)のは、前のエントリーで検証しました。客観的な事実としては「彼方」は「大坂の三奉行」とすべきです。石田三成は慶長五(一六〇〇)年の七月一二日から一七日の時点では、外見的には大坂方にとっても不審な行動をする要警戒人物にすぎず、大坂城における人質作戦を公然と行えるような人物では有り得ません。
霜女はこの覚書を関ヶ原合戦の始末を知り尽くした未来から書いているので、この七月一二日から一七日の時点でも、石田三成がまるで豊臣公議を代表して人質作戦を遂行できたかのように記憶を混同してしまっているのです。これが「記憶の塗り替え」です。
霜女が記憶を塗り替えてしまうのはある意味仕方ないのですし、霜女の執筆時の主観としては「三成」という記述は間違ってはいないのですが、現代の我々が、霜女の主観を客観的な事実にしてしまうのはいけないのではないかと考えます。
2.「宇喜多秀家も三成の一味」と玉子は知っていたのか?
金子拓氏の要約を続いて見ていきます。
「④しかし玉子は、宇喜多秀家も三成の一味であるからと、この申し入れも拒否した。」(*3)
このパートはなかなか興味深いです。当時から見て未来にいる現代人の私たち、またこの覚書を未来に書いた霜女としても宇喜多秀家が西軍についたことはよく知られた事実です。しかし、当時の七月一二日から一七日の間に細川ガラシャが、宇喜多秀家が西軍についたと予め知り得るのか?これまた、未来を知る霜女の「記憶の塗り替え」と考えるべきなのでしょうか?
ただ、ここで「宇喜多秀家も三成の一味であるから、この申し入れも拒否した。」のはガラシャ(玉子)なのですね。霜女の描写を信じるならば、これは当時のガラシャ(玉子)が言ったことになります。未来を知る我々や霜女ならば、この台詞になるほど、と思う訳ですが、予言者でもエスパーでもない玉子が本当にこのように述べたとしたら、これはそれなりに検証が必要だと思われます。
まず、七月一二日時点で大坂方(三奉行衆)や大坂近辺にいる大名(親徳川か反徳川か日和見か不明)や大坂城に人質としている大名家族に共通する情報は、「石田三成と大谷吉継が佐和山で兵を集めて何か不穏な動きをしている」ということでしかありません。そして、宇喜多秀家が石田三成と通謀しているという情報は当然流れていません。
しかし、石田三成と大谷吉継だけが兵を集めたところで、たかが知れております。あっという間に反乱は踏みつぶされてしまうでしょう。こんな無謀な反乱を起こすほど石田三成と大谷吉継は馬鹿だとは思えません。当然反乱を起こすには誰か背後にいるのであろう、と当時の誰もが思います。
関ヶ原の戦いがびっくりなのはこの背後にいたのが、二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)、三奉行であったことです。本来としては石田三成と大谷吉継の反乱を抑えるべきと考えらえた二大老・三奉行こそが黒幕だったのです。
しかし、七月一二日から一七日の間には大坂方はそのような態度をおくびにも出しません。当然、石田三成と三奉行と宇喜多秀家が通謀しているなどという事は外見的には知られていないはずであり、当然玉子も知らないはずです。
当時、石田三成が叛乱を起こすとした場合、誰が黒幕と世間からは思われるでしょうか?これは、前田利長なのではないかと当時の武将達からは思われていたと考えます。
元々、家康の私婚違約問題の時に、反徳川派として石田三成はじめとする五奉行及び三大老が盟主として掲げていたのが、前田利家でした。前田利家の死後、息子の前田利長は家康の暗殺計画の疑いをかけられ、討伐の対象となります。利長は弁明に努め、その結果、実母芳春院を人質として差し出すことで赦免されます。また、前田利長の縁戚にあたる細川幽斎・忠興父子にも向けられ、そのため忠興は三男忠利を人質をとして江戸に送ります。
このような流れを見ると、家康から前田家は反徳川派として一番敵対的な警戒を要する家と考えられていたのは明らかです。家康の留守に何か反乱を起こすとするならば、候補の筆頭として挙げられるのは前田利長な訳です。その縁戚である細川忠興もそれに与する可能性があります。
