古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三十六  秀吉死去前後に作成された起請文について

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 秀吉の死去前後の各大名が取り交わした起請文はいくつかあります。この起請文の変遷から、秀吉死去後の秀頼後見体制をどのように豊臣公議が想定して作ろうとしていたのかを伺うことができます。ここでは、主に堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』の記述を元にその変遷をみていきます。

 

 具体的には、秀吉死後の豊臣政権構想については、「二大老徳川家康前田利家)体制」か、「五大老五奉行体制」かの対立といえます。

 

1.慶長三(1598)年七月十五日の徳川家康前田利家毛利輝元起請文前書案 

 まず、慶長三(1598)年七月十五日付の徳川家康前田利家毛利輝元起請文前書案です。

 

「敬白 起請文前書之事

 

一、奉対秀頼様、御奉公之儀、太閤様御同然、不可存粗略事、

  付、表裏別心毛頭存間敷事、

一、御法度御置目之儀、今迄如被仰付、弥不可相背事、

一、公議御ためを存候上者、諸傍輩二たいし私之遺恨を企、存分に及へからさる事、

一、傍輩中不可立其徒党、公事篇喧嘩口論之儀、自然雖存之、親子兄弟奏者知音たり

  とも、えこひいきを不存、如御法度可致覚悟事、

一、御暇之儀不申上、私として下国仕間敷事、

  右条々、若於相背者、此霊社起請文、深重可罷蒙御罰者也、

           羽柴安芸中納言(筆者注:毛利輝元

      慶長三年七月十五日 輝元

       内大臣 殿

       大納言 殿

 此のおくに又七枚之牛王起請文あり、

  右ハ加賀使にての事、」(*1)

 

 内容は、「①秀頼への奉公は秀吉に対してと同様に粗略にしないこと、②法度や置目については今まで通りこれに背かないこと、③傍輩に対して私の遺恨をもたないこと、④傍輩の中で徒党を組まず、訴訟や喧嘩・口論があった場合には一切贔屓しないこと、⑤勝手に帰国しないこと、となって」(*2)おり、内容自体は、この時期以降に交わされた起請文と変わりませんが、この起請文は、以後の五大老五奉行が集団として取り交わした起請文とは違って、徳川家康前田利家から毛利輝元に個人的に出すことを要請されたものであり、「取り交わした」ものではなく、一方的に輝元が家康・利家に提出したものであることに注意が必要です。

 つまり、起請文を取り交わしている訳ではないから、起請文の約束を履行する義務があるのは輝元だけであり、家康・利家にはないことになります。大名間でも、家康・利家の輝元に対する優位を示した起請文ということです。

 家康・利家は、同様の内容の起請文を島津義久から同日もらっていますので(*3)この時点では、家康・利家は、豊臣公議の中で輝元・義久より優位(一方的に起請文を受け取る立場)な監督的立場にあることを示したことになります。

 

 つまり、七月十五日の時点では、秀吉死後の体制として、徳川家康前田利家の「二大老」体制(のちに、五大老となる毛利・宇喜多・上杉及び奉行衆は、二大老(家康・利家)の下位に位置づけられ、二大老主導の政権となる)が志向されていたのではないでしょうか。

 これは、奉行衆の中の石田三成が五月二十九日より筑前筑後に下向しており、この三成不在中に、秀吉死後以降の体制を「二大老」体制に固めてしまおうという家康の工作があったためだと思われます。

 前田利家は、後の私婚違約事件で、他の大老・奉行と共に家康の違約を糾弾していることを考えると、「二大老体制」に必ずしも積極的ではなく、この「二大老体制」工作は家康主導のものと考えられます。

 三成に従った是斎重鑑の『九州下向記』によると、「同年(筆者注:慶長三年)七月十五日の昼、三成が山崎を発って伏見に馬を急がせたと記」(*4)してあり、丁度三成が山崎から伏見へ急行している間に、上記の起請文は作成されたことになります。

