古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二十一 宇喜多騒動とは

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※前回のエントリーです。↓

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 それでは、宇喜多騒動について述べます。

 

1.宇喜多秀家の大名権力確立

 

 天正年間(1573~92)末期から文禄年間(1592~96)にかけて宇喜多秀家は、豊臣政権=秀吉を後ろ盾にして、自身への集権化を進め、領国支配体制の確立を進めます。

 大西泰正氏は、この宇喜多支配体制の確立への行程を4点に整理しています。

 

A.豊臣秀吉の後援のもと家中統制を強化(領国支配体制の確立)

B.叙位任官によって秀家-有力家臣の主従関係・序列を明確化

C.有力家臣から実務に秀でた側近(「直属奉行人」)への領国支配主導権の移行

D.惣国検地による土地所有権の秀家への集約(「家臣独自の土地所有を否定」)と家中の再編(*1)

 

 特に、D.の惣国検地と家中再編により、宇喜多家の総石高は増加し、土地支配権は大名の秀家に集約され、大名蔵入地(直轄領)は大幅に増加することになります。

 一方で、宇喜多家の三家老(岡・長船・富川(戸川)家の三家)以下家臣団は所領の移転(所替)ないし分散を強いられ、在地領主の性格を失い、秀家との主従関係も強化されます。

 しかも、新たに決定した石高は、実際よりも過大に設定され、多くの家臣が実質的な減収と軍役負担の増大を強いられました。(*2)

 

 惣国検地により、それまでの既得権力を削がれた宇喜多家の有力家臣達の不満・憎悪は、検地を取り仕切った中村家正らの直属奉行人へ向けられることになります。

 

 そして、慶長三(1598)年秀吉が死去し、その後、宇喜多家を後援していた豊臣公議奉行衆が(石田三成浅野長政の謹慎等により)失権する事により、豊臣大名・大老としての秀家自身の権力も弱体化することになります。

 

 この秀家の権力が弱体化した頃合を見計らって、それまでに溜まっていた宇喜多家有力家臣達の不満が、慶長四(1599)年末に爆発し宇喜多騒動へと発展していきます。

 

2.宇喜多騒動の展開

 

 以下、大西泰正氏の著作を参考に、宇喜多騒動の概要をまとめます。(*3)

 

① 慶長四年(1599)の末、秀家の有力家臣、浮田左京亮・戸川達安・岡越前守・花房秀成らが、大坂城下の左京亮邸に集結、武装して立てこもります。(浮田左京亮は宇喜多秀家の従兄弟です。宇喜多詮家と呼ばれることが多いですが、大西泰正氏は「詮家」という名は後世の創作としています。(*4))

② これより前に、宇喜多秀家が直属奉行人として重用していた側近中村家正の成敗を彼らは企てていますが失敗、大谷吉継榊原康政徳川家重臣)らがその仲裁を試みるも、失敗しています。

③ 翌年正月五日には、京都太秦に隠れていた中村家正が左京亮らの一党に襲撃されます。家正は所用のため、大坂住吉に出かけており、危うく難を逃れます。

④ 正月九日、伏見の秀家邸で磔刑者がありました。左京亮らの関係者とみられます。

⑥ 大坂の徳川家康が調停に乗り出します。正月のうちにいったん騒動は収束しました。『当代記』によると、このとき、大谷吉継は秀家に道理のあることを主張し、家康は左京亮らを弁護したといいます。

⑦ 家康による裁定の結果、浮田左京亮・岡越前守・花房秀成らは備前へ下国、戸川達安らは武蔵国岩付へ送られます。

⑧ 五月に、宇喜多秀家と有力家臣は再び衝突。五月中旬には決着が付きます。この結果、岡越前守・花房秀成が秀家のもとを離れ、大和国に移ります。

⑨ こうして、秀家に反抗した有力家臣は浮田左京亮を除き、すべて宇喜多家中を去りました。その想定知行は十四万石余りにも及んだということです。「直属奉行人」中村家正らも、宇喜多家を退去します。

 宇喜多家中の人材不足は深刻なものとなり、秀家は騒動には中立の立場を守った明石掃部(一般に、明石全登と呼ばれますが、全登は後世につけられた名称とのことです。)を領国指導者に抜擢します。