前田利長も細川忠興も江戸へ人質を送っていますが、人質がいようと反乱を起こす時には起こす戦国大名もいます。(と言ってしまうと「人質の意味などないではないか」という話になりますが、実際人質が殺されるのを懸念してやむを得ず従属する大名などもそれなりにいますので、いちがいに意味がないとはいえません。少なくとも一方にしか人質がいない場合よりは効果があるでしょう。)
これゆえ、奉行衆が「外見的に」細川忠興の家から人質をとろうとするのは、別におかしいことではありません。しかし、今回の奉行衆の提示した「妥協策」はこの流れから見るとおかしな事になります。
宇喜多秀家と細川忠興が「縁戚」なのは③の金子拓氏の要約にもある通り、前田家繋がりです。前田家の縁戚であることが理由で人質に取られるならば、同じ前田家の縁戚である宇喜多家からも人質が取られてしかるべきなのではないか、ということです。しかし、宇喜多邸に入れという事は「宇喜多家からはおそらく人質は出されていない」ということになるでしょう。宇喜多家からは人質を出していないにも関わらず、細川家からは人質を出さなければいけない、という三奉行の方針に、ガラシャは三奉行の恣意と「遺恨」を感じたのではないでしょう。
遺恨とは何か。奉行衆と細川家は、七将の三成襲撃事件以前は、交流は良好でしたが事件以降険悪になります。忠興も七将の一人です。
七将襲撃事件は家康によって裁定がされましたが、その裁定は七将に一方的に有利なもので、ひとり石田三成のみが割を食う形になりました。奉行衆としては、同じ奉行の三成のみが謹慎処分を受ける家康の恣意的で不公平な裁定に内心不満だったでしょうし、なんら処分を受けない七将に対して遺恨が生じるのは当然です。
しかし、奉行衆は表面上家康と和解し、それ以後家康の実質一大老独裁体制を補佐し続けます。が、内心は憤懣やるかたない思いだったのではないでしょうか。とりわけ、細川忠興はその直前までは五奉行と足並みをそろえて前田派として行動していたはずでしたので、忠興は奉行衆から「裏切り者」と思われていても仕方ありません。
つまりは、細川家に遺恨のある奉行衆が、すべての大名家の子女を人質にする訳でもない(少なくとも宇喜多家は入っていないと思われた)のに、細川家を狙い撃ちにして恣意的に人質を取ろうとしているのだと、かえって奉行衆の「妥協策」でガラシャ方には理解されてしまったということです。
上記を考えますと、「④しかし玉子は、宇喜多秀家も三成の一味であるからと、この申し入れも拒否した。」といったエスパー的な話ではなく、
「玉子は、『宇喜多秀家も三成の黒幕が疑われる前田利長の一味(縁戚)である。そうであるにも拘わらず、宇喜多家には何の疑いもかけず、同じ条件(前田利長の縁戚)の細川家にのみ疑いをかけて人質をとろうなんて、おかしいではないか。しかも、その宇喜多家に行けというのは、更におかしい』とこの申し入れも拒否した。」という意味だと思われます。
3.人質の要求拒否は忠興の前からの命令
もっとも、人質の要求拒否は忠興の前からの命令によるものだとされる話もあるようです。そうしますと、玉子の拒否は夫の命令によるものですので、仮に奉行衆がどんな条件を付けても、結局細川家が拒否することはあらかじめ決まっていたことになります。
以下、安廷苑氏の『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』中公新書、2014年から引用します。
「慶長五年七月十七日(一六〇〇年八月二五日)、三成方の軍勢が細川家の屋敷を取り囲んだ。再三にわたる人質の要求を細川家は拒否したが、それは夫忠興の命令によるものでもあった。忠興が、妻ガラシャに対してではなく、留守を預かる他の家臣にも彼女と共に自害するよう命じていたことは、キリシタン史料にも記録されている。一六〇〇年一〇月二五日付、ヴァレンティン・カルヴァーリョ執筆の「一六〇〇年の日本年報」を見てみよう。