 矢部健太郎氏は、上記の起請文について『関ヶ原合戦石田三成』で以下のように述べています。

「輝元が、家康・利家に提出した起請文の控えである。このような形式のものは島津義久も同日付で作成しており、在京していた諸大名がそれぞれ作成したものと考えられる。ここで思い出したいのは、秀次事件時に作成された起請文の宛所が家康・利家らではなく、三成・長盛らの「奉行衆」だったことである。そのことを踏まえると、ここで家康・利家が宛所になっていることは、「奉行衆」の豊臣政権内の地位を相対的に低下させかねない、危険な兆候だったといえよう。そして、こうした状況は、秀次事件の時に起請文作成を主導した三成が、畿内に不在であった隙を突くように進んでいた。このような変化を、三成は九州において予想することができただろうか。」(*5)

としています。 

 三成の帰洛後、「五大老五奉行派」の巻き返しがはじまります。

 

2.慶長三年八月五日の五大老五奉行起請文取り交わし 

 八月五日付で、「五大老」「五奉行」は互いに起請文を交わします。 

 堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』から下記引用します。

「秀吉死去直前の慶長三年(一五九八)八月五日、「五大老」と「五奉行」は互いに起請文を交わしている。そこで「五大老」は、秀頼へ忠誠を誓うこと、法度・置目を遵守すること、徒党を作らないことなどを誓っているが、中に「五大老」が知行宛行について誓約している箇条がある。ただし内容は家康とそれ以外の「大老」で異なっている。個々にみていきたい。

一、御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事、

 これは家康が「五奉行」に差し出した起請文前書の一部である。秀頼成人以前における「知行方之儀」については、どのような者から「御訴訟」-ここでは知行の加増を求める訴えをさすのであろう―があっても家康は決してこれについて「申次」を行わず、ましてや自身の知行などは決して要求しないし、たとえもし知行を与えると言われようとも、これを拝領しないとしている。

 これに対して、他の「大老」はどうであったか。

一、御知行方之儀、秀頼様御成人之上、為御分別不被仰付以前ニ、諸家御奉公之浅深二ヨリテ、御訴訟之子細モ有之ハ、公儀御為ニ候条、内府(徳川家康)并長衆五人致相談、多分二付而随其、可有其賞罰候、但、手前之儀者少モ申分無御座事、

 自身の加増は一切要求しないとしている点は同様だが、「御訴訟」があった場合には、「諸家御奉公の浅深」を勘案した上で家康および「長衆」-ここでは「五奉行」を指す-と相談し、その多数決によって決するとしている。(中略)

 つぎに内容に目を向けてみよう。注目されるのは、家康以外の「大老」には「御訴訟」を取り上げられることが認められているのに対して、家康にはそれがまったく認められていない点である。もっとも、家康は前田利家ら他の「大老」から相談を受ける立場であり、その意味では特別な敬意が払われているとも解釈できようが、相談を受けるのは「五奉行」も同様であった。むしろ訴えを一切取り次げないとされたことの意味は大きい。すでに内定していた朝鮮からの撤退によって、続々と帰国するはずの諸大名が、朝鮮での苦闘や財政的困難を理由として加増を懇望してくる可能性は大いにあろう。この取り決めによって、知行の加増などを求める者は、家康を頼みとすることができなくなったのである。(中略)

 整理すると、つぎのようになる。まず、家康が知行加増に関する「訴訟」の窓口になることを禁止することによって家康と大名との関係を絶つ。しかしながら、他の「大老」を窓口になることができるのに家康のみそれができないというのでは、家康としても不満であろうし第一公正さを欠くことになる。そこで、家康には、合議に常時参加する権利を特別に認める事によって不満を抑える。ただし、決定権は家康や窓口になった「大老」にはなく、数に勝る「五奉行」によって完全に掌握されていた。(筆者注:上記起請文「一、御知行方之儀、秀頼様御成人之上、為御分別不被仰付以前ニ、諸家御奉公之浅深二ヨリテ、御訴訟之子細モ有之ハ、公儀御為ニ候条、内府(徳川家康)并長衆五人致相談、多分二付而随其、可有其賞罰候、但、手前之儀者少モ申分無御座事、」とあるように、知行に関しては、「窓口」となった家康以外の大老一人+大老徳川家康+五奉行(ここでは「長衆」)の七人の多数決で決するとあり、(七票中五票を持っている)五奉行の意向なくして、知行宛行の決定はできないことを示しています。)こうしてみると、三成らは極めて巧妙に家康の力を抑制しようとしていたと言うことができよう。「五大老」・「五奉行」成立当初において、知行宛行に関する決定権は実質的には「五大老」ではなく「五奉行」にあったのである。」(*6)