⑨ さっそく明石掃部は、上方で知名の侍多数を宇喜多家中に召し抱えるなど家中の立て直しをはかりますが、領国支配を立て直す時間的余裕もなく、関ヶ原合戦を迎えます。

 

3.宇喜多騒動の影響

 

 宇喜多騒動が及ぼした影響について、以下に書きます。

 

① 宇喜多騒動で多くの有力家臣が離脱したことにより、西軍の主力軍となったはずの宇喜多軍は、牢人衆を中心としたものにせざるを得ず、弱体化したということです。

 これが、関ヶ原の戦いので西軍が敗れた原因のひとつになったとされます。

 ② 宇喜多騒動に参加した家臣のうち、浮田左京亮と戸川達安は、関ヶ原の戦いの際に東軍(徳川軍)につきます。 

 

 浮田左京亮は、上杉討伐のため、東国に宇喜多本隊よりも先に出陣して徳川軍に合流しており、そのまま七月十七日の内府違いの条々発出以降も、宇喜多軍には戻らず徳川軍につきました。 

 これは宇喜多騒動で秀家に反抗した浮田左京亮が、西軍決起の際に宇喜多家中に留まっているとすれば、不満分子として内部で反乱や内通を起こされかねませんので、それをあらかじめ防止するために浮田左京亮を先行させるよう、秀家が措置したという事が考えられます。

 

 戸川達安は、家康の領国である武蔵国岩付に配流されましたが、西軍決起後、東軍の一将として福島正則らと共に清洲まで西上します。

 慶長五(1600)年八月十八日付の達安の、明石掃部宛の書状(明石掃部の調略を狙ったものです)には、

「(前略)一、私(筆者注:戸川達安)はこのたびの家中騒動の処分の際、家康様に大きな恩を受けました。その上配流先の関東においても親切にしていただきましたので、妻子がそちらにおりましても家康様に無二の奉公をし、どのようなことがあっても家康様のために死ぬ覚悟です。(後略)」(*5)

という内容が書かれています。 

 この書状を見ますと、家康は戸川達安の配流先を自国の武蔵国岩付にして、その地で達安を庇護することによって、事実上の徳川家臣となるように取り込みを図ったといえます。

 ② 『慶長年中卜斎記』によると、宇喜多騒動で「大谷吉継榊原康政・津田秀正の三名が仲介に入ろうとしたが、康政は家康から叱責されて関東に追い返され、吉継と家康の仲もこの一件を契機に悪化したと」(*6))されています。

 

 その前の慶長四(1599)年九月に、家康が秀家の大坂から伏見への異動を強制している事から分かるように、秀家は家康にとっては、自らの豊臣公議の権力独占を阻む政敵でした。

 このため、宇喜多騒動を仲介する立場を利用して、秀家に反抗的な家臣の保護・取込みを図り、その事によって宇喜多家の弱体化を図ろうと、家康が企てて実行したと考えられます。

 

 こうした家康の言動を見て、吉継は家康の態度に不信感を抱き、この事がそれまで親徳川派として行動しているように見受けられた吉継が家康を見限り、関ヶ原の戦いにおいて西軍についた契機になったといえます。

 

 ※関ヶ原の戦い前の大谷吉継の動向については、以下のエントリーを参照願います。 ↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十七 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・大谷吉継も、しばらく「徳川派」だった

 

(この後、上杉征伐の阻止のために吉継は上杉との取次役として奔走しますが、結局家康は、吉継の意図に反して上杉征伐を強行に押し切りましたので、吉継の家康への不信・疑念は更に高まったことが考えられます。)

 

 次回は、七将襲撃事件以後の石田家の動向について検討します。

 

 

  注

(*1)大西康正 2017年、p45~46

(*2)大西康正 2017年、p47

(*3)大西康正 2017年、p71~75

(*4)大西康正 2017年、p26

(*5)光成準治 2009年、p217~218

(*6)光成準治 2009年、p210

 

 参考文献

大西泰正『シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家』戎光祥出版、2017年

光成準治『NHKブックス[1138]関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送協会(NHK出版)、2009年