越中殿〔忠興〕は、名誉をきわめて重んじる人であったので、家を離れる時には他の家臣たちにもまして小笠原殿と呼ばれる屋敷の警護を担当する主要な者に、もし留守中に何か反乱が起きて奥方の名誉に危機が生じたならば、日本の慣習に従って、まず奥方を殺し、次いですべての物が切腹して死を共にすべきであると命じていた。
忠興による自害の命令は、名誉のためと考えられていたことと、それが日本の慣習であると記されている。ガラシャと共に細川邸の家臣全員に切腹を命じている。この記述からは、忠興の命令が奇異なことであるという認識は読み取れない。戦国時代の日本にあっては、このような命令は躊躇なく受け入れられるべき性質だったようである。」(*4)
とありますが、これはカルヴァーリョの誤解です。(そもそも今回の件は「留守中に何か反乱」ではありませんので、忠興が何か命令していたとして、その命令の内容に対するカルヴァーリョの推測も間違っていることになります。)
元々大坂城にいる妻子は人質のために大坂に集められているのですから、豊臣公議が出頭を命じれば応じるのが普通です。他の大名の妻子は後述するように、多くは人質として素直に大坂城天守閣へ連れていかれていますし、黒田家や加藤家のように、命令に従いたくない場合は密かに逃亡しています。命令を拒否して自害したケースは細川家の一件だけです。
これだけ見ても、カルヴァーリョの見解とは違って、この忠興のあらかじめ妻子や家臣に自決を迫る命令が、他の大名から見ても「奇異」なものであるのは明らかでしょう。ただし、細川家中の者にとっては、忠興の命令は、奇異であろうがなかろうがどんな命令でも躊躇なく受け入れられるべき性質のものだったのでしょうが。
戦国大名が、結果として家族(人質)を見殺しにする場合は確かにありますが、自ら家族(人質)に積極的に「死ね」と命令することはほとんどありません。(いまわのきわまで追い詰められた時は自決を覚悟せよ、というのはあるでしょうが、素直に出頭するとか逃亡するとか他に選択肢がある中で、他を選ぶことを許さず、一同自決を選べというのはやはり異常です。)この奇異な命令は、忠興の個人的な性格によるものと思われます。
4.他家にも展開された人質作戦
さて、この奉行衆による人質作戦、他の大名にも展開されています。
田端泰子氏の『北政所おね-大坂のことは、ことの葉もなし-』ミネルヴァ書房、2007年によりますと、池田輝政の妻、藤堂高虎の妻、有馬豊氏の妻、加藤嘉明の妻などは人質として大坂城天守閣に連れて行かれたとのことです。(*5)
よく、「細川ガラシャの自決により、大坂方の人質作戦は失敗し、大坂方は人質作戦を諦めた」という記述がありますが、実際にはそんなことはなく人質作戦は粛々と行われていたのです。
上記の大名達が結局皆東軍(家康軍)についたことを考えると、東軍についた大名達には人質作戦そのものにどれだけ効果があったかは疑問ですが、その他の大名、例えば島津義弘が西軍についたことや、前田利政が出兵を取りやめた事については大坂に人質がいた影響ではないかとも言われ、全く効果が無かった訳ではないようです。
上記に対して、黒田長政の妻と母、加藤清正の妻は大坂から逃亡し、九州の本国へ帰ることに成功しています。しかも黒田家の文書を信用するならば、黒田長政の妻と母は細川ガラシャの自決(七月十七日)の六、七日前から町人の内倉に逃げ匿われていたということです。(*6)六、七日前というと七月十~十一日になりますので、早過ぎるようにも見えますが、以下に述べるようにこれは黒田家の予定の行動です。
長政は七月五日に家康の上杉征伐軍に加わるため、伏見を発つときにすでに、家臣に対して人質を本国に連れ帰るように厳命しています。つまりは長政の妻と母の大坂脱出はその時点からの予定の行動で、七月十二日の石田三成・大谷吉継の決起とは無関係です。ガラシャとは違って七月十二日に石田三成・大谷吉継の決起の一報が入り大坂の奉行衆が人質を取る風聞が立つ前から、既に黒田家は行動を起こしていたのです。
大坂城にいる人質を本国へ逃そうとするのは、豊臣公議への反逆と見なされても仕方ない行為と思われます。なぜ、長政はそのように反逆とみなされても仕方ないような行為を敢えてしようとしたのか?