(令和元年11月10日 追記)

(上記の起請文をみると、徳川家康が、秀吉死去後、小早川秀秋の復領や島津氏の加増の「申次」をしたという「俗説」はありえない事になります。)

 

 また、「慶長三年八月五日付で、「五奉行」が徳川家康前田利家の二人の「大老」に宛てた起請文の一節には、

一、御法度・御置目等諸事、今迄之コトタルヘキ儀勿論候、并公事篇之儀、五人トシテ雖相究儀ハ(徳川)家康・(前田)・利家得御意、然上ヲ以急度伺上意可随其事、」(*7)とあります。

 この一節は、一見徳川・前田両大老を立てているように見えますがそうではなく、①太閤の定めた御法度・御置目等が(五大老五奉行体制でも)優先される事の確認、②五人で「相究」ることができるのであれば、家康・利家の「御意」を得る必要はなく、五奉行のみで判断できるとした起請文といえます。

 

 上記の起請文が交わされた八月五日は、秀吉の豊臣秀吉自筆遺言状が作成された日であり、その遺言状には、「五人のしゆ(筆者注:五人の衆=五大老の事)たのミ申候〱、いさい五人の物(筆者注;五人の物=五奉行の事)二申わたし候、」とありますので、秀吉の死後体制が五大老五奉行制で確定した日といえます。(秀吉の遺言状については、以下のエントリー参照↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 秀吉の遺言で「五人の物」に伝えられた「いさい」を元にしてこの八月五日の起請文は作成され、取り交わされたといえます。

 結局、七月から始まった、秀吉死後体制を巡る「二大老派」と「五大老五奉行派」の対立は、八月五日の秀吉の遺言により「五大老五奉行派」の勝利で確定したことになります。

 

3.慶長三年八月十一日付の五大老五奉行起請文 

 堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』から下記引用します。

「「奉行」・「年寄」文言を用いている史料のうち、もっともはやい時期に作成されたのは慶長三年(一五九八)八月十一日付の「五奉行連署による起請文である(「五大老宛」)。秀吉死去七日前のこの日、「五大老」と「五奉行」は、秀頼への奉公や両者の間に隔心なきことなどを互いに誓約し、起請文を交わした。このうち「五奉行」が「五大老」に出した起請文の一文には「今度被成御定対五人之御奉行衆、不可存隔心候」とあるが、これが「五奉行」が差し出したものということを考えれば、「五人之御奉行衆」とは、「五奉行」ではなく徳川家康ら「五大老」を指し示していることは確実であろう。つまりこの史料は、「五奉行」が「五大老」を「奉行」と呼んだものということになる。」(*8)

 

 八月十一日の起請文は、いわゆる「五奉行前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家)」(彼らの自称では「年寄」)が、「五大老徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元上杉景勝」を豊臣公儀の「奉行」として位置づけ、その権力を制約しようとしたことに狙いがあると考えられます。

 

4.慶長三年八月二十八日の四奉行宛毛利輝元起請文

 堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』から下記引用します。

「 敬白 起請文前書之事

 太閤様御他界以後、秀頼様へ吾等事無二ニ可致御奉公覚悟候、自然世上為何動乱之儀候「共、秀頼様御取立衆と」胸を合、表裏無別心可遂馳走候、太閤様被仰置候辻、自今以後不可有忘却候、各半、於于時悪やうに申成候共、無隔心、互ニ申あらハし、幾重も半よきやうに可申合候、若於此旨偽者、

        安芸中納言

 慶長三年八月廿八日 輝元

  増右

  石治 右けしたる分・はしめの案・かた付ハ治少より也、使安国寺、

  長大

  徳善

 

(中略)

 ところで、この前書案には見せ消ちがなされており、カッコを付けた「共、秀頼様御取立衆と」という部分が消されて、代わりに「而、もし今度被成御定候五人之奉行之内、何も 秀頼様へ逆心ニハあらす候共、心々二候て、増右・石治・徳善・長大と心ちかい申やからあらハ、於我等者、右四人衆と申談、秀頼様へ御奉公之事」という一文が右側行間に書き加えられている。ここでいう「奉行」とは「五奉行」ではなく「五大老」を指しているので、意味は、今度定められた「五大老」のうち、たとえ秀頼へ逆心を持つということではなくても、もしも増田長盛石田三成前田玄以長束正家と心を違える者があれば、自分(毛利輝元)はこの四人と協力して秀頼へ奉公する、となる」(*9)としています。

 

 また、堀越氏は以下のように述べています。

「実は、毛利輝元が書いた慶長三年七月十五日付徳川家康前田利家宛起請文前書と同年八月二十八日付「四奉行」宛起請文前書は一紙に記されているのである。(中略)

 となると、日付から考えても、八月二十八日付「四奉行」宛起請文前書案を輝元が送ったとき、七月十五日付の徳川家康前田利家宛起請文前書の内容も同時に三成の目に触れたということになる。一紙に書かれているのだから当然である。つまり輝元は、自分が家康と利家に差し出した起請文前書の文面を、三成にわざわざ見せていたのである。

 七月十五日の起請文には、とくに内密にしておかなくてはならないような特別な内容は記されていない。しかし、この起請文は「五大老」と「五奉行」が集団として取り交わしたものではなく、あくまで個人的に出したものなのだから、三成に見せなくてはならない理由はないはずである。あるいは三成は、前田利家安国寺恵瓊から、輝元が家康・利家に起請文を差し出したということを伝え聞いたのもかもしれない。そしてその起請文の内容を自分に教えるように輝元に要求したのであろうか。もしそうでなければ、輝元は何ら求められていないのに、自分が書いた起請文の内容を自発的に三成に見せたということになろう。

 いずれにせよ三成は、家康・利家に出した輝元起請文前書を見た。見たうえで、自身に宛てて出すように要求した起請文の文案を修正・加筆した。当初の案にある「秀頼様御取立の衆」という文言も、これでは家康らを指す者とも解釈できる。だからこそ訂正し、自分たちの四人の「奉行」の名を明記する必要があったのだろう。」(*10)

としています。

 

 七月十五日付の起請文では輝元が家康・利家に一方的に提出したため、輝元が家康・利家の下位に位置付けられることになりました。この後、八月五日の秀吉遺言により輝元は、家康・利家と同位の五大老となりましたが、七月十五日付の起請文は残ります。このため、三成・輝元は、この七月十五日付起請文の効果を打ち消すために、八月二十八日付の起請文を提出させる必要があったといえます。

 五奉行のうち浅野長政がいないのは、長政と三成とは不仲で、また、三成らが警戒する徳川家康と関係が深かったためと考えられます。

(ちなみに、長政と三成・長盛が不仲になった理由については↓参照)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 この起請文が作成された、八月二十八日には上杉景勝を除く家康ら「大老」が、朝鮮在陣中の諸将に充てて、連署状を発しています。この連署状で、将兵の帰還を迎えるため、毛利秀元浅野長政石田三成を博多へ下向させることが告げられています。(*11)

 石田三成は九州に下向し、上方をしばらく留守にする必要がありました。この間に徳川家康が色々画策するおそれがあり、三成の取次先であり、昵懇の大老上杉景勝が、未だ上方に到着していないため、同じく取次先の大老である毛利輝元と同盟関係を深め、徳川家康を警戒してもらう必要があったため、この日に起請文を輝元に提出してもらう必要があったのだと考えられます。(実際に、上杉景勝が伏見に到着するのが十月十七日頃です。)

 