それは、おそらく長政から見ると、家康の会津討伐の真の目的は「会津討伐を理由に家康の諸大名に対する軍権を確立し、その後幕府をつくり、豊臣政権を離脱して徳川政権を作ることだ」と考えたためだと思われます。徳川家康の養女と婚姻し、縁戚となった長政は、(家康が考えているであろう)この構想を積極的に支持します。
徳川新政権が樹立され、豊臣政権からの離脱がされるならば、豊臣家に人質は置けません。長政はこの時点で豊臣政権からの離脱を決意したのです。人質を逃亡させるという重大行為の決断は、そのような意思であるとしか考えられません。それ故、大坂の人質をいち早く脱出させるように長政は家臣に命じました。もし、あてが外れてしばらく家康が豊臣政権を離脱しなくても、元々嫁は家康の養女なのですから、家康がその後の処理を何とかしてくれるでしょう。
長政の妻と母が身を隠したことで、三奉行は警戒感を高め、これが積極的に人質作戦を行わせる要因になったとも考えられます。
(加藤清正の妻については、手元の資料では大坂の屋敷からの脱出の日付がわかりませんでしたので検証しません。)
金子拓氏の要約の続きを見ていきます。
「⑤十六日、三成より表向きの使者があり、玉子を人質に出すように要請し、もし拒否すれば屋敷に押し入って連行する旨を通達してきた。小笠原・河北は、自分たちが切腹しても玉子を人質に出すまいと決断した。
⑥玉子も、三成の兵が屋敷に押し入ったときは自害すると話し、小笠原に介錯を依頼した。忠隆室も人質に出さず、一緒に自害することを決めた。
⑦小笠原・河北・稲富らは話し合い、稲富が表門で敵を防いでいるあいだに玉子が自害するという手はずだったが、稲富が変心し敵に寝返ってしまったため、小笠原は長刀を持って玉子の部屋に参り、自害の介錯をおこなった。忠隆室はどこかに逃れてしまったようですでに部屋にはいなかった。
⑧玉子が自害する前、忠興・忠隆への書き置きが霜に託され、侍女のをくとともに屋敷を逃れ、書き置きをふたりに届けてこの様子を報告するよう命ぜられた。霜はお供したいと懇願したものの、そなたたちが逃れなければこの様子を伝える人がいなくなるからという強い仰せにより、やむなく屋敷を逃れた。
⑨霜たちが屋敷の外に出たときには、建物に火の手があがっていた。門外に大勢の人がいたが、これは後に聞いたところでは騒ぎを見物しに来た人びとだという。敵兵は稲富を連れ、玉子が自害する以前に引きあげたということも後で聞いた。このとき切腹した面々は、小笠原・河北・河北甥・その子ほか二、三人であるが、はっきり憶えていない。」(*7)
(*まず繰り返しになりますが、金子拓氏の要約中の「三成」は、客観的な事実としては「奉行衆」であると筆者は考えています。ただ、霜女の執筆時の主観としては、おそらく「三成」で正しいと思われます。理由は前述した通りです。)
いくつか気が付いたことを述べます。
5.なぜ、奉行衆は人質作戦を急ぐ必要があったのか?
今まで、「彼方」は人質については「ちやうごん」という比丘尼を通して比較的穏やかな交渉をしていました。しかし、七月十六日になって「彼方」からの使いは細川家に対して、人質要求に応じない場合は屋敷に押し入って連行するぞ、という強硬手段に訴えるようになります。これは何故でしょう。
それは、おそらくこの人質作戦にタイムリミットがあったからでしょう。それは、言うまでもなく七月十七日の「内府違いの条々」発出クーデターです。広島・大坂・佐和山と離れた地域にいた毛利輝元、三奉行、石田三成・大谷吉継はクーデターの決行日をあらかじめ打ち合わせて定めていたものと思われます。それが七月十七日だったわけです。三奉行としては、それまでに人質作戦を完了させる必要がありました。
6.なぜ敵兵は玉子が自害する以前に引き上げてしまったのか?
⑧では「敵兵は稲富を連れ、玉子が自害する以前に引きあげた」とあります。なぜ、敵兵は玉子を連行しようとする前に引き上げてしまったのでしょうか?
これは、忠隆室(千世)(前田利家娘)は姉の豪姫(宇喜多秀家室)のいる隣の宇喜多邸に逃げたからだと思われます。つまり当初の「彼方」の要求通り、人質は宇喜多邸に入り、目的は達成したので引きあげた訳です。
これだけ見ると「兵が引きあげたのなら、ガラシャは自決する必要なかったのではないか?」と思う方もいるかもしれませんが、もしもの時には自決せよ、と仮に忠興に言われている場合、ガラシャとしては千世を身代わりの人質に出して自分は助かるという選択枝はなく、命令通り自決するより他なかったのではないかと思われます。
想像ですが、ガラシャは自決する前に千世を密かに逃したのではないかと、私は思います。ガラシャの父親は信長を本能寺の変で倒し、その後秀吉に倒された明智光秀です。頼るべき実家がない彼女にとって、夫の命令には逆らえません。これに対して千世には前田家という実家があります。
(おそらく自分でも理不尽と思っている)夫の命令に従うのは自分と細川家の家臣達だけでよく、息子の嫁を巻き込みたくはなかったのではないでしょうか。(忠興の自決命令の中には息子の嫁も含まれています。)
後に忠興は、宇喜多邸に逃げた千世を怒り、離縁させようとしますが忠隆が承知しなかったため、忠隆を廃嫡しました。
注
(*1)金子拓 2011年、p83~86
(*2)金子拓 2011年、p87
(*3)金子拓 2011年、p87
(*4)安廷苑 2014年、p125~126
(*5)田端泰子 2007年、p190
(*6)以下の黒田長政の妻と母の大坂脱出に関する記述は、田端泰子 2007年、p191~192を参照した。
(*7) 金子拓 2011年、p87~88
参考文献