 特に、八月二十八日の起請文は、「何動乱之儀候=何か動乱が起こった場合」を想定した起請文であることに注意が必要です。実際に予想される「動乱」というのは、クーデター等が考えられます。秀吉が死去した(八月十八日)直後の混乱した時期です。秀吉公儀を守らければいけない奉行衆が、ここで気をつけなくてはいけないのは秀吉死去の混乱に乗じたクーデターといえました。(秀吉の死去は公表されていませんでしたが、既に秀吉の死の直前から風聞は広まっていました。)

 クーデターを起こす人物が、「君主を打倒するぞ」等と、堂々逆心を宣言して動乱を起こす可能性は極めて低く、ほとんどの場合は君主の側で補佐している家臣を、理由をつけて排除し、自分がその座に成り代わり、兵を乗り込ませて首城を乗っ取るとか、動乱を自ら起こしておいて、「動乱が起こっているから危険だ!」といって兵を率いて首城に乗り込んで占拠してしまうとか、更に「ここ(首城)は危険だから、君主を避難させないと!」とか言って君主を無理やり自分の勢力圏へ拉致するとかの可能性があります。(他にも色々クーデターの手法はありますが。)

 いずれにしても、クーデターを起こす人物は、はじめは一見「正当な理由」を述べて兵を動かす訳で、その時、君主の周りにいる人物達も、果たして兵を動かしている人間は、本当に正当な理由で兵を動かしているのか、邪な虚偽の理由で兵を動かしているのか、即時に判別できない場合がある訳です。その場合は、よく事情も分からないまま、その人物の命令が正当と思ってクーデターに参加してしまう人物が出てくるケースも出てきます。(その命令した人物が、その国のNO.2の実力を持つ人物ならなおさらのことです。)

 このため、もし不測の事態が発生したときに、輝元がクーデター側につかないように、また、こちらの味方になるように四人の奉行衆は、あらかじめ輝元をつなぎとめる必要が出てきたということです。

 このような危機的な時期に上方を離れなければいけなかった三成の心労ははかりしれないものがあります。かといって、朝鮮からの撤兵も秀吉死後の最優先課題といえます。朝鮮出兵兵站基地である筑前筑後の代官となっている、石田三成浅野長政が九州下向するのもやむを得ない処置です。

 三成は、上方を三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)と、毛利輝元に託して、九州へ出発することになります。

 

 なお、上記の起請文を「御掟」違反(「一、大名少名深重令契約、誓紙等堅御停止事、」)(*12)にあたるのではないかと、指摘される方がたまにいますが、これが「御掟」違反となると、この前の1.の、七月十五日付徳川家康前田利家毛利輝元起請文も「御掟」違反ということになってしまいます。

 秀吉死去前後の状況で作られた起請文が「御掟」違反となるという意識は、五大老五奉行ともになかったと考えられます。

 

(令和2年9月26日追記)

 大西泰正『宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性』平凡社、2020年、p124~125に上記起請文について言及した下記の記述がありますので、引用します。

「念のため補足しておくが、この史料は、秀吉の死去前後に「大老」らが提出した起請文の一通で、政権=秀頼への忠誠を誓うのが目的である。私的徒党を組むためではないので、大名相互の起請文交換を禁じた「御掟」には抵触しない。家康や利家・秀家らも五「奉行」を宛所にして同趣旨の誓いを立てている点(「慶長三年誓紙前書」)、同年七月十五日付で家康・利家に宛てた起請文(前書)と一緒に書き留められている点からも明瞭だが、この史料によって毛利輝元が四「奉行」と私的な盟約を結んだわけではない。彼らは便宜上、政権組織の一部としての「奉行」たちを、おそらく相互監視の意図もあって宛所に設定したのである。」

(令和2年9月26日追記 おわり)

 

5.慶長三年九月三日の五大老五奉行連署起請文起請文

 そして、三成が九州へ出発する前の九月三日、五大老五奉行連署起請文が発せられます。

 以下、矢部健太郎氏の『敗者の日本史12 関ヶ原合戦石田三成』より引用します。

「 敬白霊社上巻起請文前書之事、

 

 一、秀頼様御為存候ハ、諸傍輩ニ対し、私之遺恨を企、不可及存分事、

 一、此連判之衆中二対し、誰々讒言之子細在之共、同心不可申候、何時も直ニ申理

   可随其候、自然不相届儀承付候者、無隔心可令異見候、事ニより同心無之候共、

   遺恨二者存間敷事、

 一、傍輩中不可立其徒党候、公事篇喧嘩口論之儀雖有之、親子兄弟縁者親類知音奏

   者たり共、依怙贔屓を不存、如御法度可致覚悟事、

 一、此衆中之うわざあしさまにニ被申聞仁於有之者、即其申主をあらハし、互可申

   届候、左様ニ無之候而、拾人之外別人を近付、此衆中之うしろ事あしさまニ取

   沙汰申間敷事、諸事御仕置等之儀、其経(軽)重をけつし、十人之衆中多分二

   付而可相究事、

 一、拾人之衆中と、諸傍輩之間ニおゐて、大小各ニよらず、何事ニ付ても、一切誓

   紙取りかハすへからす、如此相定上、若誓紙取りあつかい仕候衆ニ到てハ、其

   徒党を立、逆意之其眼前候条、各相談仕、曲事ニ可被仰付候事、

 一、対秀頼様、誰々悪逆之子細雖有之、出しぬきの生害不可在之、其罪科之通、申

   届、理之上を以可有御成敗、縦其身にけのひ候共、其在所へおしよせ、可被加

   御成敗事、

    以上

 右条々各私曲偽於有之者、忝モ此霊社上巻起請文之御罰、各深厚二可罷蒙者也、仍前

 書如件、 

       慶応三年九月三日

 

                        長束大蔵太輔(正家)(花押)

       (毛利)輝元(花押)       石田治部少補(三成)(花押)

       (上杉)景勝(花押)       増田右衛門尉(長盛)(花押)

      (宇喜多)秀家(花押)       浅野弾正少弼(長政)(花押)

       (前田)利家(花押)       徳善院(前田玄以)(花押)

       (徳川)家康(花押)

 

 秀頼への奉公を誓い、讒言や喧嘩口論・勝手な起請文取り交わしを禁止するなど、これまでの起請文と重複する内容も多くみられる。それをなぜこの時点で改めて確認したのだろうか。その理由を示唆するのは、長束正家以下の発給者側五人のみならず、宛先の位置にある輝元以下五名までもが花押を据えていることにあろう。すなわち、この起請文作成の最大の意義は、前書部分にもみえる「拾人(十人)」が相互に内容を確認し合ったこと、そして秀頼政権を支える「十人之衆」がこの時点で確定されたことにある。この翌日、浅野長政黒田長政へ九州下向の旨を伝えていることをみると、三成・長政らの下向は、こうした新体制確立の保証によってようやく可能となったものと考えられる。」(*13、下線部筆者)

 また、「諸事御仕置等之儀、其経(軽)重をけつし、十人之衆中多分二付而可相究事、」とあるように、「諸事御仕置之儀」は、「十人之衆中多分二付而可相究事」と十人の衆の多数決で決せられることになったのが大きな意味があるといえます。これは、五大老五奉行のうち誰か一人で暴走して独裁できないようにした措置といえるでしょう。その暴走する可能性がある人物として四奉行から想定されていたのは、徳川家康という事になります。

 

 前にも述べたとおり、七月の時点でも、石田三成が博多へ出向いていた隙をついて、徳川家康は、秀吉死後の体制を「二大老体制」とすべく、大名から起請文を提出させることで、既成事実化しようとしていました。これが、帰洛後の石田三成の巻き返しにより、八月五日の最終的な秀吉の遺言として「五大老五奉行制」が秀吉死後の体制として確立することになります。

 前回も三成の九州下向中に家康は工作をしていた訳で、今回、また三成九州へ下向する際に、家康がなんらかの多数派工作を仕掛けてくることは予想できることです。これを阻止するための起請文といえるでしょう。

 果たして、三成らの九州下向中に、徳川家康は大名家を足繁く訪問し、そしていわゆる「私婚違約事件」を引き起こします。三成が懸念したとおりの動きを、三成の留守中に家康は行動したわけです。

 

 

徳川家康石田三成は仲が悪かったのか?」という問いがあります。秀吉の生前は特に石田家と徳川家は仲が悪いという訳ではなく、一定の交友関係もあったと言えます(ただし、「公的な」交流はなかったようです)(以下のエントリー参照↓)が、

koueorihotaru.hatenadiary.com 

 秀吉の死去直前の、慶長三年七月の家康の「工作」に警戒した三成は、その後の巻き返しで、八月五日に「五大老五奉行」体制を認める秀吉の遺言を引き出しています。この十人の衆の体制は、九月三日の起請文でも分かるように、家康が暴走して独裁体制にならないように残りの九人が監視・牽制する体制といえます。当然家康が望む体制ではなく、その後、家康は五大老五奉行体制を崩壊させるための行動をするようになります。

 

 このため、家康が望まない「五大老五奉行」体制を進めた石田三成は、家康からみれば遺恨の対象であり、政敵であり、排除の対象となる事になります。

 結局、秀吉死去の直前から石田三成徳川家康の仲は、実際に、急速に悪化したというのが事実という事でよいかと思われます。「秀吉死後、三成と家康の関係は特に悪くなかった(むしろ親しい関係であった可能性もある)」という説は誤りということになります。

(令和元年11月9日 追記)

 毛利重臣内藤隆春が息子の又二郎元家に宛てた慶長三年九月二日付書状には、「太閤様御事、去廿三日被成御遠行(筆者注:実際に秀吉が死去した日は八月十八日です)之由候、然者五人之奉行と家康、半不和之由ニて、」とあり、実際に秀吉死去直後から五奉行と家康の関係が不和になっていたことが分かります。(参考文献:中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)、p380)

 

 以前、「石田三成は、しばらく「徳川派だった?」というエントリーを書いたことがありました。このエントリーを書いた時点では、石田三成徳川家康は秀吉の死後も、しばらく仲が悪かった訳ではないのではないか、というのが筆者の見解でした。↓

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 この見解は、「五大老五奉行制」の遵守を目指す石田三成に対して、家康も秀吉の遺言・起請文を守り「五大老五奉行制」の遵守を目指していていたならば成り立つ話であり、家康は秀吉死後から「五大老五奉行制」を崩壊させることを企図して行動しているのはその後の動きから明らかですので、「五大老五奉行制」の遵守をはかろうとする三成は、秀吉の死去直前から家康から敵視されていたといえるでしょう。

 このため、三成の方で家康に対して(ただし、家康が「五大老五奉行体制」を遵守する限りにおいて)友好関係を保とうとしても、家康本人及び家康を「豊臣政権唯一の執政」として擁立したい勢力にしてみれば、三成は明らかに「家康単独執政体制」を阻む敵対勢力の筆頭であり、秀吉死後に三成と家康が親しくなる余地はなかったといえます。

 ただし、この時期の三成の目的は、あくまで「五大老五奉行体制」の遵守であり、その体制の中には家康がもちろん入っています。

 この時期から、三成が徳川家康を打倒しようとしていたとか、あるいは徳川家康を暗殺しようとしていたという説がありますが、そうした説を裏付ける一次史料はありません。こうした説は、根拠のない説ということになります。

 

 注

(*1)堀越祐一 2016年、p200~201

(*2)堀越祐一 2016年、p202

(*3)藤井治左衛門 1979年、p52~53

(*4)矢部健太郎 2014年、p127

(*5)矢部健太郎 2014年、p131

(*6)堀越祐一 2016年、p163~167

(*7)堀越祐一 2016年、p179

(*8)堀越祐一 2016年、p126

(*9)堀越祐一 2016年、p202~203

(*10)堀越祐一 2016年、p204~205

(*11)中野等 2017年、p377

(*12)堀越祐一 2016年、p114

(*13)矢部健太郎 2014年、p144~146

 

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1979年

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

矢部健太郎『敗者の日本史12 関ヶ原合戦石田三成吉川弘文館、2014年